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「校則」が欲しい大人たち

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 今、国会で話題になっている森友学園ではどうやら、園児たちに「教育勅語」を暗唱させていたようだ。

 この独特のカリキュラムを見て、「戦前的」であると否定したり、中には肯定的に判断する人々も居たようだ。こういった意見の海の中で、私が面白いと思った意見がある。

 その意見とは 「教育勅語」の内容は悪くないという意見だ。

 教育勅語には12の徳目という道徳が列挙されており、この内容の中には現代にも通じるような道徳があるという意見だった。従って、教育勅語の内容は決して悪いものではなく、それを政治的に解釈し、用いてしまったことに問題があるとしている。確かに教育勅語の中身を確認してみると勉学に励むべきであるとか、肉親を大事にするべきであるなどといった、現代に通じそうなモラルは確かに書いてある。

 しかし、このようなモラルをわざわざ政府が国民に、それも天皇が臣民に語り掛けるという形で説教するということは良いことなのだろうか?

 モラルは人の数だけ存在する。人々が持っているモラルの間で私たちは常にあらゆることを学んでいる。思えば私もそうだった。色々な人と交わっていく中で、様々なモラルが存在し、様々な考え方があることを教わった。様々なモラルに触れていくうちに、私自身のモラルとして使おうと思った知恵も存在する。モラルは決して、誰かに教わるものではない。自分自身で掴み取っていくものだと思う。

 そういった自分自身で掴み取っていくものを政府にとやかく言われる筋合いはどこにもない。両親を大事にしよう。兄弟姉妹は仲良くしよう。夫婦は互いに分を弁えて仲睦まじくしよう。なんていう文言は一見綺麗に見えるが、私からしたら大きなお世話だ。

 私は今まで、親との関係が上手く構築できなかったり、兄弟姉妹との関係に亀裂が生じてしまったり、様々な理由で家族を飛び出した人々を数多く見てきた。そういった中には自分たちの「家族」を自ら作った人たちも居る。そんな人たちは決して、政府からの説教で「家族」を構築したわけではない。自分たちの意思で構築してきた関係なのだ。だからこそ、私はそんな関係を持っていきたいと思うことができる。

 一部の内容が現代でも通じるという評判の教育勅語を読んでいると何だか高校時代の校則を読んでいるような感覚になる。私の通っていた高校は校則が厳しい高校だったので、校則が一刻も早く無くなれば良いのにと思いながら、高校時代を過ごしていたし、一刻も早く、学校の外に出て、自由になりたいと思っていた。

 仮に教育勅語が復活して未来に私が生きている高校生だったら、高校の外に出てからも、教育勅語という国家公認の校則に縛られたくはないと思うだろう。

  教育勅語には良いことが書いてあると言っている人たちは国家に校則を決められて、それを素直に守っていくことが理想的だと思うのだろうか?個人のモラルに政府が介入することを良しとするのだろうか?良いことがいくら書いていても、個人が決めることを政府がわざわざ介入するのは良いとは思わない。

 私は大学時代に恩師からハイデガーの言葉を教わったことがある。それは教育に関する言葉だった。教育は2つの力を育てることだという。その2つの力とは儀礼を守る力と自分自身を生起させる力だそうだ。特に重要な力というのは自分自身を生起させる力だと恩師は私に言っていた。

 生起するという意味について、私は未だに考え続けているが、それは自分自身でモラルを考える力であると思う。小さな姪と甥が居る私にとって、この言葉の意味を益々、切実な問題として深く考えるようになった。小さな姪と甥には人が持っているモラルに触れて欲しいし、そんなモラルの中で自分のモラルを確立してもらいたい。教育勅語という校則を求め続ける大人たちよりもきっと豊かな人生を送れると思うから。