吐息に触れる大切さ
ある飲み会に出席したとき、どういう話の流れかは覚えていないけれども、たまたま過労が原因で自殺した電通の社員の話になった。こういった話なると「可哀想だったね」という話になっていく。本当にどう考えているのかは分からないが、そんな社交辞令になってしまうのも悲しい現実だ。
しかし、そんなありふれた展開にはならなかった。私とほぼ同じ年のある人間が自殺してしまった社員に対して「あれだけ働いて死んじゃうとかゆとりだよね。私なんか、もっと働いているし、あれが当たり前だよ。」と言い始めたのだ。私はその言葉に衝撃を受けた。
過労死の話は決して他人事ではない。私の友人の中でも過重労働が原因で倒れてしまった人間も居るし、かなり厳しい状況の中で働いている人間たちも知っている。確かにそれが「業界の慣習」というやつなのかもしれないが、そんなことで正当化できるものではない。
本来は生きていくために労働をしているはずなのに、労働のために命を奪われてしまうという事実がある。こんなおかしいことが余りにも普通に起きてしまっているせいなのか、とうとうそんな言葉が出てくるようになってしまったのかと思うと、とても居たたまれなくなってしまう。また、このようなことを言うぐらい異常な労働環境が当たり前のものとされている現実にも愕然とした。そんな現実の前で私たちの問題として考えなければいけない命の問題が「向こう側」のこととして消費される瞬間に私は立ち会っていた。
肚の中で様々な感情がぶつかり合っているときに、ふと、ある映画が浮かんだ。それは『ゆきゆきて、神軍』という映画だ。
『ゆきゆきて、神軍』は一般的に日本の戦争責任を追求した映画とされている。インドネシアで戦った元兵士の奥崎謙三が言葉と身体を用いながら、かつての上官たちに突撃し、戦争責任を追求していく。奥崎の過激な姿勢と過去を追及された上官たちのしどろもどろする姿に衝撃を受けた人も少なくないだろう。 しかし、今、そんな見方からまた別の見方をされることが多い。それは奥崎謙三を狂人の見世物として観るという発想の見方だ。
確かに奥崎が狂人だったことは否定できない。自分を神であると自称し、様々な奇怪な発言や殺人や暴力事件など犯罪行動を繰り返してきた。奥崎にとって暴力こそが自分の表現であると思っていたのだろう。それは批判されてしかるべきことだ。しかし、その根底には奥崎の戦争体験があったことも忘れてはいけない。奥崎なりの戦争体験が無ければああいうような体当たりは無かったのではないか。
戦争から70年経った今、戦争を忘れなかった人が戦争責任を追いかけるというテーマから一転して、狂人を追いかけただけのカルトムービーとして消費されるのは一体どんなことが起きているのだろう。『ゆきゆきて、神軍』を監督した原監督は誰もが近寄らないような虎のような吐息をしている人々に密着し続け、その吐息を余すところなく、フィルムに収め続けていた。だが、今ではその吐息の意味が無視されてしまって、いつの間にか吐息をしている奇妙な人間への悪趣味な解釈のみが広がって、動物園で動物を見ている時のような、私には関係のない「向こうの世界」のこととして消費されてしまう。
人々の吐息に触れるということはドキュメンタリーを語っていく上で常に議論になってきたことだ。原さんの前の世代となると土本典昭、小川紳介の両監督が高度経済成長の中で抑圧される戦後日本の姿を「水俣病」と「三里塚闘争」というふたつの出来事から、当事者たちの吐息を写し続け、私が尊敬するもうひとりの監督である佐藤真監督は「日常」をテーマにしながら、人々の吐息をフィルムに残していった。
だが、そんな吐息について語ろうとするとそれは「政治的な見方」であるという言われ方をされてしまう。人々の吐息に触れるということが政治的なことなのだろうか?吐息に触れるということすら「政治的である」とされ、読解されることなく、ただ置き去りにされてしまっている状況には何か違和感を感じる。むしろ、そんな吐息の置き去りにこそ私はある種の政治性を感じる。それは「私にとって、画面の向こうの世界は関係が無い」という政治性だ。
今でも奥崎のような戦争の被害者たちは存在している。兵士として連れていかれ、戦争精神障害と戦いながら生きているおじいちゃん。逆に何も語らずに亡くなってしまったおばあちゃん。また孫たちに思い出を語りながら、目の前にある悲惨なことを思い出したくはない人も存在する。そんな様々なカタリツギの問題が複雑に絡み合う中で、ただ、かつてのことが消費物となってしまい、結局、何も変わらないという状況になっているのだとしたらそれは悲劇以外の何物でもない。
もしかしたら、このような「私には関係がない」という政治性を持つのは余りにも悲惨な現実の前で、そうとしか思えないという逃避の証であるのかもしれない。悲惨すぎる現状に対して、その悲惨さを覆い隠すための行為としてやっているのだとしたら、そんな逃避行動自体も悲惨すぎてしまっている。
吐息に触れることはとてもエネルギーが必要なことかもしれない。ただでさえ、絶望的な中で自分自身を消費しなければいけない中で、イチイチ異常であることを指摘したり、イチイチ何かに感動したり、イチイチ何かに怒ったりすることはとてもきつい。
戦争中の絶望というのはこういうものなのではないかと思うことがある。隣にある吐息を感じるということよりも今、目の前にある、見たこともない何かに勝たなければいけないような雰囲気の中で、誰かが亡くなれば、もしかしたら舌打ちひとつ出るかもしれない。
しかし、そんなロボットのようにならなければいけないような中で、そうではない方向を示してくれるのは外の世界を示してくれる得体の知れない何かであったりする。そんな得体のしれない何かの正体は人々の吐息であるように思う。そんな吐息が私という人間を生かしてくれるかもしれない。
そんな吐息を感じられるような余裕のある社会でないことも確かだが、私はそんな誰かの吐息に寄り添いたい。自殺してしまった社員に対してそのようなことを言った人間のあの言葉も、今の時代が吐いている吐息として私は触れていきたい。その吐息はこの私にどのような世界を見せてくれるのだろうか?