分断

 やさしい笑顔は昔のままでしたが日に日に細くなっていました。冗談混じりで「あと100年生きてね」というと母方の祖母は寂しそうです。合格を伝えたときはあの笑顔に戻りました。嬉しさのあまり抱きしめたとき、骨と皮を感じました。

 両親や予備校に報告した後でした。語りかけてくる彼女の顔に刻まれた皺はいつになく深かったです。

 「お前のお父さんの家族が済州島からきたといってはいけないよ。あれは裏切り者の島だから。お前のお父さんの、お父さんの弟は北にいる。これも墓場まで持っていかなきゃダメだよ」

 ひそひそ声は部屋に響きました。わたしは振り返りましたが、祖母は何事もなかったようにテレビを点けました。

 直立不動で大袈裟な拍手をしているひとたちに囲まれていると痩せた身体と足を引きずる姿が目立ちます。スーツや軍服の中でひとりだけカーキ色のジャンパーです。

 ジャンパーの彼は喋りません。でも、演壇に上がるひとたちの話し方は役者みたいです。

 「このパルゲンイセッキ!アカ豚!日帝を作るために金九先生と戦ったんじゃない!」

 凍土の共和国を伝えるアナウンサーの声よりも車椅子の彼女の声ははっきりしていました。

 「裏切り者!人殺しのガキ!姉さんの旦那はどこに行った!」

 専門家の知的な語りとは違って、細い身体のすべてが部屋に響いています。

 祖母はテレビを消しました。「あんなやつ観たくない」と吐き捨てて。

 旅先の天気が知りたくてテレビをつけました。恰幅はよいけどあどけない後継者が映っています。彼を囲むひとたちは服に着られていました。画面のとなりの祖母の写真に挨拶して、新潟に行く高速バスの乗り場をスマホで探しました。

 ひとの息とだれかが買った酒の臭いからようやく解放されました。目の前の長蛇の列の向こうからバス乗り場の名物カレーが鼻で誘います。でも、行きたいところがありました。

 いま歩いている通りの街路樹は細い柳です。浜風でゆっくり揺れています。魚市場の広い駐車場ではわたしよりすこし若そうなひとたちが串物を食べていました。

 蔦まみれになったコンクリートの建物と煉瓦の会館がやっと観えました。会館の名前はハングルで書かれています。ひと気はありません。

 看板がありました。比較的新しいのですが細い引っかき傷ばかりです。ここから10万人以上が日本海の向こうの「祖国」をめざしたと書いてありました。目を凝らさなければ読めません。

 目の前は港です。鉄条網の前の公園で脚を休めていると、地面の白い看板に気づきました。錆びついていて、捨てられてしまったように横たわっています。覗いてみるとあの国からきた樅の木と書かれていました。

 看板を木に立てかけて、きた道を戻ります。枝がゆっくりと横に揺れていました。

 ふと振り返ると門が固く閉ざされていました。

青いユニフォームがある風景

 あの瞬間はさすがに憶えていません。でも、物心ついたときから何度も流れていました。 背番号10番が「入った」とつぶやき、7番が崩れ落ちています。いまでもこのときの映像とユニフォームは正視できません。たぶん、父もでしょう。  
 野人がまた外しました。短距離走なら金メダルですが、これはサッカーです。となりの父は名前を叫び、悪態を吐きました。
 どうしてシュートが打てない青いチームを応援するんだろう。胸に虎のマークがついた赤い代表はゴールが奪えるのに。
 彼は「住んだことがないところは応援できないだろ」とあっさり答えました。 そうです、父もわたしも青いユニフォームこそ代表だったんです。  
 体力が尽きかけている選手たちと呼ばれればピッチに立ちそうな父。1点入れば憧れの舞台ですが、埼玉からジョホールバルよりもはるかに遠いのは気のせいではありません。だれもが感じるもどかしさに8番は痺れを切らして、ミドルシュートを放ちました。キーパーが弾いたボールに反応したのはあの短距離ランナーでした。
  フランスから4年経ちました。夏休みの絵画コンクールでは日本海の向こうから作品がやってきました。わたしたちもあの子たちも日韓戦を描いていたのです。  
 楽しい時間はあっけなく終わりました。14番がフリーキックを決めていればもう少し味わえたのに

