『セデック・バレ』と蓮舫さんと私と

 『セデック・バレ』という映画がある。日本の台湾統治時代に台湾の原住民であるセデック族が起こした霧社事件をテーマにした映画で、2部構成、計4時間というとても長い映画だ。だが、不思議なことにこの4時間という時間を感じさせないくらいにとても面白い映画で、私は時間さえあれば何回も観てしまう。

 この映画には花岡一郎、花岡次郎という2人の登場人物が出てくる。彼らはセデック族だが、セデック族の中でも頭が良いということで他のセデック族よりも良い教育を受け、街の巡査として働いている。本来、支配される立場の人間が、模範的な支配される側として当局に利用されているのだ。劇中でこの2人は日本とセデック族の板挟みとして苦しみながらも、最終的にセデック族の反乱に協力し、死んでしまう。

 この2人を観ながら、私は思わず自分自身を重ね合わせてしまった。2つの共同体の板挟みになる辛さというのは痛いほど分かるし、霧社事件から90年近く経った今でも、帰化をした人々は「日本人らしさ」を求められる。現に自分がかつて所属していた共同体をけなして、「日本人らしさ」を強調する人だって居る。私は帰化したのにも関わらず、自分を「日本籍の在日コリアン」と言う。せっかくの自分の人生だからどこかのマネキンで居るようなことは嫌なのだ。

 ずっと、この気持ちは私だけにしか分からないと思っていたけれども、最近になってから、『セデック・バレ』の花岡一郎と花岡次郎に共感できる人は私だけではないと感じることがあった。 

 民進党の代表選挙の時、蓮舫議員の「二重国籍疑惑」が問題になった。元々は中華民国籍で日本に帰化したはずの蓮舫議員が、中華民国籍を抜いていなかったのではないかというお話だ。どう考えてもこの問題を提起した人々は悪質極まりないが、この問題がきっかけで蓮舫議員は叩かれることになった。だが、この問題よりも私個人として何とも言えない気分になったのは、「私は生まれながらの日本人です。」とFacebook蓮舫議員が釈明したことだった。帰化したことは悪いことでは無いし、彼女自身のルーツは悪いことではない。だけれども、このような問題があらぬ方向から来てしまって、彼女はこう答えるしかなかったのだろう。

 私の周りの蓮舫議員の評判は良くない。「高飛車だ」とか、「偉そうだ」とか言われて、何を言っても否定されてしまう。でも、この私からすれば蓮舫さんは必死になっているようにしか見えない。帰化人だからということなのか、誰よりも必死に取り組もうとするし、誰よりも真面目になろうとしている。彼女の険しい顔と強い言葉からそんなことの考えている現われかもしれない。多分、彼女は「良き日本人」になりたいのだろう。この私にもそんな気持ちがどこかにある。でも、そんなことをしても結局は「良き日本人」になるだけで、それ以上でもそれ以下でもない。二重国籍疑惑の時のように結局は「帰化人だから」ということで片づけられてしまうようなことが現実だった。

 最近になって、自民党でアメリカの市民権を持っていた小野田議員が、市民権を手放した報告をしたと共に、戸籍を明示しない蓮舫議員を叩いていた。「良き日本人競争」を一生懸命していて、国籍を離脱したことによって「良き日本人競争」に勝ったと思っている小野田議員がガッツポーズをしているように見える。そのガッツポーズは何だか悲しく見える。「日本人にならなければいけない。」という競争を彼女もさせられているのだから。一体、彼女たちにそんな競争をさせているのはどこのどいつなのだろう。

 私は「良き日本人」競争を強いられている蓮舫さんを見ながら、彼女のような存在を認めたくないという人々が多いことを知る。帰化とは何だったのだろう。と思わされる瞬間だった。

 もしかしたら、世間からは蓮舫議員も私も『セデック・バレ』に出てきた花岡一郎と花岡次郎のような存在として思われているのだろうか。「良き日本人」として振る舞うことを求めらるだけの存在だとしたら、モデルにされる側はどうやって声を出せば良いのかと考えてしまう。

