ハッシュタグから世界へ

 内輪ネタで盛り上がることはとても面白いことだ。とある文脈を共有しているからこそそのネタが通じるが、その文脈を共有していないと時に大変な意味になってしまう。ある意味、内輪ネタは仲間同士の親睦を深めるには良いのかもしれないが、外でやった場合には注意が必要なのかもしれない。
 「#おまえの愛国は中国製」というハッシュタグがある。

このハッシュタグは先日、神社本庁が作成した「私、日本人でよかった」のポスターが中国のフリー素材で作られたことを皮肉ったハッシュタグだ。

 神社本庁のポスターには間抜けさとフリー素材で作られたことのちょっとした情けなさも感じてはいたが、その情けなさは別に「中国製」ということとは関係が無いし、もし、このハッシュタグの文脈が分からないまま読んだ場合、帰化した中国の人たちや在日中国人の人たちはどう思うのかなということがあった。それは私自身が帰化した立場で、いわば「在日製」もしくは「韓国製」のようなところもあるので、なんだか「中国製」と表現されていたことが嫌でしょうがない。

 確かに皮肉を込めたハッシュタグなのかもしれないし、このハッシュタグを作った本人には差別的な意図は無かったのだと思う。(いや、思いたい。)

 私はこのハッシュタグへの違和感とハッシュタグを使うことへの反対を表明したところ、様々な反応があったが、私個人としてはとても残念な結果に終わってしまった。ハッシュタグの生みの親とその周辺の人々は私と同じく違和感を表明した人々と対話する気は無く、「ネトウヨ」という箱の中に入れてしまうし、ネット上の差別主義者たちはこのハッシュタグとそれを巡る議論のおかげで差別に反対することへの「反対論」をより強化し、差別的な発言を是とする空気がより一層強まってしまった。

 こういった「差別」と疑わしいときにしていくべきことは、差別をしてしまった相手、もしくは差別であると指摘した相手を打ちのめすことではなくて議論することであるはずだ。差別している時には差別している感覚が一切分からない。この私も差別意識は全くなかったものの差別的な発言をしてしまい怒られてしまったことは何度でもある。だが、それを差別と気づいたのは真摯にその発言について議論をしたからだ。

 差別は運動の理屈だけでは成立しない。なぜならば、差別とは日常に存在して、その日常は敵か味方かという二分法では到底分けられないような生活の空間にこそ存在する。だからこそ、この問題提起と議論が差別を無くす側の運動の理論によって切り捨てられ、また差別を是認する人々から利用されることが悔しくてしょうがない。

 私を「ネトウヨ」の箱に入れた人々は普段から差別に激しく立ち向かう当事者でもある。きっとそのような箱に入れてしまったのは激しくなりつつある運動の中で、敵か味方かという思考になってしまったのかもしれない。それは在日という当事者である私も理解ができないというわけではない。社会的なことを議論していく場でも差別を肯定したい意見と議論のお作法として疑問視する意見が混じってしまうことは常に感じている。だが、そこを腑分けしていく力こそ私を含めて必要だと思う。

 そんなことができたら、もしかしたら、本当に差別に向き合える時なのかもしれない。そんなことができることを私は信じている。だって、普段から差別に向き合っているのだから。