「誰がスパイなんだ」と馬鹿が言う

  父と母が若い頃の話だ。

初めて、父が結婚前、初めて祖母に挨拶をした帰り、深刻な顔をしてこんなことを言ったらしい。

「お前の母さん、韓国のスパイじゃないだろうな。」

   祖母はあの時代、大学を卒業したインテリで、韓国で学校の先生をしていた。

母を育てるために日本にやってきたのだが、父からしたらスパイだとしか思えなかったらしい。

母は父の言葉を聴いて、「この人、馬鹿なんじゃないか。」と思ったそうだ。

   もちろん、父の言っていることはただの思い違いだ。全く根拠がない。

   一方、祖母は祖母で父の済州島出身者という経歴を気にしていた。

以前も書いたが、済州島は韓国に反乱を起こした島だと考えられていたからだ。

もしかしたら、祖母は私が済州島出身者になってしまうことも心配していたかもしれない。

   何せ、北朝鮮のスパイだと思われてしまうかもしれないから。

   これがスパイを日常の中で感じる瞬間だ。

私は日本で生まれ、日本で育ってきたけれど、韓国や北朝鮮のスパイ合戦に見事、巻き込まれていた。

   38度線が無くても、私は見えない『スパイ』と身近に生活していた。だけれども、日本人からスパイ呼ばわりされることは無かった。

   とある人と飲んでいたときのこと、丁度、お互いに戦争の話になった。

私にとって、こんな機会はとても嬉しい。何せ、戦争と言えば朝鮮戦争の話なので、日本人の戦争の話を聴けるなんていうことは滅多にない。

しかも、何より嬉しいのはその人の曾祖母から聴いた話をしてくれていた。

どうやら、100歳以上になって、亡くなる前だからと言って、色々と聴き出したらしい。

その中で、その人は彼女にこんなことを尋ねた。

「何で戦争しちゃいけないの?」

   そうすると彼女はこう答えたそうだ。

「戦争は馬鹿がのさばるからやっちゃいけないよ。」

どうやら戦争中、特高がスパイを探すためにガサ入れされた経験を持っていたらしい。

ガサ入れとは言っても、結局は食料欲しさのタカリだったようだが、そんなことでスパイ呼ばわりされてしまってはたまったもんじゃない。

   誰かをスパイ呼ばわりするって、つまりはそんな奴らと全く変わらないことなのだ。

   ある日のこと、テレビを観ていたら、ある特定の地域を指して、在日をスパイ呼ばわりする女性学者が居るじゃないか。もちろん、直接、そうだと断言する発言ではなかったが、あからさまにそれを示唆しているように思えた。

どういう了見で語っているのだろう。

テレビを観ながら、ああ、この国でも馬鹿がのさばる国になったのかと思ってしまった。

それは同時に戦争に向かっているということなのかもしれない。

   この女性学者さんはかつて、ルワンダで何が起きたかを知っているだろうか。

浅学な私の知る限り、どっかのラジオ局が民族でけしかけたことがきっかけだったはずだ。

国際政治学者である彼女がこれを知らないって言ったら、それは勉強不足と言われてもしょうがない。

公共の電波はそれだけ影響力のあるものであるはずだ。

しかし、それにもかかわらず、とうとう、あんな発言が出てしまった。

   この発言をきっかけにまた一つ、私は生きづらくなったけど、彼女はどう思っているのだろう。

私が一番心配していることは、何の関係もない在日が妙な国家関係の争いに巻き込まれることだ。場合によってはどちらの国からも抑圧された立場であることもある。

複雑な立場であることも分からないのに、ああいう言い方をされたらたまったもんじゃない。

   今日は一日、こんなことを考えていた。

私の祖母とこないだ飲んだ人の曾祖母が会ったらどんな話をするだろうと。

 その時に祖母が私の出自を心配した理由を言うだろうか。

そして、飲んだ人の曾祖母は戦争の怖さをどう語るのか。

ただ、これだけは想像がついた。

私がもし、彼女たちに何で戦争はダメなのかという質問をされたら、声を合わせてこう答えるに違いない。

「スパイを探す馬鹿がのさばるからね。」