自己を知れ

 黒みがかった雲でした。トートバッグに折りたたみ傘を入れました。どこかから吹くやわらかい風の音が聴こえます。しばらく歩くと公園に出ました。

 コンクリートとガラスの建物の先に碑がありました。

 

 安らかに眠って下さい

 過ちは繰り返しませぬから

 

 碑の向こうに揺れる灯火と、かつてこの街でいちばんモダンだったドームが観えます。灯火と鉄骨に向かって頭を下げました。

 記念樹の葉は青くて、追悼碑の周りには赤と黄色の折り鶴がたくさんありました。追悼の鐘には「自己を知れ」と刻まれていました。

 奥の石碑の礎は大きな亀です。亀の鼻先には小さな太極旗が立てかけられていました。わたしの背より高い石板に韓国人原爆犠牲者慰霊碑と刻まれていました。

 

 1945年8月6日原爆投下により、2万余名の韓国人が一瞬にしてその尊い人命を奪われた。

 

 「朝鮮のひとたちもかわいそうに…」

 年老いた声が聴こえました。「いや…韓国です…」といいかけましたが、つづきを読みました。

 透き通る空が映っています。首相があいさつしていました。

 

 我が国は、『非核三原則』を堅持しており、「唯一の戦争被爆国」…。

 

 テレビを消して、会社に行きました。看板の電気が点かないビルでキーボードを叩きます。時間になったので外に出ました。西日が差していたのはほんの一瞬でした。

 空が真っ赤に染まっていました。きょうミサイルを飛ばした北のニュースを閉じて、電車時刻のアプリを開きました。汗ばんだシャツとインナーが肌にまとわりついています。駅のトイレの小便器が埋まっているだけです。個室に入るのは簡単でした。

 洗面台の前には「NO WAR」と胸に書かれた黒いTシャツ姿のわたしと、となりのサラリーマンの怪訝な表情が映っていました。

 Tシャツの文字が隠れないようにリュックを背負いました。

帽子

 頭をすっぽりと覆う毛皮の帽子でした。いつものアメフトキャップではありません。山本夜羽音さんが来たのは、わたしの出版記念トークイベントがはじまってしばらくしてからです。前のほうに座ったのでステージからよく見えました。

 着信メロディが響きました。わたしはなにも聴こえていないふりをしながら登壇者と会話をつづけます。

 「もしもし!ごめん!イベントにいるから!」

夜羽音さんの声も響いていました。

 トークショーが終わると彼に呼ばれました。

 「出版記念のプレゼント!いいでしょー!」

 パンダのイラストが入ったキャップをくれました。

 もらったままのパンダのキャップがクローゼットの奥に転がっていました。掛けてあった黒いスーツを取り出して扉を閉めます。ユニクロで買った黒いネクタイを締めて出たとき、グレーの雲が空を覆っていました。降らないでくれと願っていましたが、傘を持って教会に向かいました。

 真っ白な壁と十字架がひときわ目立っていました。

 みぞれを払いながら夜羽音さんなら「実家がある北海道はもっとすごい」と自慢するだろうと思いました。席に置かれていた葬式の次第に山本洋一郎と書いてあります。目の前に棺がありました。

 式が始まりました。神父は30年来の友人だったそうです。お金を貸した話をしたときは笑いに包まれましたが、どこかの服屋で告解をした話をしたときは静かになりました。

 最後は棺に白い百合を入れるそうです。一輪もらって列に並びました。いろんなひとが彼の顔をじっと観てから花を捧げています。直前にいた髭面の参加者は「あらあら…こんなになっちゃって…早すぎだよ…」とつぶやき、手を合わせました。

