いま大切なのはこういうことばさ

 朝からTwitterを眺めるなんてどうかしてるかもしれないがこれがわたしの日課だ。

この日もいつものようにわたしのタイムラインを眺めているとこんなツイートが現れた。

  iPhoneに向かって思わず、「バカじゃねぇの?」とつぶやいた。教科書に載っているひとたちの名前を見ればわかるおのと思っていたが、まさかここまでだったとは・・・・・。しかし、ここで「バカじゃねぇの??」とつぶやいても彼女と同じ土俵に立つ気がするので、ちょっと茶化す気持ちツイートした。

 そして、このあと、滅茶苦茶、リツイートされた。

 RT(リツイート)やFav(お気に入り)の通知が止まらず、スマホがずっと揺れっぱなしで煩くてたまらない。

 そんな通知ばかりが来ると、いったい、いくつRTやFAVされたのか気になってしまう。数字を確認しようと思ったとき、去年の年末のことを思い出していた。

 以前、私はブログの更新を週1回書き、SNSで拡散していた。

 しかし、だんだんと書くことを止めるようになってきた。書くスタイルや生活の変化もあったが、以前のような「面白さ」ではなくて「なにかに追われている」感覚になったのが辛くてたまらなかった。その反面、新しいものを書かなくては書けなくなるのではないかという焦りもあり、なかなか書けないもどかしさをFacebookに短く書いたこともあった。
そんなときに私の友人からある誘いがあった。

 去年の年末、2日間にわたって、歌舞伎町で「PURX(ピュア)」というイベントがあった。ここのファシリテーターだった友人はイベントの催し物として一緒にトークをしないかと誘ってくれた。FtMの彼とはおたがいの切実な部分を語りあいながら大事なことを教えてくれる大切な「親友」で、そんな彼と一緒に何かができることが嬉しくて、彼の誘いを快諾した。

 「PUREにXをつける」と題された私と彼のトークは1日目の昼にあった。いろいろなところでトークをするようになって緊張することが多かったのだが、このときは安心できるひとと一緒だったので、とても楽しい気持ちでトークができた。
2日目は観客として参加した。清水晶子さんと鈴木みのりさんのトークALMAさんたちの音楽ライブなど、魅力的なイベントばかりで、お客さんもたくさん入っていた。

 その盛り上がりを見て、友人にふと「たくさんのひとたちが来て、すごいイベントだよね。クオリティが高いからかな。」と言った。

すると彼は少し声を荒げていった。

 「そうじゃないよ!詩恩くん!詩恩くんとわたしが昨日やったトークも、詩恩くんが帰ったあとここに夜遅くまで残ったひとたちでマイクを持って一言ずつ言ったのも、清水さんと鈴木さんもトークも、ALMAのライブもみんな、同じなんだよ。ただ、自分の思っていることを自由に表現しているだけ。クオリティなんか関係ないんだよ。

 詩恩くんはなにか悩んでいたようだけれども、好きなものを自由に書けばいいじゃん!」
 そのことばにハッとさせられた。書くことが楽しかったときは周りの反応なんてどうでもよかった。でも、書いていけばいくほどSNSでの反応や閲覧数が気になってくる。そうしたなかでわたしはいつのまにか書くことの楽しさを忘れてしまっていた。
 彼はネット越しにわたしを見守ってくれていたのだ。

 終電の時間が近づき、家路につこうとすると、彼は途中まで見送ってくれた。帰り際、「書くことを止めないでね。」と彼が言った。

 「うん。これからも書きつづけていくよ。」

わたしはそう答えた。

 夜遅くの満員電車に乗り込み、彼のことばを頭のなかで何度もくりかえす。そうしていくうちに「書きたい」という気持ちがまた芽生えてきた。

「ありがとう。」

電車の窓に映る年末の東京の夜景を見ながらそうつぶやいた。

 そんな去年の年末を思い出し、RTとFavの確認をするのを止めた。茶化してやろうと思っただけだから数なんてどうでもいい。

 最近、ネットには閲覧数や反応を気にするがあまり、過激なことばで語ったり、だれかを攻撃したりすることばが増えたと思う。温かい水温と小さな声の波紋でできていたインターネットということばの海は冷たい水温の大波が吹き荒れるものになってしまった。

