「歴史」の中で生きていく
朴槿恵が辞めるか辞めないかの瀬戸際に居る。今日も韓国では大統領の辞任を求めるデモがあったようだ。最近、日本と同様にデモを起こしても意味は無いんじゃないかというような空気感があったのにかなり驚きだ。日本でも漂うような冷笑的な空気をぶっ飛ばしてしまうくらい韓国に住んでいる人々が怒っているということだと思う。
そもそもこんな事態になってしまったのは、朴槿恵が親友である崔順実に頼って政治を行っていたばかりか、大統領が彼女に相当便宜を図っていたということが分かったことからだった。一部の報道では崔順実がムーダン(沖縄で言えばユタのようなもの)で、そんな崔順実のお告げを聞きながら政治を行っていたという話すら存在する。さらに面白いものでこの報道に対して韓国のムーダン全国協会が崔順実がムーダンではないということ、本来のムーダンとは神と人とを結ぶ役割であるということをわざわざ声明として発表した。確かにムーダンだったうちの父方の祖母もこんなことに怒ってしまうだろうなぁと思いながら私はムーダンたちの怒りの声明文を読んでいた。それくらい崔順実の事件は韓国社会に大きな衝撃を与えたのだ。
思い返してみれば、こんなことは今までの韓国の政治では観られなかった。確かに韓国は1945年の独立から1988年まで43年間は李承晩と軍部政権による独裁政権という日本とは全く違う政治史を歩んできた。そんな中でも色々な人が尽力をして、民主化を勝ち取った。そんな国で朴正煕の娘が大統領になるのは皮肉なことなのかもしれないけれど、そんな紆余曲折があって今がある。でも、そんな独裁政権の中でもこんなことは起きなかった。まるでドラマのワンシーンのように感じてしまう。
韓国はとても面白い国で、MBCという放送局で激動の韓国政治史を描いた第五共和国なんていう歴史ドラマがある。もし、韓国が第六共和国から第七共和国になれば、きっとこのこともドラマ化されるのだろう。もう朴槿恵が辞めるのも時間の問題だろうなぁというのが私の見立てた。
どうでも良いかもしれないが、朴槿恵にはあんまし良いイメージは無い。それは私の実体験の中に居る朴槿恵のイメージがあるからだ。そのイメージは何もしない「大統領」というそんなイメージだ。
2014年に私は釜山に留学していた。本当に些細なことがきっかけなんだけれども、全く韓国語が喋れず、まっさらな中で韓国に行くことになり、不安でいっぱいの韓国留学だった。言葉も喋れないからとりあえず飲むことだけは覚えた。そうでもしなければ人と接することができない。しかも、寮生活とは言え、親元から離れて生活するのも初めてのこと。初めてづくし、分からないこと尽くしの中でとりあえず慣れていくのに必死だったそんな中である事件が韓国で突然起きた。
釜山から近い、珍島というところで、なんとフェリー船が沈んだということだった。当時通っていた語学堂の先生が職員室でパソコンを通してフェリー船から逃げてくる人々を救助する様子を食い入るように見ていたことを覚えている。そんな大きなことがあったからとても大変。その時行われるはずだった運動会は中止になり、語学堂が主催の作文大会は開かれたものの開会式の中で黙とうを行った。街中では人々が黄色いリボンを胸につけ、沈没事故の追悼を行っていた。
しかし、人々の追悼の中で政府の対応はかなり酷いものだった。まだ沈没してしまった船の中には遺体があるのに引き上げようともしなかったり、大統領が声明を出すにもかなりの時間がかかった。大統領が何かをしていたというイメージも無かった。
おりしもその当時、韓国国内では物価の上昇が始まっていた。お金のない留学生活だから正直、この物価上昇は様々な負担になった。それでも大統領は何もしない。
冬にソウルに旅をしたのだけれど、景福宮前の大きな広場でセウォル号事件の被害者たちの団体と物価上昇を食い止めるための対策を行ってほしいと主張する政治団体が隣同士で署名活動をしていた。
その光景を見て私は一体、この国の大統領は何をしているのだろうと思ってしまった。
