帽子

 頭をすっぽりと覆う毛皮の帽子でした。いつものアメフトキャップではありません。山本夜羽音さんが来たのは、わたしの出版記念トークイベントがはじまってしばらくしてからです。前のほうに座ったのでステージからよく見えました。

 着信メロディが響きました。わたしはなにも聴こえていないふりをしながら登壇者と会話をつづけます。

 「もしもし!ごめん!イベントにいるから!」

夜羽音さんの声も響いていました。

 トークショーが終わると彼に呼ばれました。

 「出版記念のプレゼント!いいでしょー!」

 パンダのイラストが入ったキャップをくれました。

 もらったままのパンダのキャップがクローゼットの奥に転がっていました。掛けてあった黒いスーツを取り出して扉を閉めます。ユニクロで買った黒いネクタイを締めて出たとき、グレーの雲が空を覆っていました。降らないでくれと願っていましたが、傘を持って教会に向かいました。

 真っ白な壁と十字架がひときわ目立っていました。

 みぞれを払いながら夜羽音さんなら「実家がある北海道はもっとすごい」と自慢するだろうと思いました。席に置かれていた葬式の次第に山本洋一郎と書いてあります。目の前に棺がありました。

 式が始まりました。神父は30年来の友人だったそうです。お金を貸した話をしたときは笑いに包まれましたが、どこかの服屋で告解をした話をしたときは静かになりました。

 最後は棺に白い百合を入れるそうです。一輪もらって列に並びました。いろんなひとが彼の顔をじっと観てから花を捧げています。直前にいた髭面の参加者は「あらあら…こんなになっちゃって…早すぎだよ…」とつぶやき、手を合わせました。

 わたしの番です。目の前で眠っているのはたしかに山本夜羽音さんでした。アメフトキャップはかぶっていませんでしたが。白い百合を手向けました。

 「いままでお世話になりました」

彼に届いていないだろうと思っても小さな声でいったのです。泥酔して神父に号泣したり、アニメを楽しそうに観ていたりした夜を振り返りながら。

 棺が火葬場に向かうときもみぞれが降っていました。参列者たちが見送ります。わたしは頭を下げました。

 霊柩車がいなくなると「ひさしぶりだな」とか、「最期まであいつらしかったな」とか、「洋一郎のために飲むか」とかそんな声が飛び交いました。

 最寄りの駅に着くと傘は余計な荷物になりました。部屋に吊るしたスーツをしまうためにクローゼットを開けるとパンダのキャップはそのままでした。

 床には脱ぎっぱなしのスラックスがありました。目をこすりながら洗濯機に入れます。ランニングウェアに着替えたときです。Facebookから通知がきました。

 「7月11日は山本夜羽音さんの誕生日です」

 色褪せたパンダのキャップをかぶって、玄関を開けました。

たとえ、貢献していなくても

 柳美里さんへの差別に抗議しますと書き込もうと思ったときでした。「お前よりも柳さんは文化的に貢献している」とのコメントは冷たいタイムラインの向こうにありました。

 画面に指が触れてしまった瞬間、消失したんです。
 たしかに柳さんは芥川賞を受賞しましたし、3・11後は浜通りで書店を営んでいます。しかし、知名度と貢献を理由に、柳さんを擁護するのは違います。  
  どんなひとであれ、国籍や民族などの属性で差別されてはなりません。ひとの尊厳は測ることができないからです。    
 消さないように書いておきます。

無題

 涙が止まりません。デモが起きてるなんて知りませんでした。となりの叔父はなにやらいっていますが、たくあんとキムチで育ったわたしにはまったく分かりません。

 「散々な目に遭ったね」

同胞しかいない教室で慰めてくれました。

 実家にかけると声が少しだけ小さくなる国際電話、封を開けられたかもしれないわたし宛の手紙、教室まで学生を追いかける当局のひとたち。

 「祖国なのに、祖国じゃないんだね」と日本語で語り合いました。

 屋上に学生がいたことだけ憶えています。大きな声で叫んでいるのですが、まったく分かりませんでした。気づいたら彼は炎に包まれて、地上に落ちたんです。

 声が出ませんでした。嗅いではいけない匂いが鼻を刺激します。

 あのひとが自由を求めていたと、おなじクラスのウリマルが上手な男の子から聴きました。

 「生きて変えてほしかったね」とだれかが教室で語った声はいつまでも響いています。

分断

 やさしい笑顔は昔のままでしたが日に日に細くなっていました。冗談混じりで「あと100年生きてね」というと母方の祖母は寂しそうです。合格を伝えたときはあの笑顔に戻りました。嬉しさのあまり抱きしめたとき、骨と皮を感じました。

 両親や予備校に報告した後でした。語りかけてくる彼女の顔に刻まれた皺はいつになく深かったです。

 「お前のお父さんの家族が済州島からきたといってはいけないよ。あれは裏切り者の島だから。お前のお父さんの、お父さんの弟は北にいる。これも墓場まで持っていかなきゃダメだよ」

