「先生」と呼ばれたとき

「お話を聴いていただき有難うございました。」

ある場所のトークイベントで、出版した本についての話を1時間ほどした。

「これから質疑応答に移らせていただきます。質問のある方はいらっしゃいますか?」

司会が会場に問いかけると、数名が手を挙げた。

「そちらの赤い服を着た女性の方」

指名された年配の女性がこう話した。

「とても勉強になるお話を有難うございました。先生は…。」

 

せっ…先生?

口には出さなかったが、バイトをしながらネットで文章を書いているだけなのに偉いひとのように扱われたせいか、手の届かないところをかきむしりたくなったときのような顔になった。

 質疑応答が終わると、あるひとがわたしのほうへやってきた。

「はじめまして。以前からブログなどを拝見させていただいておりますケイン樹里安です」

名刺を差し出し、挨拶をする彼に「ああっ!じゅりあんさんですね!ずっとお会いしたかったです!」とはしゃぎ声を出した。

 友人との出会いを思い出しながら『精神病理学私記』の翻訳出版記念トークイベントへ行くため、電車に乗っていた。イベントに足を運んだ理由は訳者の阿部大樹さんの対談相手がケイン樹里安くんだったからだ。

 会場の最寄り駅である高円寺駅を降り、地図アプリを見ながら歩くと「サリヴァン精神病理学私記』出版記念イベント こちら」と書かれたブラックボードを見つけた。どうやら会場は半地下のライブハウスらしい。階段を降りると、窓ガラス越しに樹里安くんの姿が見えた。

 店に入って、「よっ!久しぶり。最近、忙しいみたいだね。」と声をかける。

わたしに気づいた彼は心なしか疲れた顔をして「おっ!来てくれたんだ!昨日もふれしゃかのイベントで遅くまで飲んでたよ。」とあいさつをして、おたがいの近況について話していた。
わたしたちは一度、話し出すと止まらなくなるので、わたしは壁にかけられたアナログ時計をちらちら見ていた。
 秒針が開始時刻15分前を指したとき「ごめん。もう時間だよね。」と言って、客席に座って、彼も定位置へついた。
 時計の秒針が開始時刻を指したのと同時にイベントがはじまった。
 著者のサリヴァンアメリカのアイルランド系移民の子であり、同性愛者であり、統合失調症を患っていたそうで、自らの体験から『精神病理学私記』を書いたが、社会構造を精神障害の原因とする考え方は学界で受け容れられなかった。しかし、彼の治療成績はとてもよく、内務省で講演したり、WHOの立ち上げにもかかわったという来歴が阿部さんの口から語られた。

 面白いひとだなぁとぼんやり思っているうちに、阿部さんと樹里安くんのトークがいつの間にかはじまっていた。最初は研究手法についての話だったが、ハーフの話になってくると、2人の話が止まらなくなり、白熱したまま、休憩に入った。
 後半はサリヴァンの経歴からはじまった。とてつもない治療成績だった彼は行政に携わるようになり、徴兵制度を作るプロジェクトに従事したそうだ。自らの書いたものは学界で評価されなかったが、凄腕の医者として行政に入り、自らを苦しめることになった制度を作るのはどんな気持ちだったのだろうと思いながら聴いていると、阿部さんはサリヴァンみたいに制度を作る側になったらなにをするかと樹里安くんに訊ねた。
 「うーん。教育に手を入れるかな…。そうだ、図書館に移民の本を入れる。」
行政に携わるからこそできる彼のアイディアを聴き、「先生」として思想を伝えるのに失敗した結果、現場の「実務家」として世の中を変えるためにサリヴァンは行政へ入ったのかもしれないと気づいた瞬間だった。
 後半もさまざまな方面に話が盛り上がり、予定時刻を過ぎてイベントが終了した。後片付けや名刺交換などを終え、トークをしていた2人と会場に残った数人で近くの喫茶店に入り、遅い昼食を食べた。

 そのあいだ、イベントについてああでもないこうでもないと阿部さんと樹里安くんはずっと喋っていたせいか、「やばい、酸欠だ。頭痛い。」とおなじタイミングで言いだし、顔色を悪くしていた。
 「つぎの予定は6時からだよね?」
樹里安くんに別のイベントの予定があるのを知っていたので、時間を伝えた。皆で店を出て、わたしは彼を駅まで案内する。
 つぎの予定を伝えたり、道案内したりしているわたしが、助手みたいでどこか面白い気持ちになり、「先生」と彼をふざけて呼んだら、むずがゆそうな顔をして、「なんか偉そうにしちゃったかなぁ」と尋ねてきた。

「いいや、ふざけているだけ」と笑いながら答えたとき、サリヴァンも「先生」と呼ばれるとこんな顔をしていたのかなと思った。

 駅に行くまでの道のりは「先生」と呼ばれるむずがゆさの話で盛り上がった。