そして、現在、崔順実の「お告げ」によって政治をしていたことが分かり、あの時のグダグダな韓国政府の理由が分かったような気がした。そりゃあ、お友達に「助言」してもらわないと何もできないんですからね。
私は帰国後、母親に夕食の席で韓国の様子を語った。母親は1970年代からちょくちょく韓国に里帰りしていたようだし、留学もしていた時期があったようだ。しかし、結婚後には韓国に行くこともなくなり、最後に母が韓国へ行ったのは1980年代後半。丁度、韓国が民主化運動の波で揺れていた頃である。そんな時代しか知らない母に今の韓国の様子を話すのはなんだか楽しい。韓国の様子を話す中で、母親に朴槿恵の悪口を言った。悪口というか生活の愚痴として大統領が何もしないということを話したという感じ。そうしたら、「お父さんは偉大なのにねぇ」と話し、朴正煕がいかに凄かったかを熱弁された。朴正煕が貧しかったころの韓国の経済を立て直した話、朴正煕の政治によって国民の生活が豊かになった話、朴正煕暗殺後には国民が皆、泣いていた話。話は朴正煕の話で終わるのかなぁと思った後、まだまだ話は続いた。朴正煕の後の全斗煥がいかにダメだったのかという話、民主化運動で大学の校舎から身を投げた学生の話・・・・・。
挙げていけばキリがないのだけれども、私の韓国現状報告会から一気に母の韓国現代史を語る会になってしまったのだ。
母の話を聴いていた私はこの人の中でそうか、朴正煕はこうやって語るのかと思った。一応、所属していたゼミの一つは韓国政治を専門としているところだったから、朴正煕の光と影のようなことは嫌でも勉強させられる。韓国を旅していた時に朴正煕が良いイメージではなくてむしろ、独裁者としてのイメージとして語られることが多く、朴正煕をここまで賛美する人も今どきいないと思う(笑)。でも、そんな語りを私の母はしたのだ。
母の話を聞き終わった後に、母方の祖母が私に話をしてくれた現代韓国史の話をしていたのを思い出した。祖母の現代韓国史の話もかなり面白い。なにせソウルのど真ん中に住んでいて、植民地朝鮮だった頃を生きている。祖母からは色んな話を聞いた。植民地時代の話はもちろん、植民地時代にこっそり韓国語を使っていた話や植民地に住んでいた日本人の話、太平洋戦争が起きたときの話1945年8月15日の話、アメリカ軍政期の時のアメリカの軍人さんの話、李承晩大統領就任式に行った話、朝鮮戦争でお祖母ちゃんのお姉さんの旦那さんが拉北された話、4・19学生革命の話、5・18軍事クーデターの話。そんな話をたくさんしてくれた。
中でも驚いたのは、私と祖母の二人で終戦記念日のテレビ番組を見ていた時に、独立運動家だった金九と同じ教会に通っていたという話をし始めたことだった。どんな人だったのと私が聴くと、「体が大きくて、とても人格的に立派な人で色々な人に慕われていた」という話をしていたのを覚えている。
こんな生活の中で母も祖母も子供である私に対して、あの時代の韓国に所属していた人間として語り継ぐプロジェクトをこのように行っていた。それはある面からすれば「韓国人」というアイデンティティーを高めるためだったのかもしれないが、その語り継ぐプロジェクトをどのように料理していくのかは私の仕事だと思っている。また面白いのがこのプロジェクトを行っている際の祖母と母の語り口だ。実は祖母と母は血のつながりがないのだけれども、その語り口が実の親子なのではないかと思うくらいにそっくりなのだ。これがもしかしたら語り継ぐ共同体の中での継承なのかもしれない。
歴史とは史料の中に様々な事実があることは確かなんだけど、こうやって聴く、嘘か真か分からない家族の話が時に私に届いて来る。それは家族自慢をしたいわけではなくて、そんな歴史が日常にある光景は歴史の中に私が生きていることを伝えてくれる。それはアイデンティティーをただ高めるだけの話ではない、確かに遠くに居るからこそ高めたくなるアイデンティティーだけど、そこは踏み止まって、静かに話を聴いて、言葉に引き戻さなくちゃいけない。これがまた結構難しい。
何かに留まりたい欲を抑えながら、留まれない私を受け容れること、そして、留まれないからこそ、美しい風景が観れるということ。そんな美しさが何かに繋がると思っている。