 そんな現実を知った時に、私も蓮舫議員のように険しい表情になってしまった。この国が本当に良い国だと言えるのは私と蓮舫議員の険しい表情が無くなっていくことなのかもしれない。

声を押しつぶす人たち

 今、安倍晋三寄りのジャーナリストである山口敬之氏が女性に性的暴行をしたと問題になっている。被害を受けた女性は警察に被害を届けたものの、結果的に嫌疑不十分のため、書類送検になった。

 被害を受けた女性は一部ではあるものの実名を公表し、顔を出して会見に臨んだ。こういった性的暴行の事例では被害者が表に出て何かを話すということはとても少ないが、今回は彼女の希望によって、会見が行われることになった。

 しかし、そんな被害を受けた女性に対して、この女性に「隙」があったのではないか?という声がある。男女2人でお酒を飲みに行くのに油断をしてはいけないということが言いたいのだろうか?こんな意見を観ていて、何だか呆れかえってしまった。

 被害者であるにも関わらず、何故、ここまで非難の声が上がるのだろうか?

 学校でいじめ自殺があったという話や企業の中で何らかの問題があったという話の中で必ず言われる文句がある。それは「この問題については全く関知していませんでした。」という言葉だ。問題が起きた学校や企業のお偉いさんに何かマニュアルでもあるんじゃないか?と思ってしまうくらいに共通している。長い間、こういった現象が起きてしまうことが不思議でしょうがなかったが、あることをきっかけにこういうことが原因なのではないか?と思い始めた。

 私はBuzzfeedヘイトスピーチに関しての記事が取り上げられて以来、小さな空間やインターネットの空間で「当事者」として差別の話を話す機会が多くなった。私の話に対して様々な応答がやって来るのだが、その中でびっくりしてしまう応答があった。それは「貴方の受けている差別なんて気のせいじゃない?」という言葉だ。この言葉はとても怖い。私が話したことは無かった問題と断定してしまうからだ。

 差別の問題のみならず、こういった「語りにくい被害」は当事者が様々な社会的制約から語らないということが多いけれども、私は「語ってもしょうがない」という心理がどこかで働くのではないかと思う。声を出してもそれを差別として認知しようとせず、差別されている当人のせいにしてしまうのだから、声を出しても何も変わらないということに気づいてしまう。そして、怖いのは「気のせいじゃない?」と言っている人たちが、無かったことにしようとしている感覚すらないということだ。

 この被害女性への非難とは一体何だろうと考えてみると同じ怖さを感じる。

 彼女を非難している人たちはたくさん居るが、そのどれもが彼女の「失点」としてこの問題を語ろうとしている。だけれども、それは被害を受けた彼女の失点にすることによって、無かったことにしたいという欲望の表れであるのだ。

 そして、この問題の深刻な点は「語ってもしょうがない」という空気を作ってしまうことだ。日本国内では性犯罪が起き続けている。そのような中で、彼女の勇気のある「告発」は非常に意味をなすものになる。でも、もし、この「語ってもしょうがない」という空気を作り出してしまったらどうなるのだろう。同じような犯罪が起きたとしても見逃され続けてしまうだけだ。

 無かったことにしたい人たちはそこまで考えているのだろうか。

 そんな無かった人たちに対抗するためにしていることは何だろう。

 それは声を出すことだ。ネットでも、自分たちの周りの人たちにも少しだけ話をしてみるのも良いのかもしれない。まずは無かったことにしないこと。そして、勇気のある告発をした彼女に寄り添うこと。これが一番大事なことだと私は思う。

 とても単純なことだし、もしかしたら、どこででも言われていることかもしれないけれども、敢えてここで書いたのは、ただでさえ、これから誰かが集まって物を自由に言えなくなる時代が来るかもしれないからだ。

 そんな時代にしようとしている偉い人とその取り巻きの人たちにとって一体何が怖いのかと言えば、そんな小さな繋がりとちょっとした言葉の力だ。犯罪をもみ消せるよな大きな力を持っている人たちだからこそ、とっても怖い力を私たちは持っている。