 ひそひそ声は部屋に響きました。わたしは振り返りましたが、祖母は何事もなかったようにテレビを点けました。

 直立不動で大袈裟な拍手をしているひとたちに囲まれていると痩せた身体と足を引きずる姿が目立ちます。スーツや軍服の中でひとりだけカーキ色のジャンパーです。

 ジャンパーの彼は喋りません。でも、演壇に上がるひとたちの話し方は役者みたいです。

 「このパルゲンイセッキ!アカ豚!日帝を作るために金九先生と戦ったんじゃない!」

 凍土の共和国を伝えるアナウンサーの声よりも車椅子の彼女の声ははっきりしていました。

 「裏切り者!人殺しのガキ!姉さんの旦那はどこに行った!」

 専門家の知的な語りとは違って、細い身体のすべてが部屋に響いています。

 祖母はテレビを消しました。「あんなやつ観たくない」と吐き捨てて。

 旅先の天気が知りたくてテレビをつけました。恰幅はよいけどあどけない後継者が映っています。彼を囲むひとたちは服に着られていました。画面のとなりの祖母の写真に挨拶して、新潟に行く高速バスの乗り場をスマホで探しました。

 ひとの息とだれかが買った酒の臭いからようやく解放されました。目の前の長蛇の列の向こうからバス乗り場の名物カレーが鼻で誘います。でも、行きたいところがありました。

 いま歩いている通りの街路樹は細い柳です。浜風でゆっくり揺れています。魚市場の広い駐車場ではわたしよりすこし若そうなひとたちが串物を食べていました。

 蔦まみれになったコンクリートの建物と煉瓦の会館がやっと観えました。会館の名前はハングルで書かれています。ひと気はありません。

 看板がありました。比較的新しいのですが細い引っかき傷ばかりです。ここから10万人以上が日本海の向こうの「祖国」をめざしたと書いてありました。目を凝らさなければ読めません。

 目の前は港です。鉄条網の前の公園で脚を休めていると、地面の白い看板に気づきました。錆びついていて、捨てられてしまったように横たわっています。覗いてみるとあの国からきた樅の木と書かれていました。

 看板を木に立てかけて、きた道を戻ります。枝がゆっくりと横に揺れていました。

 ふと振り返ると門が固く閉ざされていました。

青いユニフォームがある風景

 あの瞬間はさすがに憶えていません。でも、物心ついたときから何度も流れていました。 背番号10番が「入った」とつぶやき、7番が崩れ落ちています。いまでもこのときの映像とユニフォームは正視できません。たぶん、父もでしょう。  
 野人がまた外しました。短距離走なら金メダルですが、これはサッカーです。となりの父は名前を叫び、悪態を吐きました。
 どうしてシュートが打てない青いチームを応援するんだろう。胸に虎のマークがついた赤い代表はゴールが奪えるのに。
 彼は「住んだことがないところは応援できないだろ」とあっさり答えました。 そうです、父もわたしも青いユニフォームこそ代表だったんです。  
 体力が尽きかけている選手たちと呼ばれればピッチに立ちそうな父。1点入れば憧れの舞台ですが、埼玉からジョホールバルよりもはるかに遠いのは気のせいではありません。だれもが感じるもどかしさに8番は痺れを切らして、ミドルシュートを放ちました。キーパーが弾いたボールに反応したのはあの短距離ランナーでした。
  フランスから4年経ちました。夏休みの絵画コンクールでは日本海の向こうから作品がやってきました。わたしたちもあの子たちも日韓戦を描いていたのです。  
 楽しい時間はあっけなく終わりました。14番がフリーキックを決めていればもう少し味わえたのに

 世間は祭りの後のようでしたが、わが家は違いました。父は日本戦と同様、赤いチームの試合を欠かさず観ているんです。

 そして、画面に映ったソウルのスタジアムを観て、静かにいいました。
 「やっとここまでこれたのか」
 前半の思いがけない1点で勝利はすぐそこだと思いました。初戦は黄色いユニフォームでした。ベンチには赤い代表をベスト4に導いたあのひとがいます。後半は彼のマジックにかかりました。
 つぎのゲームは急にボールが来てしまいました。初戦のショックを引きずったままだったからかゴールは決められませんでした。
 20番がカナリア軍団に決めたゴールと茫然としたイレブンをよく憶えています。 ジョホールバルで8番だった彼は7番を背負っていました。試合が終わると寝そべって、天を仰ぎました。
  赤いチームの戦いぶりは記憶にありません。わたしと父はおなじ色の代表を応援していたからです。世界の憧れでありつづけた稀代のトップ下はわたしたちそのものでした。ベテランとなった彼のチームは勝ち上がっていきます。奮闘ぶりに2回目のトロフィーは確実だと思いました。