 そして、その冷たい波は生活の空間にも入り込んできている。

反日」ということばが見出しに踊る新聞や雑誌が本屋やKIOSKに置かれている。こんなものを書いている名前も出さないひとたちは売り上げという「数」がほしいのだろう。

 欲望のために起こした冷たいことばの大波がやっていたときどうなってしまうのか・・・・・。あの波はどんなひとでも飲み込んでしまい、気づいたときには自分の愛するひとたちがその波に飲み込まれいなくなってしまう。

 冷たいことばの大波が吹き荒れるなかで、いま、必要なのはわたしの親友が言ってくれたようなひとの温度のする誠実さであると思う。あの温かさは上から与えられるものではなくて、同じ高さから向き合ってもらったものだ。

土下座してほしいわけじゃなくてね

 ある日、学校指定のバッグに防弾少年団のキーホルダーをぶら下げた女子高生たちが新大久保のスーパーで「情」とパッケージに書かれたチョコパイを買っているのを見かけて、「時代が変わった」と感じた。

 1991年生まれの私にとって「韓国」といえば、ドラマでも、アイドルでもなく、お菓子だった。小さいころ、通っていた教会に行くと韓国から日本に帰ってきた牧師さんが教会の子どもたちにお土産として、現地で買ったお菓子をくれるのだが「甘くすればなんでもお菓子って言えばいいってわけじゃないと思います!」と、まだ味も分からない小学生だった私が思うレベルのもので手に余らしていたが、同じ教会に通っていた母方の祖母は「そんなものは私が食べるから詩恩ちゃんはこっちを食べなさい。」と言って、彼女が持っていた日本のお菓子と交換してくれた。

 普段は「出されたものはなにがなんでも食べなさい。」と言うひとだったが、このときばかりは許してくれた。

 彼女は頭痛がするほど甘い韓国のお菓子を食べながら「なんで私たちのくにはこんな情けないものしか作れないのかねぇ。それに比べて日本のものは素晴らしいよ。」と言う。祖母は以前から「日本のもの」が好きで、自身の生活用品から私や韓国に住む親族にプレゼントするものまですべて日本製だった。

 私はいつも不思議に思っていた。戦前、植民地のクリスチャンとして宮城遥拝を拒絶し、憲兵と大喧嘩していたし、彼女の義兄の家族は日本軍に皆殺しにされていたので「私たちの信仰を踏みにじって、ことばまで奪った天皇を絶対に許さない。」と語っていたひとだったからだ。

 ある日、「どうしておばあちゃんは昔の日本が大嫌いなのに、日本のものは好きなの?」と訊ねてみると「日帝は嫌いだけど、戦争に負けて、そこから反省をして質の高いものを作るようになったからね。韓国も早く日本みたいなものを作れるようにならなくてはいけないね。」と答えた。

 私が18歳になると祖母と同居することになった。浪人生で自宅にいることが多かった私は、彼女の語る昔話の相手をよくしていた。

植民地のひとたちに頭を下げさせる憲兵の話、

解放のときの話、

解放後、ソウルにいた日本人たちが暴動を起こすと思い、家に閉じこもった話、
同じ教会だったという金九先生の話、
ソウルで高級そうな黒い車に乗った若かりし金日成を見た話、

建国記念式典に出席して、李承晩を見た話、

そして、分断してしまい同じ民族で殺しあった話など、聴いていた話を挙げていけばキリがない。

 こんな昔話をしたあと、祖母は必ず、こう言った。

 

「されて嫌だったことをしてはいけない。それをプライドと言うんだよ。詩恩ちゃんはプライドを持って生きなさい。」

 