なかなか難しいかもしれないけれど歴史が語りかけてくれる虎のような吐息のようなものであったり、そんな空気は日常のほんのちょっとしたところにあって、そんなちょっとしたクレバスのようなところから妙なものを見たりすることができる。そして、それを言葉に引きもどすのは何よりも大変だし、自分を試されるがそんな時にこそ自分が語り継ぐ立場として何を語るかということが大事になる。そんなチャレンジを人知れず今でもしている。
息づく歴史はこんな感じで継承される。それは責任なのかなんなのかは分からないが、代々継承されていく語りで多分、文章ばっかり読んでいる人には相手にされない。でも、こんな大事なことがあるからこそ、私は歴史を歴史としてどこか他人事のようにしてしまうのではなくて、私がそんな歴史の延長線上に居るということを感じるためのものだ。でも、そんな歴史の延長線上に居る私に酔ってもいけない。御先祖様は凄かった。おじいちゃんは凄かったなんて、若い僕が言うのはダサいじゃない(笑)そもそも人の営みに凄いとか凄くないとかそんなことは関係無い。人の営みそのものが物凄い確率の中で行われているのだから、その確率の凄さを嚙みしめたいし、そんな昔あった人の営みのようなものを私は感じていたいのだ。
そんな人の営みを伝える温度のある語りがあるからこそ、ときに身近に感じられない海の向こう側の話が私の手の中に温度を持って届けられる。きっとこの話はナショナリストの考えで行けば、韓国語でされなければいけない話かもしれない。そんなことは意地でもお断りなのだが(笑)、実際に私や母、祖母が語っている時に使う言語は日本語なのだ。よくよく考えてみればこれも凄い話だ。同じ帝国だったとは言え、遙か遠くで起きた帝国と植民地の歴史の話がこれまた歴史のいたずらと人の営みによって海を越え、帝国の言葉であるはずの日本語で時代を超えて話をしている。たまにこの語り継ぎのプロジェクトは韓国語では出来ないのではないかと思う。そう、この語り継ぎのプロジェクトは日本語だからこそ成立している話なのだ。
歴史であるからこそ時に史料に頼らなければいけない。この視点を忘れてはいけないのと同時に人の営みを語る語り口や方法も考えなければいけない。歴史や文化とは語られるものを受け取るだけではなくて自分がどうやって語るのかという視点があって初めて成立する他者のための物語なのだ。これを共同体の原理を強化するために利用するのではなくて、むしろ私自身が所属している共同体の外の他者に出会う為にどのように語っていくのかは常に問われるところだろう。私が誰かに私の歴史を話す時、どんな言葉を用いれば良いのか?どんな語り口であれば全く違う人と繋がることができるのか?どんな声の大きさであれば美しい対話になるのか?そんな言葉の知恵こそが私の共同体の問題を時に助けてくれるし、他の共同体の問題を出すけることもあるかもしれない。そう考えれば、言葉の力って本当に鍛えれば鍛える程、新しいものを生み出す可能性を与えてくれる。大事なのはこの語り継ぎのプロジェクトは現在だけではなくて、未来の誰かとも対話ができる素晴らしいプロジェクトであることも
そして、より大事なのはこの語り継ぎのプロジェクトは現在だけではなくて、未来のだけかとも対話ができる素晴らしいプロジェクトであるということだ。祖母や母は未来を託すために私に過去を話した。過去を話すことは未来に自分を投げ出すということでもある。そう、言葉という形でかつて自分が居た空間や体験を永遠のものにしていくということだ。
人は肉体があるので朽ちていくが、不思議なことに言葉だけは生き残る。
その形式は様々だ。口伝として残されていたり、文字として残されていたり、はたまた、絵画や漫画、映画や様々なものに化けながら言葉のバトンが続いていく。
そんなバトンを受けたときには次にどうやってバトンを渡していくのかということを考えるようになった瞬間に人は「大人」になったのだと思う。
一体、私の歴史の中で崔順実のできごとはどう語るのだろう。それは私が未来に身を投げ出すとても大事なプロジェクトなのかもしれない。