 心ない一言はただの挑発ではなかったのでしょう。彼のワールドカップが終わった瞬間は、時の流れが遅くなりました。

 肩を落とした10番がピッチを離れます。  
 父は遠い目をしていました。

なんでもないような、なんでもなくないような

 初夏なんてことばは古語になってしまったのでしょうか。10分歩いただけでワイシャツがびしょびしょです。Tシャツとジーパン、サンダルだったらよかったのですが、あいにくきょうは仕事です。
 いまの仕事をはじめてから2、3年ほどです。いつもはノーネクタイなんですが、偉いひとたちが集まる会はすこしだけ改まっています。
 「いつもお世話になってます」からはじまる自己紹介をしようと思ったときです。受け付けのひとが「お名前は?」と訊ねました。

 

 名前ですよね…。パスポートは金村詩恩です。使わなくなった外国人登録証には金詩恩とあります。族譜は金時恩と書いています。一瞬、だれかと思いましたけど、誕生日で気づきましたよ。
 どの名前がいいでしょうね…。すべて本名ですが。

 

 頭の中で忙しなく喋っているのに、目の前のひとはなにも知らないだろうと思いました。
 いつも使っている名前を答えると、なにごともなかったように資料をくれました。
 なんでもないような、なんでもなくないような一瞬を通りすぎると、お偉いさんたちが会の開始をいまかと待っていました。彼らも大汗でした。

まだ飲まなきゃいけない酒があるもんで

 派手なシャツと黒いサルエルパンツが似合ってました。

 デカい身体は会うたびに横へ成長していました。飲み屋で中ジョッキを一気飲みしまくっていたからでしょう。

 きょうがくるたびに彼を思い出します。

 大阪でハーフ研究をやっていたケイン樹里安とはTwitterで出会いました。彼のサイトにエッセイを寄稿してほしいとダイレクトメールをもらったんです。

 はじめて対面したのはNHKの控え室でした。『おはよう日本』の生放送で共演したんです。放送前の控え室にあったおいしいビュッフェを食べながら、修学旅行の中学生みたいにお互いはしゃいでいました。

 本番での彼は日本に住む海外ルーツの子どもについて語りました。真剣な表情で日本の人種主義を柔らかく突く姿がとても頼もしかったです。

 生放送が終わってから代々木公園で何人かと呑みました。朝のまぶしい中で缶チューハイを呑んではしゃいでいるわたしたちは夜間バイト終わりの学生だと思われたかもしれません。あのときに撮った写真はいまでもわたしのiPhoneに入っています。

 彼から社会学の教科書を作ったと連絡がきました。名前は『ふれる社会学』です。学生時代に出逢いたかったと読んで思いました。

 ケイン樹里安が東京にきました。池袋で刊行イベントをやるためです。登壇している彼はあのときみたいに柔らかいのですが、どこか控えめでした。

 終わった後の飲み会では話し足りず、ケイン樹里安と彼の大学院時代の先輩で居酒屋に入りました。

 わたしは水割りのジョッキを飲みながらいいました。

「もっと本音でいいんじゃない?」

「それなり抑えないと聴いてくれないんだよね。ハーフの子たちにおなじ苦労してほしくないから頑張んないと」

「その年齢の口だからいえることはたくさんあるだろ。遠慮しちゃダメだよ」といまならいえますが、このときは「俺たちとおなじ目には遭わせたくないもんなぁ」と答えました。

 翌年、彼とイベントをやることになりました。朝鮮半島にルーツがあるミュージシャンたちも交えたトークです。

 わたしとおなじ日本国籍の在日コリアンの友人を誘いました。国や民族に囚われない場にしたくて主催者と打ち合わせを重ねていたんです。

 「日本国籍のひとだと差別される側の気持ちは分からないかもしれないけど」

 登壇したひとりの素直なことばに、国籍で散々、差別されてきたわたしたちが、国籍で排除していいのかと怒り混じりに問いかけました。ケイン樹里安も柔らかい口調で必死にたしなめていたのを覚えています。

 友人は発言を聞いて帰りました。あのときから連絡は取れません。

 イベントが終わりました。いつもならふたりで飲みにいきますが、このときはおとなしく帰りました。無力さとやるせなさに支配されて酒が入りませんでした。

 しばらくしてからです。彼から謝罪のLINEがきたのは。わたしだってフォローしなきゃいけなかったのになにをさせているんだろう。情けない気持ちで返信しました。

 2022年5月16日は転職先の入社日でした。ひさしぶりに着たスーツは慣れません。トイレで何気なくTwitterを観たら、ケイン樹里安の死を知らせるツイートが流れました。

 「嘘だろ」

 思わずつぶやきました。コロナ禍が落ち着いたら絶対に会おう、そして、あのイベントを反省するための会をふたりでやろうと思っていた矢先でした。

 彼とは2022年になってから連絡がつかなくなっていました。博士論文に集中しているかもしれないと思って、あえて、そっとしておいたんです。悪性リンパ腫で闘病しているなんて夢にも思わずに。

 帰りにコンビニで買ったビールを一気に飲みました。ケイン樹里安みたいに。

 あれから4年経ちました。着慣れたスーツに身を包むわたしは仕事帰りです。彼の元に何度か行こうと思いましたが、いまはいいです。

 まだ飲まなきゃいけない酒があるもんで。