 彼女は私が大学に合格したおよそ1か月後の2011年3月1日に亡くなった。

 2019年3月1日、誘われていた飲み会を断って、こんな日だから静かにすごそうと決めて、自宅でネットを観ていた。すると今年が3・1独立運動100周年でそれにまつわる記事がたくさんあることに気づく。そのなかに日本のクリスチャンたちが提岩里という3・1でたくさんのひとが殺された場所へ行き、「日本人たちをお許しください。」と謝罪したと伝える記事を見つけた。記事にあった床にひざまずき、頭を下げる写真を見ながら私は戸惑ってしまった。

 祖母から聴いた植民地の話を在日の私がすると「日本人としてあなたに謝罪したい。」と語るひとに出会い、まるで私が植民地のひとに頭を下げさせている憲兵みたくなって戸惑う。
その一方で植民地統治を美しいものとして語り、「韓国人は謝罪と賠償ばかりを求めて先に進めない。忘れちゃえよ。」と言うひとたちにも出会う。「じゃあ、うちのおばあちゃんが観てきたものなんだったの?」と問いかけたくなる。

 私は日本人に頭を下げさせたいのではなくて、植民地で起きたことと同じようなことが起きてほしくないと思って、祖母から受け取った記憶のバトンを受けつぎ、少しでもあのときのことをほんの少しでも良いから明日へ役に立ててほしいと思って語っている。それが彼女が昔話の最後に語った「プライド」ということばの意味だと信じて。

 新大久保で女子高生たちがお菓子を買っているのに釣られ、ついつい買ってしまった韓国のチョコパイを頬張った。小さなころに食べたあの味から美味しくなっていた。きっと、これを作っていたひとたちにも子どもが手に余らせるぐらい甘かった味の記憶があったからだろうか。

 そんなことを思いながら今日をすごした。

 私は私のことばで祖母から受け取った記憶のバトンをこんなことばを添えて次の時代を生きるひとに渡す。

 

 「さぁ、これから、私たちはどうしていこうか。」

 

2019年3月1日。

あのとき亡くなったひとたち

いまを生きるひとたち

これから生まれてくるひとたち

すべてのひとに捧げる。

100周年のこのよき日に。

ゴッドファーザーが好きな理由

 昨年の12月に入管法改正があったからなのか、日本に住む「移民」を取り上げる記事や番組が増えたように思う。
 「こうやって取り上げてくれるのはなにかが変わりつつあるからなのかな?」と思いながら、こうした記事や番組を読んだり、観たりしていると「とうとう日本にも移民がやってきた」みたく、さも、移民が日本にとって新しい存在であるような論調で取り上げられていることに気づく。
 そんな論調に触れ、寂しい気持ちになりながら、私はあの映画のことを思い出していた。
 同じ世代の在日のひとたちと映画の話をしていると窪塚洋介さん主演の『GO』に「リアルさ」を感じたというひとが多く、私はいつもその話を興味深く聴いている。

 なぜかといえば、在日がテーマになっている映画を観ていると「いや、そこはそう言わないし、在日だったらここの所作はこうするよな。」と細かいディティールが気になって、ついつい演出スタッフのようなことをスクリーンに語りかけてしまうからだ。

 先日、観た『焼肉ドラゴン』では、済州島出身で、焼肉屋の一家が主人公という我が家とまるかぶりだったせいか、出演していた大泉洋さんが焼肉を食べているシーンを観て「そこは腕をまくるだろ。」とか、主人公一家のお父さんやお母さんの喋り方を聴いて「この時代のひとたちって、こう喋らない。もっと、湿っぽい喋り方をする。」と心のなかで独り言ちた。
 そんな私が在日の「リアルさ」を感じる映画だと思うのは、フランシス・コッポラの『ゴッドファーザー』だ。

