今日は8月15日だ。この時期になると、母方の祖母が私に語り継いだ昔話を思い出す。
1945年、私の祖母は当時、17歳の少女だった。祖母の家は古くから、キリスト教(プロテスタント)を信仰していた。
戦争に突入し、植民地への締め付けが厳しくなっていったこの時代、信仰者たちにとって、最大の問題は神社参拝や宮城遥拝だった。キリスト教の中でも、プロテスタントは偶像崇拝とみなされる行為は厳格に禁止されている。
当然、神社や宮城への参拝は厳禁だ。
だが、当局の圧力によって、神社参拝や宮城遥拝を自ら行うクリスチャンたちも増えていった。そのような時代の中で、祖母の家族は、神社参拝や宮城遥拝といった「偶像崇拝」はしないと決め、祖母もそれに従っていた。
ある夏の日、祖母はいつものように宮城遥拝をさぼっていた。
さぼっている少女の姿を観て、憲兵が現われ、祖母に何故、宮城遥拝をしないのかを尋ねる。祖母は自分自身がクリスチャンであることを理由にどうしても遥拝できないことを丁寧に説明した。だが、憲兵はどうしても遥拝させようとする。
祖母は気が強い人間だったので、どうしてもできないと言うと、憲兵は怒って、出頭を命じてから、どっかに行ってしまったそうだ。
そんな憲兵とのひと悶着があってから、祖母はラジオで日本が戦争に負けたことを知った。もしも、このラジオ放送が無かったら祖母はどうなっていたのだろうか?そんなことを思うと背筋が凍る。
ラジオ放送があった8月15日の夜はとても静かだったという。
ソウルに居る日本人たちは、植民地の人たちの報復を怖れていたからだ。
祖母曰く、ソウルに居る日本人たちはすぐに居なくなってしまったという。
祖母は亡くなる寸前まで、憲兵に追いかけられる夢を観ていると言っていた。
憲兵に捕まれば、何をされるか分からない。実際に神社参拝や宮城遥拝を拒否して亡くなった牧師まで居た。それほどまでに恐怖を身近に感じる時代だったということだ。
韓国では8月15日を『光復節』と呼んでいるが、大日本帝国によって、自由を奪われていた植民地の人々にとってはまさに「光が復び戻った日」であるのだ。
そのような文脈を知らない人たちがかなり多い。この時期の終戦記念日の特集を観ていると、植民地の人々の話は「終戦記念日」の語り継ぎの中で余りされていないということがあるからだと思う。
この時期は、「日本人」だけの戦争体験ばかりが語られるが、あの戦争の当事者は「日本人」だけではない。
今の日本の終戦記念日の語り継ぎは「日本人の語り継ぎ」のみに限定されてしまって、「帝国」や「植民地の人々」を語らないまま、ただ、単に「あの時代は不幸だった。」とするだけの記念式典になっているのではないか。
あの時代、懸命に生きた人々の生は一体、何だったのだろうか。
私は「日本人の語り継ぎ」のみに限定されない終戦記念日の語り継ぎの中に、信仰の自由の素晴らしさを見出した。それは同時に、8月15日を信仰の自由の無い社会にしないと誓う日だ。
近年、特攻をむやみやたらに、美化する風潮があるが、青年たちに特攻を命じた体制を肯定するために特攻隊で亡くなった人々を「英霊」だと語り継いでいるが、それは違うと思う。再び、戦争を起こさないようにするために特攻隊を語り継ぐことこそが、あの時代に亡くなった人々の死を「無駄死に」にしないようにする唯一の方法だ。
実は今日、「NO WAR!」と胸に書かれたTシャツを着て、靖国神社に向かっていた。その途中、明治通りで行っていたネトウヨのデモに出くわし、写真を撮っていた。
そんな私を見て、デモ隊のあるひとりが「言いたいことがあるなら言ってみろ!」と言って、私に突っかかってきた。
そうすると一斉に、デモ隊は私の方を向いた。ざっと、50人ぐらい居ただろうか。
私は騒ぎになると予感して、すぐにデモ隊から逃げた。
結局、千鳥ヶ淵戦没者墓苑しか行けず、靖国神社に行くことが出来なかった。
「語り継ぐ場」としている靖国は私の想像を超えて、もっと変わろうとしていることを体験した瞬間だった。きっと私の体験も、ここに書くことによって、誰かが語り継いでくれると思っている。