天皇の言葉を借りて「民主主義」を語る

   先日、毎日新聞であることが報道された。その報道とは天皇が退位を巡る有識者会議でとある有識者の発言に対して、天皇が不快感を示したということだった。その有識者の発言とは天皇は祭祀さえすれば良いという発言だったらしい。確かに長年、様々なところを行幸し、戦後、残されたことを総決算しようとした天皇の方針とは違った考え方だったかもしれない。

 こうやって天皇の意見が新聞上で出てくるのはとても珍しい。基本的に天皇が何かのイシューに対して、意見を示すことは無く、避けられる傾向にある。天皇の言葉は権力によって用いられる。いわば、権威のような存在だからだ。実際に、かつて、防衛庁長官が内奏で天皇が話した言葉を公にしてしまい、それがきっかけで防衛庁長官が辞任に追い込まれた事件もあった。そのくらい天皇の言葉は重大なものとして扱われていたのだ。

 だが、驚くことにこの天皇の意向を安倍政権への反対だと言ってしまう人たちが多い。確かに安倍政権が戦後民主主義体制を破壊しかねない、かなり危険な政権であることは間違いないだろう。私も安倍政権には反対だ。だが、本当かどうか分からない宮中の天皇の意見を自分たちの政治的な意見の正統性として用いるのは一体どういう意味を持つのか。

   大日本帝国憲法では国民に主権は無く、あくまでも天皇に主権があるとされていた。そして、政治的な決定は天皇の言葉を通して、行われていたが、その結果、天皇の言葉が政治的闘争のために用いられ、また天皇の名前によって、人権を無視するような行為が行われるようになってしまった。

   私は植民地で育った祖母から天皇の恐ろしさをよく聴いていた。正確に言えば、天皇の名の下に何をやっても良いという恐ろしさとでも言えば良いだろうか。植民地の人々にとっても天皇の言葉は絶対だった。そんな言葉に逆らえば命はない。

   かつては植民地の人々が天皇の住む宮殿に向かって挨拶をすることや、天皇の祖先を祀る神社にお参りしなくてはいけないような決まりもあった。クリスチャンだった祖母にとってこの儀式は屈辱的だったと聴いている。祖母の青春はカッコ良く言えば、個人の思想信条の自由を守るかの戦いだった。

   そんな日常を伝え聴いていた時は、「昔はそうだったんだろうなぁ…。」ぐらいの認識だったが、今では全く違う。

「うわぁ…。あの時聴いていたことそのまんまじゃん…。」と思う日々だ。

   植民地の子孫として生きて、日本国籍を取得した私にとって、天皇の言葉よりも日本国憲法の理念が大事だ。

国民主権、平和主義、基本的人権の尊重…。

もしかしたら、これは絵空事に聴こえるかも分からないが、そんな日本国憲法の理念によって、私は生きていると思っている。

決して、天皇の言葉なんかではない。

   教室で教えられることや歴史の本を思い返してみれば、1945年を境に戦前/戦後に区分している。だが、天皇の言葉を用いて、自分の主張をしている人々を見ていると戦前と戦後なんて無くて、ずっと帝国が生きていたと感じてしまう。いや、かつての帝国なんかよりも酷いかもしれない。一方では臣民であった人々を除外し、諸権利を戦後の体制によって奪ったばかりか、差別する現状を是認し、一方では同胞だと言いながら、憲法の理念を信じて復帰した人々に日本のためのセコムを押し付けて、反対すれば「土人」と言うのが今なんだから。

戦前/戦後の間にあるスラッシュのまやかしは今に始まった事ではなかったのだ。

   いつになったら、見えない植民地を生きる私は私の口で語ることができるのだろう。

   つい最近、とある会社のお偉いさんが、憲法なんて紙切れにしか過ぎないとSNSに書き込み、謝罪することになった。あのお偉いさんの言うことは皮肉なことに間違っていなかった。天皇の言葉を使って、政権に反対するなんて最も憲法の理念から反している人々が居たからだ。