 世間は祭りの後のようでしたが、わが家は違いました。父は日本戦と同様、赤いチームの試合を欠かさず観ているんです。

 そして、画面に映ったソウルのスタジアムを観て、静かにいいました。
 「やっとここまでこれたのか」
 前半の思いがけない1点で勝利はすぐそこだと思いました。初戦は黄色いユニフォームでした。ベンチには赤い代表をベスト4に導いたあのひとがいます。後半は彼のマジックにかかりました。
 つぎのゲームは急にボールが来てしまいました。初戦のショックを引きずったままだったからかゴールは決められませんでした。
 20番がカナリア軍団に決めたゴールと茫然としたイレブンをよく憶えています。 ジョホールバルで8番だった彼は7番を背負っていました。試合が終わると寝そべって、天を仰ぎました。
  赤いチームの戦いぶりは記憶にありません。わたしと父はおなじ色の代表を応援していたからです。世界の憧れでありつづけた稀代のトップ下はわたしたちそのものでした。ベテランとなった彼のチームは勝ち上がっていきます。奮闘ぶりに2回目のトロフィーは確実だと思いました。

 心ない一言はただの挑発ではなかったのでしょう。彼のワールドカップが終わった瞬間は、時の流れが遅くなりました。

 肩を落とした10番がピッチを離れます。  
 父は遠い目をしていました。

なんでもないような、なんでもなくないような

 初夏なんてことばは古語になってしまったのでしょうか。10分歩いただけでワイシャツがびしょびしょです。Tシャツとジーパン、サンダルだったらよかったのですが、あいにくきょうは仕事です。
 いまの仕事をはじめてから2、3年ほどです。いつもはノーネクタイなんですが、偉いひとたちが集まる会はすこしだけ改まっています。
 「いつもお世話になってます」からはじまる自己紹介をしようと思ったときです。受け付けのひとが「お名前は?」と訊ねました。

 

 名前ですよね…。パスポートは金村詩恩です。使わなくなった外国人登録証には金詩恩とあります。族譜は金時恩と書いています。一瞬、だれかと思いましたけど、誕生日で気づきましたよ。
 どの名前がいいでしょうね…。すべて本名ですが。

 

 頭の中で忙しなく喋っているのに、目の前のひとはなにも知らないだろうと思いました。
 いつも使っている名前を答えると、なにごともなかったように資料をくれました。
 なんでもないような、なんでもなくないような一瞬を通りすぎると、お偉いさんたちが会の開始をいまかと待っていました。彼らも大汗でした。

まだ飲まなきゃいけない酒があるもんで

 派手なシャツと黒いサルエルパンツが似合ってました。

 デカい身体は会うたびに横へ成長していました。飲み屋で中ジョッキを一気飲みしまくっていたからでしょう。

 きょうがくるたびに彼を思い出します。

 大阪でハーフ研究をやっていたケイン樹里安とはTwitterで出会いました。彼のサイトにエッセイを寄稿してほしいとダイレクトメールをもらったんです。

 はじめて対面したのはNHKの控え室でした。『おはよう日本』の生放送で共演したんです。放送前の控え室にあったおいしいビュッフェを食べながら、修学旅行の中学生みたいにお互いはしゃいでいました。

 本番での彼は日本に住む海外ルーツの子どもについて語りました。真剣な表情で日本の人種主義を柔らかく突く姿がとても頼もしかったです。

 生放送が終わってから代々木公園で何人かと呑みました。朝のまぶしい中で缶チューハイを呑んではしゃいでいるわたしたちは夜間バイト終わりの学生だと思われたかもしれません。あのときに撮った写真はいまでもわたしのiPhoneに入っています。

 彼から社会学の教科書を作ったと連絡がきました。名前は『ふれる社会学』です。学生時代に出逢いたかったと読んで思いました。

 ケイン樹里安が東京にきました。池袋で刊行イベントをやるためです。登壇している彼はあのときみたいに柔らかいのですが、どこか控えめでした。

 終わった後の飲み会では話し足りず、ケイン樹里安と彼の大学院時代の先輩で居酒屋に入りました。

 わたしは水割りのジョッキを飲みながらいいました。

「もっと本音でいいんじゃない?」

「それなり抑えないと聴いてくれないんだよね。ハーフの子たちにおなじ苦労してほしくないから頑張んないと」

「その年齢の口だからいえることはたくさんあるだろ。遠慮しちゃダメだよ」といまならいえますが、このときは「俺たちとおなじ目には遭わせたくないもんなぁ」と答えました。

 翌年、彼とイベントをやることになりました。朝鮮半島にルーツがあるミュージシャンたちも交えたトークです。

 わたしとおなじ日本国籍の在日コリアンの友人を誘いました。国や民族に囚われない場にしたくて主催者と打ち合わせを重ねていたんです。

 「日本国籍のひとだと差別される側の気持ちは分からないかもしれないけど」

 登壇したひとりの素直なことばに、国籍で散々、差別されてきたわたしたちが、国籍で排除していいのかと怒り混じりに問いかけました。ケイン樹里安も柔らかい口調で必死にたしなめていたのを覚えています。

