カメラ・日常・権力

  小森はるか監督の「息の跡」という映画を観に行った。この映画は佐藤貞一さんという「佐藤たね店」という種苗店の主人に3年間密着したドキュメンタリーだ。どこにでも居そうなおじさんが震災を経験し、その経験を日本語ではない他の言語で語ることによって、震災の記憶を残していく日常を収めた、極めて牧歌的だが、どこか強烈な映画になっている。

 この映画を観ていると、ある特徴に気づく。

 それは小森監督は劇中にて、佐藤さんの問いかけに対して「はい。」と言うか、少し訛りの入った言葉で応答するか、黙ってしまうかという3パターンの言葉遣いをしていることだ。たまに、佐藤さんの言っていることが分からないけれども、監督が「はい。」と言ってしまっているような所もあるのではないかと思ったシーンもあった。

 被写体になっている当事者は自分自身を映し出している人間の言語を常に見ている。余りにも素っ気無い態度であれば、言葉を引っ込めるし、身体表現をすることも無い。自分自身が言葉にならない世界と言葉をルールとしている世界の中を行ったり来たりしている中で、紡ぎ出した言葉やしぐさを監督が「分からない」と言って、切り捨ててしまうと思えば、被写体になることそのものを拒否してしまう。だが、この映画ではそういったシーンは見受けられなかった。きっと、「はい。」を赦したのは、佐藤さんの年輪が監督を包み込んだことであり、何より監督は佐藤さんの言葉を分からないふりをしながらも、それを拾っていった。

 だが、それでも私はこの「息の跡」に隠されている事実を明らかにしなければいけない。この世の中には余りにもカメラが溢れているからだ。

 ドキュメンタリー映画はヨーロッパの帝国主義と資本主義勃興の動きの中で発達した。そして、このドキュメンタリーという手法は植民地に入り、帝国が「近代」を示す、「近代の申し子」としての機能を担うことになった。だが、その「近代の申し子」は第二次世界大戦後、民主主義の時代になっていくにつれて「被写体の顔を撮影者と対等な関係で映し出していく」ものへと変化した。

 こういったドキュメンタリーの歴史と現状を書いたのは、 資本主義の発達とそれに伴うテクノロジーの発展でカメラを持つことが当たり前になってしまい、カメラを持つ権力性を忘れてしまうからだ。

 カメラで何かを映し出すことによる権力を、妖精のような小森監督は静かに行使していた。それは妖精であり続けるが故に佐藤さんを撮ることが出来たのだが、妖精であることは被写体とは対等ではない。被写体を曝け出させてしまう代わりに、妖精である自分自身をとてつもなく高い位置へと引き上げて、知らぬ間に権力を行使してしまうのである。そこにあるのは言葉にならない世界と言葉をルールとしている世界を行ったり来たりしている人をカメラの向こう側のものとして捉え、何か言葉を発しようとして発することができない人たちにとっては、自分を暴露されてしまうかもしれないという恐怖の中に置いてしまう。それは息を潜めているからこそ日常を維持している被写体の生活を毀してしまう可能性すら持っている。

 原一男監督の手法論は真逆の手法論だ。自分自身を晒し、相手とぶつかり合い、相手から言葉を拾う。その姿は一見、格闘しているように見えるのだが、あえて、カメラの前で葛藤を映し出すことによって、生身のHidden Agendaを明らかにしていく。人間関係の中でシビアな等価交換を行い、対等な存在として被写体と向き合おうとしている行為そのものだ。だが、それは文字通り、「格闘」になってしまうので、被写体は強靭でなければカメラの前で言葉の外の世界に飛び立ってしまう。

 ただでさえ、人と向き合うのは難しいのにカメラという装置を用いると、さらに難しくなってしまう。そんな難しさこそがドキュメンタリーの魅力だと思う。

 主人公の佐藤貞一さんは公開初日に劇場に来なかった。その理由はそんなカメラを持つ権力と対峙するためであったかもしれない。言葉の世界を喪い、未だに彷徨う人間にとって、そうすることこそが私たち観客に何かとてつもない世界を表現した。そして、そのような撮る立場と撮られる立場の関係は決して他人事ではない。テクノロジーの進化によってカメラが蔓延するようになり、膨大な情報の海の中に映像を投げ込めるようになった今、私たちはもう一度、カメラの持つ権力性を注視する必要があるのだ。