   この国の憲法国民主権という大事な原則を生かすも殺すも自分たちの意思次第だ。

Tシャツを脱がせたのは誰だろう

 私が在籍していた高校はとても校則が厳しかった。頭髪検査はもちろんのこと、爪の長さや、男子は腰パン、女子はスカートを短くしていないかを視られていた。

 卒業した今から考えれば、なぜ、あんなに生徒を拘束していたのかも分からない。別にグれるような連中は居なかったし、それぞれの個人にモラルがそれなりにあったと思う。「反抗したい」と思っているが、文句を言いながらも渋々、そんな変なルールを受け容れていた。

 学校の校則は今、考えてみれば奇妙なものが多い。例えば、「髪の毛を染めるな」とか、「異性交際禁止」とか、数えていけばキリがない。必要に迫られて髪の毛を染めなきゃいけない人だって居るし、陰ではコソコソお付き合いしていることだってある。なんで、高校生だけがそんなことをしてはいけないのか・・・・・・。

うーん。卒業してから考えると、とても不条理に感じる。

 今から考えれば、「高校生の癖にお洒落はするな。」もしくは「高校生の癖に色づくな。」ということか。そんな環境で育っていると妙に主張している自分と同じ年の連中を観て、「うわぁ・・・・・。中二病だ。」と言って、馬鹿にしていていた。

 私にとって、とても恥ずかしい過去だ。

 今日は参議院に行ってきた。小学校の社会科見学以来だったが、大人になってから行ってみるとまた違った感覚で観ることが出来る。特に、ここで寝てる奴は許せんよなぁとか(笑)そりゃあ、私たちの一票で代表を決めているんですもんね。

 そんな大人の社会科見学の当日である今日はとても暑かった。5月下旬であるにも関わらず、真夏みたいに暑い。こんな暑い時、私は大好きなTシャツとジーパンで過ごすことにしている。

 私はTシャツを集めるのが大好きだ。どんなTシャツを持っているかと言えば漫画「ワンピース」やディズニーのTシャツのようなキャラTや、バンドTシャツもあるし、ちょっと主張のあるTシャツまで持っている。これで夏は大体、乗り切れてしまう。

 今回の大人の社会科見学では特別、何も考えずにビートルズのTシャツを着て、替えのTシャツをバックの中に入れていた。こんな天気の時は汗をかいてしまい、着ているTシャツがびしょびしょになってしまうからだ。

 今日も結局、国会議事堂前駅のトイレで黒いTシャツに着替えた。そして、トイレの鏡の前に立った途端にふと気づいた。なんと、そのTシャツの胸にはオレンジ色で「NO WAR!」と書いてあるではないか。でも、私は大丈夫だろうと思って、参議院に向かった。

しかし、参議院の前にまで行ったときに、職員さんに止められてしまったのだ!

その職員の人曰く

「主張がある服装での入場はお断りしています。」

とのこと。

 一気に高校時代に戻ったような気がして、「懐かしいなぁ、この感じ。」と思い、「NO WAR!」のTシャツから、再びビートルズのTシャツに着替えた。それで無事にOKを貰い、国民の代表機関である国会に入ることができたのだった。

まぁ、ビートルズも愛と平和を歌ったんだから充分、主張はあるんだけどね(笑)

   こんな出来事があっては、建物のことなんか頭に入らない。ひたすら、職員さんにとって、「主張がある」っていうのは一体何だろうと考えていた。

 日本の学校に通っていると嫌でも社会科の時間に日本国憲法の三大原則を学ぶ。

国民主権」、「平和主義」、「基本的人権の尊重」。

この3つの原則で私たちの自由な生活が保障されていると言っても過言ではない。

 日本国憲法の三大原則の中で特に特徴的なのは「平和主義」の条項、つまり、憲法9条だろう。ここで改めて、憲法9条とはどんな条項なのかということを確認してみるとこんなことが書いてある。

第二章 戦争の放棄

第9条第1項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

第2項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 

 おいおい!これってつまりは「NO WAR!」じゃないか!

