昨年の12月に入管法改正があったからなのか、日本に住む「移民」を取り上げる記事や番組が増えたように思う。
「こうやって取り上げてくれるのはなにかが変わりつつあるからなのかな?」と思いながら、こうした記事や番組を読んだり、観たりしていると「とうとう日本にも移民がやってきた」みたく、さも、移民が日本にとって新しい存在であるような論調で取り上げられていることに気づく。
そんな論調に触れ、寂しい気持ちになりながら、私はあの映画のことを思い出していた。
同じ世代の在日のひとたちと映画の話をしていると窪塚洋介さん主演の『GO』に「リアルさ」を感じたというひとが多く、私はいつもその話を興味深く聴いている。
なぜかといえば、在日がテーマになっている映画を観ていると「いや、そこはそう言わないし、在日だったらここの所作はこうするよな。」と細かいディティールが気になって、ついつい演出スタッフのようなことをスクリーンに語りかけてしまうからだ。
先日、観た『焼肉ドラゴン』では、済州島出身で、焼肉屋の一家が主人公という我が家とまるかぶりだったせいか、出演していた大泉洋さんが焼肉を食べているシーンを観て「そこは腕をまくるだろ。」とか、主人公一家のお父さんやお母さんの喋り方を聴いて「この時代のひとたちって、こう喋らない。もっと、湿っぽい喋り方をする。」と心のなかで独り言ちた。
そんな私が在日の「リアルさ」を感じる映画だと思うのは、フランシス・コッポラの『ゴッドファーザー』だ。
この映画はアメリカに住むイタリア系マフィアの映画だと言われるが、私にとっては「マフィア映画」というよりもアメリカのあるイタリア系移民一家の映画だ。
主人公のマイケル・コルレオーネは家族の反対を押し切って、第二次世界大戦中に日本と戦うため、軍人となってしまうぐらい家業を継ぐつもりはなかったが、さまざまな出来事が原因で、家族と組織を守る「ゴッドファーザー」として君臨していた父、ヴィトーの跡目を継ぐ。彼も父と同じように家族と組織を守ろうとするが、なかなか父のようになれず、苦悩する。そんな男たちの一方で、マイケルの妹であるコニーはコルレオーネ家の女性として、組織や家族の犠牲となり、家族に反発しながらも一家の一員として、家族や組織を守ろうとする。
私の知り合いにイタリア系のひとはいないが、この映画で描かれている人間模様を観て、私は「ヴィトーはあのおじいさんで、マイケルはあのおじさんで、コニーはあのおばさんで・・・・・。」といつの間にか私の知っている在日たちを思い出し、気づいたときには目頭が熱くなっている。
そして、私はあることに気づく。
「そうか。私も「移民」だったのか。」
在日は日本の植民地からやってきて、ある程度、日本語もできたのかもしれないが、生き方はコルレオーネ家のひとたちと変わらない。生きていくために誰もやりたがらないような仕事をして、「家族」を守るためにさまざまなひとたちが犠牲になりながら生きていく。
異なる国で生きていくためにはこうやって生きなければいけないのだ。外の世界はだれも自分を守ってくれないことを知っているから。
だから、コルレオーネ家のひとたちの生き方をマイケルが戦った国で生きている私が思わず、「このひとたちは私たちと同じなんだ。」と思いを馳せ、「異なる国で生きていくとはこういうことだよね。」とアル・パチーノの顔が映し出されるスクリーンに優しく語りかける。
「とうとう日本にも移民がやってきた。」みたいな論調に触れ、寂しい気分になりながら『ゴッドファーザー』を思い出すのは、この映画を観て、「異なる国で生きていくとはこういうことだよね。」とスクリーンに語り掛けている私と、私の記憶のなかで生きているあのひとたちが忘れ去られているような気がしてしまうからだ。
歴史的にさまざまな経緯を抱えている「在日」という移民を忘れ去ってしまったほうが、日本のひとたちに受け容れられやすいのだろうか。それとも、日本のひとたちが感がる「移民」として、私たちはあまりにも「分かりにくい」からなのだろうか。
移民を新しくキャッチ―に語るひとたちに都合よく忘れ去られている分かりにくい在日の私にはその理由がまったく分からない。
「移民」を取り上げる記事や番組はたしかに増えたと思う。だが、『ゴッドファーザー』を観て、「異なる国で生きていくとはこういうことだよね。」とスクリーンで語る存在はどこへ行ってしまったのだろう。
私は「とうとう移民が日本にもやってきた」と言わんばかりの記事や番組を読んだり、観たりしながら、こう語りかける。
移民はこの日本というくににとっくの昔から生きているんだよ。