『セデック・バレ』と蓮舫さんと私と

 『セデック・バレ』という映画がある。日本の台湾統治時代に台湾の原住民であるセデック族が起こした霧社事件をテーマにした映画で、2部構成、計4時間というとても長い映画だ。だが、不思議なことにこの4時間という時間を感じさせないくらいにとても面白い映画で、私は時間さえあれば何回も観てしまう。

 この映画には花岡一郎、花岡次郎という2人の登場人物が出てくる。彼らはセデック族だが、セデック族の中でも頭が良いということで他のセデック族よりも良い教育を受け、街の巡査として働いている。本来、支配される立場の人間が、模範的な支配される側として当局に利用されているのだ。劇中でこの2人は日本とセデック族の板挟みとして苦しみながらも、最終的にセデック族の反乱に協力し、死んでしまう。

 この2人を観ながら、私は思わず自分自身を重ね合わせてしまった。2つの共同体の板挟みになる辛さというのは痛いほど分かるし、霧社事件から90年近く経った今でも、帰化をした人々は「日本人らしさ」を求められる。現に自分がかつて所属していた共同体をけなして、「日本人らしさ」を強調する人だって居る。私は帰化したのにも関わらず、自分を「日本籍の在日コリアン」と言う。せっかくの自分の人生だからどこかのマネキンで居るようなことは嫌なのだ。

 ずっと、この気持ちは私だけにしか分からないと思っていたけれども、最近になってから、『セデック・バレ』の花岡一郎と花岡次郎に共感できる人は私だけではないと感じることがあった。 

 民進党の代表選挙の時、蓮舫議員の「二重国籍疑惑」が問題になった。元々は中華民国籍で日本に帰化したはずの蓮舫議員が、中華民国籍を抜いていなかったのではないかというお話だ。どう考えてもこの問題を提起した人々は悪質極まりないが、この問題がきっかけで蓮舫議員は叩かれることになった。だが、この問題よりも私個人として何とも言えない気分になったのは、「私は生まれながらの日本人です。」とFacebook蓮舫議員が釈明したことだった。帰化したことは悪いことでは無いし、彼女自身のルーツは悪いことではない。だけれども、このような問題があらぬ方向から来てしまって、彼女はこう答えるしかなかったのだろう。

 私の周りの蓮舫議員の評判は良くない。「高飛車だ」とか、「偉そうだ」とか言われて、何を言っても否定されてしまう。でも、この私からすれば蓮舫さんは必死になっているようにしか見えない。帰化人だからということなのか、誰よりも必死に取り組もうとするし、誰よりも真面目になろうとしている。彼女の険しい顔と強い言葉からそんなことの考えている現われかもしれない。多分、彼女は「良き日本人」になりたいのだろう。この私にもそんな気持ちがどこかにある。でも、そんなことをしても結局は「良き日本人」になるだけで、それ以上でもそれ以下でもない。二重国籍疑惑の時のように結局は「帰化人だから」ということで片づけられてしまうようなことが現実だった。

 最近になって、自民党でアメリカの市民権を持っていた小野田議員が、市民権を手放した報告をしたと共に、戸籍を明示しない蓮舫議員を叩いていた。「良き日本人競争」を一生懸命していて、国籍を離脱したことによって「良き日本人競争」に勝ったと思っている小野田議員がガッツポーズをしているように見える。そのガッツポーズは何だか悲しく見える。「日本人にならなければいけない。」という競争を彼女もさせられているのだから。一体、彼女たちにそんな競争をさせているのはどこのどいつなのだろう。

 私は「良き日本人」競争を強いられている蓮舫さんを見ながら、彼女のような存在を認めたくないという人々が多いことを知る。帰化とは何だったのだろう。と思わされる瞬間だった。

 もしかしたら、世間からは蓮舫議員も私も『セデック・バレ』に出てきた花岡一郎と花岡次郎のような存在として思われているのだろうか。「良き日本人」として振る舞うことを求めらるだけの存在だとしたら、モデルにされる側はどうやって声を出せば良いのかと考えてしまう。

 そんな現実を知った時に、私も蓮舫議員のように険しい表情になってしまった。この国が本当に良い国だと言えるのは私と蓮舫議員の険しい表情が無くなっていくことなのかもしれない。