私のTシャツは全くもって当たり前のことを語っていたのだ。

 憲法で規定されている原則を書いたTシャツを着ていただけで、憲法で「国民の代表機関」であり、「国権の最高機関」に入れないなら、どんなに中立であったとしても、国会は誰の主張も受け容れてくれないのだろう。

 念の為に言っておくが、私を止めた職員さんに何か思っているということではない。むしろ、その職員さんも職務を遂行するために、上司からの命令でやっていただけだ。土日で、しかも、こんな暑い中、私みたいな面倒臭い人間を注意するのだから本当に「ご苦労様」と心の底から言いたくなる。

 そんな職員さんよりも、憲法に書かれた当たり前のことを「主張」だと言ってしまお偉いさんの方が遙かに問題だ。

 こんなお偉いさんたちにとっての「主張」っていうのは何だろう?

まさか高校の校則のように「国民の癖にモノを言うな!」とでも言いたいのだろうか?

 先日、「共謀罪」を定めた刑法改正案が衆議院の委員会を通過して、今、衆議院の本会議で審議に入ろうとしている。様々なところで「共謀罪」の怖さを伝えている人たちが多い。しかし、もしかしたら、共謀罪があるような日常にもう入っているのかもしれないと思うと参議院の議場をただ見学するだけではいけないと感じるのだった。

ボールが描く虹色の夢

  先日、浦和レッズが6-1でアルビレックス新潟に勝ったらしい。久しぶりの大勝と首位にあらゆる人が喜んだ。

   しかし、私はその試合を快く観ることができなかった。それは試合内容に不満があったというわけではない。地元のクラブチームとして不名誉なことがあったからだ。

   5月4日の鹿島アントラーズ戦で、レッズのディフェンダーでお馴染みの森脇良太選手が鹿島のレオ・シルバ選手に対して、「臭い」と発言し、選手同士でもみ合いになった。結果、森脇選手が2試合出場停止になり、あの事件は「終結」することになってしまった。

   森脇選手がいわゆる「元気」なキャラだということはよく知っている。そのキャラが時にチームを元気付け、時に森脇のキャラがチームを危機に陥れることもある。ファンとして言えばこういうことはいつかあるのではないかと思っていた反面、ピッチの上で人種差別と捉えられないような行為をすることはショックだった。

 私が住む街にはあらゆる人たちが居た。教室に行けば、私のような在日韓国朝鮮人の子も日系ブラジル人の子も、残留孤児の帰還者の子も、新しく日本に渡ってきた中国人もクラスメイトとして一緒に過ごしていた。また、学校の中では部落差別に関する教育もされてきた。

 あらゆる人が住んでいたということ以外にも、私の住む街にはある特徴があった。それは野球の話よりもサッカーの話で盛り上がること。そりゃあ、当然だ。何せ、同じ街に2つのクラブチームがあるのだから。毎週土日になれば、試合が終わった後に、それぞれのサポーターが酒場で時に素晴らしいプレーを肴に酒を飲み、時に情けないプレーへの怒りをぶちまけていた。

 最も困るときは我が街の赤のチームとオレンジのチームが対決するときだ。お互いのホームタウンまで電車で10分ぐらいなのでまず、それぞれの駅が殺気立ち始める。試合になればここでは書けないようなヤジは飛び交うし、試合終了後、サポーターたちが溜まっている酒場は荒れに荒れる。どっちが勝ったかということはサポーターたちの顔を見れば一目瞭然だ。

 そんな街の名物風景を私は生まれてからずっと見てきた。そのせいだろうか、私はいつの間にかサッカー好きになっていた。丁度、私が小さい頃は日本代表が初めてワールドカップに出た時でもあった。今では、日本代表の試合はもちろん、時間があれば、Jリーグの試合も、イングランドプレミアリーグの試合も観るようになった。去年の冬頃は高校時代の友人と一緒にJ1の優勝決定戦を観に行った。喜び勇んで、埼玉スタジアムに向かったものの、結局はレッズらしい負け方をして、肩を落として帰ったことを憶えている。 