 友人は発言を聞いて帰りました。あのときから連絡は取れません。

 イベントが終わりました。いつもならふたりで飲みにいきますが、このときはおとなしく帰りました。無力さとやるせなさに支配されて酒が入りませんでした。

 しばらくしてからです。彼から謝罪のLINEがきたのは。わたしだってフォローしなきゃいけなかったのになにをさせているんだろう。情けない気持ちで返信しました。

 2022年5月16日は転職先の入社日でした。ひさしぶりに着たスーツは慣れません。トイレで何気なくTwitterを観たら、ケイン樹里安の死を知らせるツイートが流れました。

 「嘘だろ」

 思わずつぶやきました。コロナ禍が落ち着いたら絶対に会おう、そして、あのイベントを反省するための会をふたりでやろうと思っていた矢先でした。

 彼とは2022年になってから連絡がつかなくなっていました。博士論文に集中しているかもしれないと思って、あえて、そっとしておいたんです。悪性リンパ腫で闘病しているなんて夢にも思わずに。

 帰りにコンビニで買ったビールを一気に飲みました。ケイン樹里安みたいに。

 あれから4年経ちました。着慣れたスーツに身を包むわたしは仕事帰りです。彼の元に何度か行こうと思いましたが、いまはいいです。

 まだ飲まなきゃいけない酒があるもんで。

近くて遠い

 スッキリしました。でも、7時10分の高速バスには間に合いません。Yahoo!の乗換案内で調べたら、とりあえず、東京駅に行けばいいらしいです。Money Forwardに思わぬ出費を記録して、ため息をつきました。夕方に行く釜ヶ崎の居酒屋さんのことを考えて、気持ちを切り替えました。大阪行きの新幹線は9時半ごろに出発するそうです。

 二日酔いでした。きのうは生野の冷麺館でお昼ご飯を食べて、大阪コリアンタウン歴史資料館に行きました。キムチの展示はこれからいっしょに参加する若い友人が企画したそうです。館内で韓国からきた20代ぐらいのひとに話しかけられました。

 「どちらからいらしたんですか?」

 「埼玉です。父方は済州島からで、母方は忠清南道とソウルからです」

 ふだんは家族がどこからきたのか話しませんが、そのときはいっていました。

 釜ヶ崎の居酒屋さんにはすこし早めに行きました。揚げニンニクがおいしくて、焼酎の濃さもちょうどよかったです。いい飲み屋ほど、店にあるお酒をすべて頼みたくなってしまいます。あとから聴いたら6000円以上払っていたそうです。

 飲みすぎた身体を引きずりながら大阪のあるお寺に向かいました。4・3事件の慰霊祭に遺族として参加するためです。参加して何年になるでしょうか。なんだか分かりませんが、実家に帰ってきたような感覚でいるので、昔からいるような気持ちでいます。

 慰霊祭の前に遺族会の総会があります。いつもはわたしが最年少なんですが、今年は違いました。朝鮮学校出身で20代の彼女は最近になって身内が犠牲者だと知ったようです。泣きながら気持ちを語っていました。

 総会が終わった後は、慰霊祭の準備です。参列する皆さんのために、椅子や机を並べながら彼女と話しました。彼女は職員室に掲げられている肖像画のアイツを「主席」と呼んでいました。戸惑ってしまったせいか、身体のだるさが治りました。

 わたしは母方の祖母が若いころの金日成に会ったり、朝鮮戦争で朝鮮人民軍に指名手配されたり、戦争中に身内を拉北されたりした話をしました。朝鮮学校に通えなかった事情を素直にいいたくなったからです。そして、母方の祖母から「済州島出身なのは隠さなきゃダメ。アカの子孫だと思われるから」といわれた話もしました。

 彼女は面食らった表情をしながら「難しいですね」といいました。わたしもおなじように思っていました。

 そして、慰霊祭がはじまりました。今年もたくさんのひとがいらっしゃいました。ご住職のお経を聴いたとき、この時期がやってきたといつも思うのです。

これは感想じゃないですよ

 びっくりしました。父方の高祖父はほんとうに済州島の王さまだったんです。ブログの記事を読んでくださった方が調べてくださいました。祖母の話は聴いていましたけど、半信半疑でしたよ。「あんたは王さまの子孫だ」とか「うちは両班だった」とかなんて韓国だとありふれている話なんですもん。つぎは祖母のお兄さんの話を調べたいですね。どうやら4・3で蜂起して…