 この映画はアメリカに住むイタリア系マフィアの映画だと言われるが、私にとっては「マフィア映画」というよりもアメリカのあるイタリア系移民一家の映画だ。

主人公のマイケル・コルレオーネは家族の反対を押し切って、第二次世界大戦中に日本と戦うため、軍人となってしまうぐらい家業を継ぐつもりはなかったが、さまざまな出来事が原因で、家族と組織を守る「ゴッドファーザー」として君臨していた父、ヴィトーの跡目を継ぐ。彼も父と同じように家族と組織を守ろうとするが、なかなか父のようになれず、苦悩する。そんな男たちの一方で、マイケルの妹であるコニーはコルレオーネ家の女性として、組織や家族の犠牲となり、家族に反発しながらも一家の一員として、家族や組織を守ろうとする。

 私の知り合いにイタリア系のひとはいないが、この映画で描かれている人間模様を観て、私は「ヴィトーはあのおじいさんで、マイケルはあのおじさんで、コニーはあのおばさんで・・・・・。」といつの間にか私の知っている在日たちを思い出し、気づいたときには目頭が熱くなっている。

 そして、私はあることに気づく。

 「そうか。私も「移民」だったのか。」

 在日は日本の植民地からやってきて、ある程度、日本語もできたのかもしれないが、生き方はコルレオーネ家のひとたちと変わらない。生きていくために誰もやりたがらないような仕事をして、「家族」を守るためにさまざまなひとたちが犠牲になりながら生きていく。

 異なる国で生きていくためにはこうやって生きなければいけないのだ。外の世界はだれも自分を守ってくれないことを知っているから。

 だから、コルレオーネ家のひとたちの生き方をマイケルが戦った国で生きている私が思わず、「このひとたちは私たちと同じなんだ。」と思いを馳せ、「異なる国で生きていくとはこういうことだよね。」とアル・パチーノの顔が映し出されるスクリーンに優しく語りかける。

 「とうとう日本にも移民がやってきた。」みたいな論調に触れ、寂しい気分になりながら『ゴッドファーザー』を思い出すのは、この映画を観て、「異なる国で生きていくとはこういうことだよね。」とスクリーンに語り掛けている私と、私の記憶のなかで生きているあのひとたちが忘れ去られているような気がしてしまうからだ。

 歴史的にさまざまな経緯を抱えている「在日」という移民を忘れ去ってしまったほうが、日本のひとたちに受け容れられやすいのだろうか。それとも、日本のひとたちが感がる「移民」として、私たちはあまりにも「分かりにくい」からなのだろうか。

 移民を新しくキャッチ―に語るひとたちに都合よく忘れ去られている分かりにくい在日の私にはその理由がまったく分からない。

 「移民」を取り上げる記事や番組はたしかに増えたと思う。だが、『ゴッドファーザー』を観て、「異なる国で生きていくとはこういうことだよね。」とスクリーンで語る存在はどこへ行ってしまったのだろう。

 私は「とうとう移民が日本にもやってきた」と言わんばかりの記事や番組を読んだり、観たりしながら、こう語りかける。

 

 移民はこの日本というくににとっくの昔から生きているんだよ。

社会のことなんか考えられないよ

 ついつい飲みすぎてしまって終電を逃した私は24時間営業の居酒屋に入って、酔いさましのためにウーロン茶を頼み、ちびちび飲みながら、入管法改正案が参議院で可決された様子を店内のテレビで観ていた。

 同席していたひとはテレビを観ながら、「はぁ。」とため息をついたが、深夜なのに騒がしい店内だったせいで、その声はかき消された。

 高校時代、日本史の先生が治安維持法について教えていたとき、「悪い法律はいつの間にかできてしまうんだよな。」とボソッと言った。まだ高校生だった私はその言葉の意味が分からなかったが、大学に入り、教科書で「政治的無関心」という言葉に出会い、少しでも政治や社会のことについて関心を持とうと思った。

 どうやらこう考えているひとは私だけではないらしい。本や雑誌やネットのみならず、巷での会話でも、さまざまなひとたちが「日本のひとたちは政治や社会のことについて興味がない。」と異口同音に語る。

 きっと、学生時代の私であれば同じように語っていただろう。しかし、社会人になってから深夜の居酒屋で働くひとびとを観ていると「政治的無関心」には理由があることを理解するようになった。