 私にとって、あの2つのチームはこの街の象徴だと思っていた。あらゆる出自の人たちがこの街には住んでいたし、実際、この2つのチームは外国人選手の活躍によって強くなってきた。そして、このチームを支えていたサポーターたちも色々な出自を持つ人間たちが支えてきた。森脇にとってはもしかしたら、一時の勢いで起こしてしまった過ちなのかもしれない。だが、彼に何だかこの街のことを否定されてしまったような気がした。
 また、悲しいことにこういった事件は今回が初めてではない。以前にも過ちを犯している。それは試合の横断幕に「JAPANESE ONLY」という横断幕を一部のサポーターが掲げたことだった。すぐさまこの横断幕は問題になり、重い処分が下された。

同じことは繰り返されてしまうのだろうか。私がこの街の一員として、できることはこういったことを無かったことにしないこと、そして、この出来事をブログで書くことだと思っている。もう二度とこんなことでサッカーを汚しちゃいけない。

 森脇はもうじき帰ってくる。そんな森脇を私はどうやって迎えれば良いのだろうか。処分が終わって同じことが繰り返されるようなチームを応援したいとは思わない。同じことを繰り返さないためにできることは一体何だろう。

ハッシュタグから世界へ

 内輪ネタで盛り上がることはとても面白いことだ。とある文脈を共有しているからこそそのネタが通じるが、その文脈を共有していないと時に大変な意味になってしまう。ある意味、内輪ネタは仲間同士の親睦を深めるには良いのかもしれないが、外でやった場合には注意が必要なのかもしれない。
 「#おまえの愛国は中国製」というハッシュタグがある。

このハッシュタグは先日、神社本庁が作成した「私、日本人でよかった」のポスターが中国のフリー素材で作られたことを皮肉ったハッシュタグだ。

 神社本庁のポスターには間抜けさとフリー素材で作られたことのちょっとした情けなさも感じてはいたが、その情けなさは別に「中国製」ということとは関係が無いし、もし、このハッシュタグの文脈が分からないまま読んだ場合、帰化した中国の人たちや在日中国人の人たちはどう思うのかなということがあった。それは私自身が帰化した立場で、いわば「在日製」もしくは「韓国製」のようなところもあるので、なんだか「中国製」と表現されていたことが嫌でしょうがない。

 確かに皮肉を込めたハッシュタグなのかもしれないし、このハッシュタグを作った本人には差別的な意図は無かったのだと思う。(いや、思いたい。)

 私はこのハッシュタグへの違和感とハッシュタグを使うことへの反対を表明したところ、様々な反応があったが、私個人としてはとても残念な結果に終わってしまった。ハッシュタグの生みの親とその周辺の人々は私と同じく違和感を表明した人々と対話する気は無く、「ネトウヨ」という箱の中に入れてしまうし、ネット上の差別主義者たちはこのハッシュタグとそれを巡る議論のおかげで差別に反対することへの「反対論」をより強化し、差別的な発言を是とする空気がより一層強まってしまった。

 こういった「差別」と疑わしいときにしていくべきことは、差別をしてしまった相手、もしくは差別であると指摘した相手を打ちのめすことではなくて議論することであるはずだ。差別している時には差別している感覚が一切分からない。この私も差別意識は全くなかったものの差別的な発言をしてしまい怒られてしまったことは何度でもある。だが、それを差別と気づいたのは真摯にその発言について議論をしたからだ。

 差別は運動の理屈だけでは成立しない。なぜならば、差別とは日常に存在して、その日常は敵か味方かという二分法では到底分けられないような生活の空間にこそ存在する。だからこそ、この問題提起と議論が差別を無くす側の運動の理論によって切り捨てられ、また差別を是認する人々から利用されることが悔しくてしょうがない。

