昨日、蓮舫代表が会見した。
その模様をFacebookの中継からずっと見守っていた。Facebookの中継からだと様々なコメントを見ることができる。蓮舫代表へのコメントはヘイトスピーチとしか思えないようなものばかりで、私はそのコメントの多さに戦慄した。
こんな時に、私はあることを感じる。それは「日本国籍に帰化したとしても、私は結局、植民地の人間なんだ。」ということだ。
この記者会見が始まる前、蓮舫代表にはある程度の期待をしていた。戸籍謄本は開示しないということだったし、差別主義者の求めには応じないと声高に言っていた。だが、実際は差別主義者の求めに応じ、戸籍謄本の一部を開示し、さらに蓮舫代表自身の国籍離脱の書類までマスコミ関係者にばら撒く始末。
蓮舫はとうとう、自分自身の保身のためにしか動けなかった。はっきり言えば、国会議員として日本国憲法の理念を尊重することよりも、蓮舫と同じような立場の人間が今後どうなるかよりも、自分自身の政治家人生を選んだのだ。蓮舫はただのダメな政治家だった。
だが、何より情けないのは蓮舫の言葉に感動したとか言っている、普段、リベラルさを表に出している学者たち。情けない。極めて情けない。こういう人たちにとって、蓮舫をどうするかが問題であって、私のような立場がどうなろうが関係ないらしい。
はっきり言えば、二重国籍疑惑なんていう日本の国籍法や植民地を理解していない連中と全く同等だろう。こんなリベラルを自認する連中は二度と語らないで欲しいとまで思ってしまう。
この問題の論点を言わば、日本の二重国籍の問題として語る人々が居る。はっきり言えば、このような語りは余りにも論点がズレている。何故ならば、蓮舫代表の台湾籍とは、所謂、日本が植民地とした「台湾」のことであり、それが回りまわって、中華民国籍とみなされるという複雑な経緯がある。つまり、これは日本の植民地主義の話なのだ。決して、単なる「二重国籍」の話ではない。
そもそも植民地の文脈を背負った人間は「外国人」とだなんて日本では見なされない。その昔、石原慎太郎が「三国人発言」をしたけれどもそんな現実を私は体験したことがある。
私が在日だとカミングアウトし始めた時、私の家族の話をすることになった。私の家族は極めて複雑で、祖母が4人も居る。父方に2人、母方に2人。
母方の祖母は母を生んだ祖母が日本人で、母を育てた祖母は韓国からやってきた韓国人だ。
つまり、この私は日本人のクオーターということになる。そのことを語ったところ、ある人からこんなことを言われた。
「えっー!クオーターなのに彫りが深くないじゃん!」
私は愕然とした。
そうか、日本人にとって、外国人とはそんな存在なのか。私みたいな植民地の人間は外国人やハーフなんていう括りにすら入れないのかと。
だが、その一方で、日本国民であると語ると日本国民ではないと平気で言う。
その昔、新井将敬議員という保守系の国会議員が居た。彼は朝鮮籍から日本籍を取得し、国会議員になった。だが、彼と同じ選挙区の石原慎太郎から選挙ポスターに「新井将敬は北朝鮮人」という黒いシールを貼った。
世に言う「黒シール事件」である。
この事件で石原慎太郎は謝罪したが未だに反省はしていないようだ。
結局、植民地の人間は外国人にも日本人にもなれない。
そして、この事実に目を向けようともせず、お為ごかしで何も見ようとしない人々に私は恐怖と失望を感じる。
私は蓮舫と蓮舫に群がる連中を見ながら、この二重国籍疑惑は結局、自分自身を日本人として感じるための行為だったんだなと。
蓮舫を批判することによって、日本人のアイデンティティを感じ、そして、蓮舫自身は保身のために蓮舫批判者が作ったお立ち台に乗って、戸籍謄本を開示し、蓮舫の言葉に感動した連中や二重国籍云々としか語れない連中は自身のリベラル性しか確認できなかった。
私はこんな気持ちの悪い儀式の真ん中で立つ蓮舫と群がる連中を弾劾する。
私は日本人のアイデンティティーを感じさせるための道具じゃないからだ!