もし在日コリアンである私がビビンバについて語ったら

   こないだ初めて知ったのだが、李明博大統領の時代に「韓国料理の世界化」政策という韓国料理を世界5大料理の1つに入ることを目指し、さらに韓国料理を高級化することをしていたそうだ。

   祖母が焼肉屋だった立場からはっきり言おう。

韓国料理の世界化なんて必要ない。

釜山に行って、一番美味い店は市場の中の小汚いデジクッパ屋だったし、美味しいティッコギ屋も小汚かった。

ついでに言えば、美味い焼肉屋ほど小汚い。

もちろん、インスタ映えなんかするわけがない。

   李明博政権は韓国料理屋をインスタ映えさせたかったのか?いくらなんでもそんな韓国料理の世界化なんて韓国料理に対しての侮辱だと思うので、それもひっくるめて、検察にはじっくりと取り調べして欲しい。検察がやらないなら私がやりたい。

   ふと、韓国料理の象徴とは何だろうと考えた。韓国料理には庶民的な料理が多い。だが、キングオブ庶民の料理を決めるとしたらそれはビビンバで決まりだ。きっと青島幸男だって、国会でそう決めると思う。

   あるとき、韓国料理屋に入った。メニューを見てみるとビビンバがある。値段に目をやると850円と書いてあるではないか。

おいおい、いつから日本はハイパーインフレになったんだ。

世界史の教科書で見た、ワイマール・ドイツのときに子供たちが札束を積み上げて遊んでいるような状況になったのか。

ビビンバって言ったって、ひょうきん族に出てた方じゃないぞ。(これでクスっとした貴方はきっとテレビっ子。)

   そもそもビビンバというものは、給料日前に野菜が安いときに作り置きしたナムルを3日かけて消費するときに食べたり、チェサの残り物を消費するために食べる。具材はほうれん草のナムルと大根と人参のなますともやしのナムルとぜんまいのナムルとされているが、あくまでも最低限のの具材でしかない。予算次第では具材をたくさん入れることも可能だ。

つまり、ビビンバとはソシャゲなのだ。課金次第で良くなってくる。だが、私たちはそんな軟弱な真似はしない。いかに金をかけないかで勝負する。

私がオススメなのはてきとーなキムチを入れ、さらに生卵かけることだ。

「牛丼に生卵をかけるときの贅沢を忘れることを傲慢と言う」という名言があったと思うが(あるということにして欲しい。)ビビンバに生卵を投入すると一気に金持ち気分が味わえる。まぁ、ビル・ゲイツがビビンバを食べるときはどうせ生卵2つを投入するだろうがそんな無粋なことはしない。生卵は1つで十分なのだ。それ以上やったら生卵がメインになる。

   キムチについてだが、これは別になんでもいい。味は問わない。どうせコチュジャンの味で分からなくなるんだから。

  そして、仕上げに胡麻油を垂らす。これはほんのちょっとでいい。

肴は炙ったイカでいい。(書きたくなった。)

  次は簡単だ。完璧に仕上がったビビンバにコチュジャンをまぶし、米粒が潰れて、餅になるんじゃないかってぐらいに豪快に混ぜる。別に礼儀作法なんてない。

あとは自由に食べればいい。アメリカ映画に出てくる口の周りにチョコレートまみれのデブみたいに口の周りはコチュジャンだらけだ!

   上品とは程遠いビビンバ万歳!

礼儀作法なんて糞食らえ!

これが韓国料理だ!

   最近、様々な人が存在する社会のあり方を流行りの言葉で「ダイバーシティ」や「共生社会」と言っている。

   在日の社会に目をやると色んな人たちと生きてきたことが分かる。在日の部落の隣も差別されていた人たちの部落で、その人たちと差別し合ったり、協力したりして生きてきた。私は『三丁目の夕日』的なノスタルジー溢れる昭和の幻影が好きではない。あんなに綺麗なものではなくて、もっと意地汚かったし、生きるのに必死だった。生きていくためにはときに、暴力も振るった。

ビビンバを混ぜるとき、汚く混ぜると言うが本当にそんな混沌の中で生きてきた。もしかしたら、ビビンバは在日の生き方そのものだったのかもしれない。

   私は幸い、そんな時代を生きてきた人たちと生活してきた。だから、「ダイバーシティ」という言葉や「共生社会」なんていう言葉がとても洒落臭く聞こえてくる。

何故、雑多に生きている当たり前の事実に名前をつけて、主張しなくてはいけなくなったのだろう。

「みんな、仲良く暮らしてます。」で良いじゃないか。