マイノリティーの交差点

 つい、先日の事、私はこんなツイートをした。

 稲田防衛大臣が国際会議の席上で「全員がグッドルッキング」と発言したことに対して、私がその男性社会で求められていることを行っていることを皮肉った意味だった。

だが、そんな私の皮肉に対して、くしゅんさんというフォロワーさんからこんな反応があった。

 私が「スカートを履いた男」という言葉を用いたのは、実はマツコ・デラックス中村うさぎの往復書簡『全身ジレンマ』で取り上げられている話題だった。男社会の日本において、まるで男性の枠型に嵌って、男性のような価値観を持ち、そして、男性のような価値観を持てない女を卑下する女。この表現、まさに稲田大臣の発言から考えて、ピッタリだなと思ったのだ。だが、その考えはくしゅんさんのツイートから変わることになった。

 私の周りには女性はもちろんのこと、セクシャル・マイノリティーの人が多い。だけれども、こんな指摘から実は、私自身、そういった人たちの複雑さを理解しないまま、今まで簡単に言葉を使っていたのではないかと思う。念のために言っておくが、私に差別する意図はない。しかし、今回、そのような意図が無いのにも関わらず、私は差別者になってしまった。これは嫌な話だが、くしゅんさんの言葉を単なる「気にし過ぎ」にすることもできる。でも、そんなことをすることが本当に良いことなのか?

  差別する側に自分自身が立ってしまうことがある。正確に言えば自分自身の立場が差別する側であると知る瞬間と言えば良いだろうか?そんな瞬間に様々な人が差別する側であることを否定しようとして、中には差別発言を無かったことにしてしまう。これはマイノリティーであろうが、マジョリティーであろうが一切関係ない。だが、このような現象が起きてしまうのはどこかで私たち自身がマイノリティーとマジョリティーを勝手にイメージとして固定化してしまうことがあるからではないか。

   社会全体を見てみると、実は人々の流動的な関係性の中で生きていることに気づく。その流動的な関係性の中に居れば当然、ぶつかったり、熱を帯びたりする瞬間に遭遇する。

   ぶつかったり、熱を帯びたりする瞬間を怖がるが余りに、差別されている側が何かを感じ取り、その言葉を情緒的であると言ってみたり、理論的ではないとする人たちが居るけれど、どうしても納得できない。何が差別で差別じゃないのかということはそんなぶつかったり、熱を帯びたりする瞬間にこそ出て来る議論なんじゃないのか。

   相手の言葉を切り捨てることなんて簡単なことだ。でも、このぶつかりや熱に向き合ってこそ、私は差別に向き合うということになると思う。そして、それは同時に人間に向き合うということにもなるのだ。 

   私にも在日という切実さがある。だけれども、その切実さの中には篭りたくない。あくまでもこの私にとって在日とは異なる世界の誰かと出会うためのチケットだ。そんなチケットを持っているにも関わらず、私はまた別のチケットを持っている人の言葉を無かったことにはしたくない。きっと、こうやってぶつかりあったり、熱を帯びたりして、新しい自由を私たちは得る。そんな民主主義の可能性をどこまでも信じたい。

  最後に、くしゅんさん。大切なことを教えてくれて有難う。私と貴方の切実さの交差点が新しい自由を切り開くことを信じて、私は私の差別性に目を向けながら、新しい言葉を紡いでいきたいです。