憲法の枠外に居る私

   私は今、失業している。故、あって、3月に会社を辞め、その後、精神的な病気になってしまい、ようやく、社会復帰しようと様々なところで走り回っている。

   私のような失業者が最初に行かなければいかないのはハローワークだ。失業保険の手続きや次の就職先を探すためにはハローワークに行くことは絶対に必須だ。

   その日はハローワークに行き、失業保険の手続きを済ませて、登録をしようとしている時だった。私がハローワークの職員に書類を提出し、その書類を職員が見るとまず先に一言、「大変失礼ですが、帰化はされていますか?」と質問された。

   一瞬何を言っているのか分からなくなったが、私は「はい。帰化してます。」と答えた。ハローワークの職員は何事もなく、登録制度についての説明を始めた。

    私は小学1年生の時に韓国籍から日本籍に帰化した。その時代は在日は全て、日本籍に帰化していくということが言われた時代だ。あの時代を懐かしく思うのと同時にこういったことがあった時に「騙された!」という気分になる。あの時代の希望は何だったのか?

    私はハローワークの職員を糾弾したいのではない。私を担当した職員は「帰化している人がしていない人か」という線引きが就職に大きな影響を及ぼすことを知っていたのだ。私の両親からは国籍条項が厳然とあった頃の時代の厳しさを良く聴いている。今になってもなお、そんな国籍条項が生き続けていることを感じるとは思わなかった。

   こんな日常を生きていると知らぬ間に自分自身の国籍であったり、帰化したことを考えてしまう。昔、とある政治家の事務所でお手伝いした時、「私は帰化人なんですが大丈夫なんでしょうか?」と私から聴いたことがあった。それは声を誰かに届けるための政治であるけれど、私が帰化人であることによって、私が支持していた政治家が攻撃されてしまうのは困る。だからこそ、私はあえて聴いている。こんなことを聴くのは馬鹿らしいと思いながら。      

   日本国憲法を読んでみる。素晴らしい憲法だ。「国民」は参政権などの権利が保障されていて、また、ご丁寧なことに労働の義務など、国民の義務まで書いてある。だが、そんな憲法の条文がお為ごかしでしかないことも私は知っている。憲法は私たちに機会平等を命じているのに、どうして、帰化人である私にはその権利が保障されず、また義務も果たせないようになっているのか?この国の憲法や法律は帰化人には適用されないのか?これじゃ、帰化する前と全く変わらない。

   こういう話をすると私のアイデンティティーの話として聴いてしまう人たちが居る。はっきり言って、何よりも悪質な人たちだ。これは個人の繊細なアイデンティティーの問題ではなくて、私たちの権利が保障されず、義務も行えないような社会的な問題であるはずだ。そんな社会の問題を個人の問題に置き換えて、変えなければいけない制度からただ、目を背けているだけじゃないか!私からしたら、まだ、ハローワークの職員の方がマシだと思っている。

   差別を受けるとは言葉のない空間に立たされるということだ。この数日間、ずっとこの出来事をどう言葉にして良いのか分からなかった。言葉のない空間に私が支配されていたのだろう。だが、言葉のない空間に向き合って、このブログで言葉にしていく以外に無いと考えた。差別とは日常の中にある。そんな日常の中を生きれるのは言葉のない空間で観たものを言葉にするからかもしれない。

   それは声を上げ続けたからこそ、足枷になっている制度がやがては無くなり、憲法に書いてあることが現実のものとなることを信じているからだ。