 私を「ネトウヨ」の箱に入れた人々は普段から差別に激しく立ち向かう当事者でもある。きっとそのような箱に入れてしまったのは激しくなりつつある運動の中で、敵か味方かという思考になってしまったのかもしれない。それは在日という当事者である私も理解ができないというわけではない。社会的なことを議論していく場でも差別を肯定したい意見と議論のお作法として疑問視する意見が混じってしまうことは常に感じている。だが、そこを腑分けしていく力こそ私を含めて必要だと思う。

 そんなことができたら、もしかしたら、本当に差別に向き合える時なのかもしれない。そんなことができることを私は信じている。だって、普段から差別に向き合っているのだから。

 

4月3日

 今日は4月3日だ。

日本では今年、年度初めの日となったが、韓国では済州島4・3事件が起きた日として記憶されている。

 69年前の4月3日、済州島で島民たちが南朝鮮単独の国会議員総選挙に反対し、一斉蜂起した。韓国政府は済州島に多くの警察や軍人、反共主義者たちで構成されている自警団を送り込み、島民たちを虐殺。完全に鎮圧された1954年まで6万人の島民が命を失った。

 私の父方の祖父母は済州島の出身だった。

どちらもこの事件が起きる前に日本で定住したようだが親戚たちは済州島に居たようだ。特に父方の祖母は済州島の中で、最も裕福な家の出身で、数多くの兄弟姉妹が居たということを聴いている。だが、祖母の兄弟姉妹の中で長生きした人間というのは祖母たった1人だけだった。

 まだ、父方の祖母が存命だった頃、祖母の兄弟姉妹はなんでそんなに早くに亡くなったのか?と尋ねたことがあった。その時、祖母は「皆、戦争で死んじゃったんだよね。」と寂しそうに語っていた。

 後になって父から聴いたことだが、祖母は自ら、過去のことを語る人ではなかったようだ。何かを聴いたとしても「あの時は苦労したんだよね。」ということしか言わない。私にとってはなんだか不思議な祖母だった。

 そんな父方の祖母とは対称的に、母方の祖母は昔話を良くしてくれた。

 母方の祖母もかなり裕福な家だった。ソウルの中心街の生まれで、日本にやって来るまで、ずっとソウルの中心街で生活をしており、様々な人とも交流を持っていたようだ。

 母方の祖母が亡くなるまでの1年間は私たちの家族と同居していたので、祖母がソウルの中心街で観てきた植民地の頃から5・16軍事クーデターまでの様々なことを私は伝え聴くことができた。

 母方の祖母は生粋の反共主義者だった。朝鮮戦争の際に著名な宣教師だった祖母の姉の夫が拉北されたことをきっかけに反共主義者になってしまったという。

 そんな祖母がどういうわけだか分からないが、ある日、こんなことを私に言ってきた。

「shionちゃんのお父さんは済州島出身だろ?良いかい?余り色々な人に済州島出身だということは言わない方が良いよ。あの島は朝鮮動乱(祖母は朝鮮戦争をこう呼んでいた)の前にパルゲンイ(共産主義者)たちと一緒に国を裏切ったんだからね。あんまり言ってしまうとどう思われるか分からないし、お父さんも傷つくから黙っておくんだよ。」

 私はその言葉を聴きながら、なんだか複雑な気持ちになったのを憶えている。

 済州島4・3事件は 長い間、共産主義者による韓国政府への反乱だとされてきた。だが、近年になって、韓国政府は犠牲者や島民たちに謝罪し、あの時、蜂起した島民たちの名誉を回復しようとしている。

 あの時代を済州島の側で生きたからこそ、何も語らなかった父方の祖母と朝鮮半島の真ん中で生きていたからこそ、時代の流れを見続けていた母方の祖母の間には見えない壁があったことを今になってから気づくことが出来る。

 私にとって不思議だった父方の祖母は国家の裏切り者という汚名から自分自身の身を守るためにずっと黙っていたのかもしれない。

 もし、今、父方の祖母が生きていたら何を私に語るのだろうか?