 …なんていう話をひさしぶりにお会いしたあるひとにしようと思っていたときでした。

 「書き込み読んだけど、『ハラン』観ないの?わたしの周りの在日のひとたちは観にいったみたいよ」といわれました。

 済州島4・3事件の映画が上映されるのは、Facebookで知っていました。観に行かなきゃいけないような、観たくないような。激賞する感想が流れてくるんですけど。思わず「【朝には消します】なんか嫌です。観に行きません」とポストしました。

 翌朝消したからだれも観なかったのかなと思ったんですが、どうやら読まれていたようです。

 その場では「そりゃあ、身内が殺し合う映画なんて嫌ですよ」と答えましたが、観にいってみようと思い立ちました。

 朝の5時に起きました。革靴2足をピカピカにします。新聞を読んだあとは朝ごはんを食べました。送らなきゃいけないメールがありました。急いでパソコンを開きます。そういえば、午後はひとに会うんでした。身だしなみは整えないといけません。

 Googleマップで映画館の到着予定を調べました。なんと10分遅刻です。いつもなら慌てるんですが、遅れるくらいがちょうどいいかもしれないと思っていました。

 予定通り上映ははじまっていました。予約していた真ん中の席に座ります。ネットでチケットを買うとき、真ん中以外なかったんです。席までたどり着くのは一苦労でした。

 スクリーンに4・3の光景が映っています。俳優さんたちの所作や話し方、顔立ち、すべてがきれいでした。

 あのときに生き残ったひとたちは粗にして野でしたが卑ではない所作で、湿り気のある声だったはずです。お顔も安心を与えてくれる不思議な雰囲気だったと思います。

 わたしの記憶と違うからでしょうか。観られました。

 でも、だれかが撃たれるたびに「あのひとの家族は補償の対象外だろうな。アカっぽいから。そういえば、遺族会のあのおじいさんはそうだったなぁ。わたしもだけど」と思っているんです。

 いつもは最後まで座っているんですが、スタッフロールの途中で立ち上がりました。トイレが近かっただけじゃないです。

戦争はずっと起きていました、あなたのとなりで

 小学校高学年のころだったでしょうか。戦争を経験した身内の話をまとめて、グループで発表する課題がありました。

 わたしは母方の祖母から話を聴こうとしました。1927年にソウルで生まれた彼女の経験が気になったのです。

 母に訊ねると、「おばあちゃんは朝鮮戦争を経験してるけど、太平洋戦争はどうだろう。日本とは違うしね。」と答えました。

 クリスチャンの祖母は独立運動にかかわっていました。ある日のできごとです。宮城遥拝をサボっていたら憲兵に見つかりました。憲兵と口論した挙句、彼女は出頭を命じられました。その直後に天皇の声がラジオで流れたそうです。

 教科書には載っていません。授業で観たビデオにもありません。考えた末に、おなじグループのメンバーが集めた話をまとめました。発表のときは静かにしていたのを憶えています。

 先の大戦に関する書籍を読むたびに、あの授業を思い出します。戦争を語る主語はあくまでも日本人です。

 植民地の人間はどこで語ればよいのでしょう。

 …と書いてみましたが、祖母は朝鮮戦争も経験していました。ある日突然やってきた金日成の兵隊は彼女と彼女の一族を「日帝の手先」「ブルジョワ反動分子」「反革命」と決めつけ、指名手配したんです。

 狭い半島の各地を逃げ回りました。

 抵抗のために教会をいくつも建てました。

 祖母の義兄は拉致されて帰ってきませんでした。

 祖母が亡くなる直前でした。わたしが夜、様子を観にいくと彼女が起きているんです。声を掛けたら、か細い声で「憲兵と人民軍に追いかけられる夢を観た」と答えました。母によれば昔からだそうです。

 祖母が亡くなってから数年経ちました。わたしは釜山に留学しました。バスに乗っていたときです。突然、止まりました。なにが起きたんだろうと運転手さんに聴きました。どうやら北朝鮮から攻められたときのための訓練がはじまったようでした。

 戦争は終わっていなかったんです。

 きのうは新宿にいました。革靴を買いにドン・キホーテから帰る途中で反戦デモに出くわしました。何人ものひとがペンライトを片手にシュプレヒコールを上げていました。「あなたたちのとなりで戦争はつづいているんだよ」と語りかけたかったんですが、静かに通りすぎたんです。

 エスカレーターの前にいたひとは「騒いでいるだけでいっしょじゃんね」といいました。

 「それは違うんじゃないの?」といいかけたんですが、彼女は改札の向こうに消えました。どんな表情でいったんでしょうね。声だけが耳にこびりついています。