 わたしの番です。目の前で眠っているのはたしかに山本夜羽音さんでした。アメフトキャップはかぶっていませんでしたが。白い百合を手向けました。

 「いままでお世話になりました」

彼に届いていないだろうと思っても小さな声でいったのです。泥酔して神父に号泣したり、アニメを楽しそうに観ていたりした夜を振り返りながら。

 棺が火葬場に向かうときもみぞれが降っていました。参列者たちが見送ります。わたしは頭を下げました。

 霊柩車がいなくなると「ひさしぶりだな」とか、「最期まであいつらしかったな」とか、「洋一郎のために飲むか」とかそんな声が飛び交いました。

 最寄りの駅に着くと傘は余計な荷物になりました。部屋に吊るしたスーツをしまうためにクローゼットを開けるとパンダのキャップはそのままでした。

 床には脱ぎっぱなしのスラックスがありました。目をこすりながら洗濯機に入れます。ランニングウェアに着替えたときです。Facebookから通知がきました。

 「7月11日は山本夜羽音さんの誕生日です」

 色褪せたパンダのキャップをかぶって、玄関を開けました。

たとえ、貢献していなくても

 柳美里さんへの差別に抗議しますと書き込もうと思ったときでした。「お前よりも柳さんは文化的に貢献している」とのコメントは冷たいタイムラインの向こうにありました。

 画面に指が触れてしまった瞬間、消失したんです。
 たしかに柳さんは芥川賞を受賞しましたし、3・11後は浜通りで書店を営んでいます。しかし、知名度と貢献を理由に、柳さんを擁護するのは違います。  
  どんなひとであれ、国籍や民族などの属性で差別されてはなりません。ひとの尊厳は測ることができないからです。    
 消さないように書いておきます。

無題

 涙が止まりません。デモが起きてるなんて知りませんでした。となりの叔父はなにやらいっていますが、たくあんとキムチで育ったわたしにはまったく分かりません。

 「散々な目に遭ったね」

同胞しかいない教室で慰めてくれました。

 実家にかけると声が少しだけ小さくなる国際電話、封を開けられたかもしれないわたし宛の手紙、教室まで学生を追いかける当局のひとたち。

 「祖国なのに、祖国じゃないんだね」と日本語で語り合いました。

 屋上に学生がいたことだけ憶えています。大きな声で叫んでいるのですが、まったく分かりませんでした。気づいたら彼は炎に包まれて、地上に落ちたんです。

 声が出ませんでした。嗅いではいけない匂いが鼻を刺激します。

 あのひとが自由を求めていたと、おなじクラスのウリマルが上手な男の子から聴きました。

 「生きて変えてほしかったね」とだれかが教室で語った声はいつまでも響いています。

分断

 やさしい笑顔は昔のままでしたが日に日に細くなっていました。冗談混じりで「あと100年生きてね」というと母方の祖母は寂しそうです。合格を伝えたときはあの笑顔に戻りました。嬉しさのあまり抱きしめたとき、骨と皮を感じました。

 両親や予備校に報告した後でした。語りかけてくる彼女の顔に刻まれた皺はいつになく深かったです。

 「お前のお父さんの家族が済州島からきたといってはいけないよ。あれは裏切り者の島だから。お前のお父さんの、お父さんの弟は北にいる。これも墓場まで持っていかなきゃダメだよ」

 ひそひそ声は部屋に響きました。わたしは振り返りましたが、祖母は何事もなかったようにテレビを点けました。

 直立不動で大袈裟な拍手をしているひとたちに囲まれていると痩せた身体と足を引きずる姿が目立ちます。スーツや軍服の中でひとりだけカーキ色のジャンパーです。

 ジャンパーの彼は喋りません。でも、演壇に上がるひとたちの話し方は役者みたいです。

 「このパルゲンイセッキ!アカ豚!日帝を作るために金九先生と戦ったんじゃない!」

 凍土の共和国を伝えるアナウンサーの声よりも車椅子の彼女の声ははっきりしていました。

 「裏切り者!人殺しのガキ!姉さんの旦那はどこに行った!」

 専門家の知的な語りとは違って、細い身体のすべてが部屋に響いています。

 祖母はテレビを消しました。「あんなやつ観たくない」と吐き捨てて。

 旅先の天気が知りたくてテレビをつけました。恰幅はよいけどあどけない後継者が映っています。彼を囲むひとたちは服に着られていました。画面のとなりの祖母の写真に挨拶して、新潟に行く高速バスの乗り場をスマホで探しました。

 ひとの息とだれかが買った酒の臭いからようやく解放されました。目の前の長蛇の列の向こうからバス乗り場の名物カレーが鼻で誘います。でも、行きたいところがありました。

 いま歩いている通りの街路樹は細い柳です。浜風でゆっくり揺れています。魚市場の広い駐車場ではわたしよりすこし若そうなひとたちが串物を食べていました。

 蔦まみれになったコンクリートの建物と煉瓦の会館がやっと観えました。会館の名前はハングルで書かれています。ひと気はありません。

 看板がありました。比較的新しいのですが細い引っかき傷ばかりです。ここから10万人以上が日本海の向こうの「祖国」をめざしたと書いてありました。目を凝らさなければ読めません。

