君たちは『火山島』を読んだのか?

 今、芥川賞選考委員で作家の宮本輝氏の芥川賞選評が話題になっている。

宮本氏は芥川賞候補作で、温又柔さんの作品である『真ん中の子供たち』に対して、このような選評をした。

「これは当事者たちには深刻なアイデンティティと向き合うテーマかもしれないが、日本人の読み手にとっては対岸の火事であって、同調しにくい。なるほど、そういう問題も起こるのであろうという程度で、他人事を延々と読まされて退屈だった」

宮本輝芥川賞選評『文藝春秋』2017年9月号)。

 宮本氏の選評を読む限りだと、如何にも「在日文学」を他人事としてしか考えていないようにも見える。

 このような「在日文学」への態度は、今に始まったことなのだろうか。

 この問題を問う前に、日本語とはどういう言語なのか、ということを説明しなければならない。

今では、日本語の使い手と言えば、所謂、「日本民族」か、「外国人の日本語学習者」だと思われている。

 だが、その昔、日本の植民地の人々もまた、日本語の使い手だった。

 在日コリアンである私の祖父母は日本語話者であり、韓国語話者、父方に限って言えば、済州語話者でもあった。

 植民地を経験している人々の日本語はとても綺麗だ。

それは当然である。「綺麗」な日本語を使わなければ、帝国で、人と認められないことを知っていたからだ。

「代書屋」という上方落語の噺を知っている人はどれだけ居るだろうか?

あの噺の中には、済州島出身者が出て来る。そして、その済州島出身者は朝鮮語訛りの日本語を喋って、日本人の観客の笑いを誘う役割になっている。奇遇なことに「代書屋」に出て来る済州島出身者は私の父方の祖父と同郷で、この噺を聴く度に、「うちのじいさんはこんな訛りをしているというのを誰からも聴いたことがないんだが・・・・・。」という気持ちになる。関東大震災朝鮮人虐殺の時は、「10円50銭」という言葉が、朝鮮人を見分けるための合言葉になった。

つまり、日本語を「綺麗」に話すとは、時に命が掛かっていたのだ。

 私たちが使っている日本語とは、近代の歴史から考えてみると、植民地と帝国を繋ぐ言葉だった。

 だが、その言葉を植民地と帝国を繋ぐ言葉ではなくて、植民地から解放された後の惨状の中で生き抜いた人たちの言葉にした作品があった。

 その作品とは金石範さんが長年に渡って、執筆した『火山島』である。

『火山島』は日本からの解放後、朝鮮半島が混乱の時代を迎えていた中で、済州島で起きた虐殺事件である「済州島4・3事件」をテーマにした小説だ。

 「済州島4・3事件」とは、 まだ韓国がアメリカ軍政時代だった1948年に起きた、アメリカ軍政で国防を担った南朝鮮国防警備隊やその後進となる韓国軍や韓国警察、朝鮮半島の右翼集団による済州島島民の虐殺事件である。この事件で、島民の5分の1である6万人が犠牲になったと言われている。

 この事件は、韓国国内で「共産主義者の暴動」とされ、長年、この事件はタブー視されていた。だが、民主化以降、済州島4・3事件をもう一度、見直す動きが始まり、盧武鉉政権になってから、大統領自身が、済州島4・3事件における韓国政府の責任を認め、謝罪をするまでになった。

 タブー視されていたのは、韓国国内だけではない。在日社会でも語られない問題だった。この事件をきっかけに、済州島から、命からがら、日本に逃げてきた人々にとって、この問題を語ることは体制の報復や日本の入管法の関係で難しかった。私の父方の祖母も最期まで語ることはなかった。

だが、ようやく、近年になって、詩人の金時鐘さんをはじめ、この事件に関わった当事者が少しずつ語るようになった。

 当事者たちですら語れないタブーを打ち破ったのが『火山島』だった。もし、この『火山島』が日本語ではなく、韓国語、いや、朝鮮語で書かれたらどうなっていただろう。「反共」を国是として掲げ、軍事独裁政権だった韓国で、書き続けることはできなかったことは想像できる。

 私はかつて、金石範さんの講演会に行ったことがある。その席で金石範さんが主張していたのは『火山島』を韓国文学とされたくないということと、『火山島』が日本語だからこそできた文学であるということだった。

 日本語であるからこそできた文学。これほどにまで、素晴らしい文学は存在しない。

 だが、「日本文学」を愛する人々は「日本語だからこそできた文学」にどうやって向き合ってきたのだろか?

この小説は日本国内で賞を2回ほど、獲っているにも関わらず、今回、宮本氏を批判する側から金石範さんの名前も『火山島』の名前も出て来なかった。

 この問題は新しい問題として考えている人たちが多いかもしれないが、実は極めて古く、極めて新しい問題なのだ。

 日本語だからこそできる文学とは何だろう?それは谷崎潤一郎が語るような日本語の持っている「情緒性」を根拠にするのではなく、金石範さんのように政治的に、もしくは社会的に声を出しにくい人たちに救いをもたらすための文学という一面があるのではないか。

 私は金石範さんという偉大な作家がいつ評価されるのだろうか。と、いつも考えている。だが、こう考えることもできる。私は誰もが見逃している作家とその人が命をかけて紡いだ作品を私だけが知っているのはとても幸せだということだ。

 私はまだ温さんの『真ん中の子供たち』を読んでいない。

だからこそ、あえて、今回は、この作品について、語らないことにしよう。

私は温さんの作品を読まなければいけない。

だが、そんな私しか知らない金石範さんの『火山島』という作品を是非とも色々な人に読んで欲しいものだ。