 目の前は港です。鉄条網の前の公園で脚を休めていると、地面の白い看板に気づきました。錆びついていて、捨てられてしまったように横たわっています。覗いてみるとあの国からきた樅の木と書かれていました。

 看板を木に立てかけて、きた道を戻ります。枝がゆっくりと横に揺れていました。

 ふと振り返ると門が固く閉ざされていました。

青いユニフォームがある風景

 あの瞬間はさすがに憶えていません。でも、物心ついたときから何度も流れていました。 背番号10番が「入った」とつぶやき、7番が崩れ落ちています。いまでもこのときの映像とユニフォームは正視できません。たぶん、父もでしょう。  
 野人がまた外しました。短距離走なら金メダルですが、これはサッカーです。となりの父は名前を叫び、悪態を吐きました。
 どうしてシュートが打てない青いチームを応援するんだろう。胸に虎のマークがついた赤い代表はゴールが奪えるのに。
 彼は「住んだことがないところは応援できないだろ」とあっさり答えました。 そうです、父もわたしも青いユニフォームこそ代表だったんです。  
 体力が尽きかけている選手たちと呼ばれればピッチに立ちそうな父。1点入れば憧れの舞台ですが、埼玉からジョホールバルよりもはるかに遠いのは気のせいではありません。だれもが感じるもどかしさに8番は痺れを切らして、ミドルシュートを放ちました。キーパーが弾いたボールに反応したのはあの短距離ランナーでした。
  フランスから4年経ちました。夏休みの絵画コンクールでは日本海の向こうから作品がやってきました。わたしたちもあの子たちも日韓戦を描いていたのです。  
 楽しい時間はあっけなく終わりました。14番がフリーキックを決めていればもう少し味わえたのに

 世間は祭りの後のようでしたが、わが家は違いました。父は日本戦と同様、赤いチームの試合を欠かさず観ているんです。

 そして、画面に映ったソウルのスタジアムを観て、静かにいいました。
 「やっとここまでこれたのか」
 前半の思いがけない1点で勝利はすぐそこだと思いました。初戦は黄色いユニフォームでした。ベンチには赤い代表をベスト4に導いたあのひとがいます。後半は彼のマジックにかかりました。
 つぎのゲームは急にボールが来てしまいました。初戦のショックを引きずったままだったからかゴールは決められませんでした。
 20番がカナリア軍団に決めたゴールと茫然としたイレブンをよく憶えています。 ジョホールバルで8番だった彼は7番を背負っていました。試合が終わると寝そべって、天を仰ぎました。
  赤いチームの戦いぶりは記憶にありません。わたしと父はおなじ色の代表を応援していたからです。世界の憧れでありつづけた稀代のトップ下はわたしたちそのものでした。ベテランとなった彼のチームは勝ち上がっていきます。奮闘ぶりに2回目のトロフィーは確実だと思いました。

 心ない一言はただの挑発ではなかったのでしょう。彼のワールドカップが終わった瞬間は、時の流れが遅くなりました。

 肩を落とした10番がピッチを離れます。  
 父は遠い目をしていました。

なんでもないような、なんでもなくないような

 初夏なんてことばは古語になってしまったのでしょうか。10分歩いただけでワイシャツがびしょびしょです。Tシャツとジーパン、サンダルだったらよかったのですが、あいにくきょうは仕事です。
 いまの仕事をはじめてから2、3年ほどです。いつもはノーネクタイなんですが、偉いひとたちが集まる会はすこしだけ改まっています。
 「いつもお世話になってます」からはじまる自己紹介をしようと思ったときです。受け付けのひとが「お名前は?」と訊ねました。

 

 名前ですよね…。パスポートは金村詩恩です。使わなくなった外国人登録証には金詩恩とあります。族譜は金時恩と書いています。一瞬、だれかと思いましたけど、誕生日で気づきましたよ。
 どの名前がいいでしょうね…。すべて本名ですが。

 

 頭の中で忙しなく喋っているのに、目の前のひとはなにも知らないだろうと思いました。
 いつも使っている名前を答えると、なにごともなかったように資料をくれました。
 なんでもないような、なんでもなくないような一瞬を通りすぎると、お偉いさんたちが会の開始をいまかと待っていました。彼らも大汗でした。