 学生時代、私が通っていた自主セミでは、政治や社会のことに興味のあるひとたちが比較的多く集まり、ときには一触即発の事態になるようなスリリングで、学びの多い場だった。

 そのなかにいつも鋭い意見を言う同期がいた。彼女は尖った言葉を吐くタイプではないのだが、いつも絶妙なタイミングで言葉を放つ。そんな言葉にハッとさせられて、「このひとみたくなりたい。」と思うぐらいだった。

 そんな彼女とは卒業以来会っていなかった。お互いに社会人となり、学生時代みたく、気軽に集まることができなくなったからだ。ようやく彼女と会うことができたのは卒業して2年が経ってからだった。

 久しぶりに彼女と会ったとき、顔色が良くなかったので、私が「大丈夫?」と声をかけると彼女は仕事ばかりの毎日を送っていると語った。私は「やっぱり、そういうのは政治が良くないからなのかねぇ。」とオッサンみたな口調で言うと彼女は「仕事が忙しすぎて、政治のことなんかまったく考えなくなっちゃった。」と言った。

 「社畜」という言葉がある。「企業に飼いならされてしまい自分の意思と良心を放棄した奴隷(家畜)」という意味だ。朝早く目をこすりながら電車に乗って、意志や良心を放棄しながら仕事に打ち込み、疲れた身体で電車に乗って、家に帰る姿を自虐して言っている。こんな生活をやりたくてやっているわけではない。税金や光熱費、水道代の支払いはもちろんのこと、ローンや奨学金など支払わなければいけないものが山ほどあって、そのためにこの生活を止めることができない。

 私は同じ世代のなかでもまだマシなほうだと思う。仕事も辞めて、病気になってしまったが、運よく本は出せたし、お金はなくてもまだなんとか生きている。

 そんな私が日々の生活に追われているひとびとに「政治に関心を持ってください。」とか「社会にもっと関心を。」と言っていいのかどうかいつも悩みながら鉛筆を握っている。

 こんな「社畜」と自虐しなければいけない生活を送っていたら社会のことに関心を持たなくなるのは当たり前だ。向き合う時間や体力もないのだから。

 深夜の居酒屋で働くひとを観て、疲れ切った顔をして、私に政治のことを考えられなくなったと語った彼女を思い出す。

政治的無関心」という教科書に載っている言葉の正体は生きていくため、「社畜」にならなければいけない今のことだ。そして、無関心であることを嘆くよりどうしてこうなっているのかを問わなければいけないと思う。

 始発の時間になったので、私は店を出て、電車に乗った。朝早い時間なのに、席は埋まっている。このなかにどれだけのひとがこれから仕事場に向かい、これから仕事で疲れた身体を休めるために自宅に帰るのか。
 24時間営業の居酒屋で客としてサービスを受け、二日酔いの身体で電車に乗っている私がこんなことを言えないのことは分かっているが、これだけ言わせてほしい。

 こんなに働かされていたら社会のことなんか考えられないよ。

あのスラッシュはまやかしだった

  小さいころに通っていた公文の教室で学習図鑑『日本の歴史』と出会ってから私は日本史オタクになった。

 「どんな時代が好き?」と訊かれると小さい私は決まって「戦国時代」と答えていた。多分、父が借りてきてくれた日本史のビデオが「徳川家康」だったからだと思う。

 歴史オタクは自分の好きな国や時代以外のことはあまり知らない場合が多い。

戦国時代オタクだった私もそうだった。

 ある日、久しぶりに『日本の歴史』の年表を観ていると1945年以前と以降でスラッシュがあることに気づいた。

 父に訳を尋ねてみると「日本が戦争に負けて、新しい国になったから。」と答えてくれた。

 小学校6年生になるとそのスラッシュに再会した。

日本史の授業を受けていた私はちょうど、1945年のことについて教わっていたのだ。

担任の先生は1945年に「日本は戦争に負けて、民主的な新しい国になった。」と教えてくれた。

 大人になった私は新潟県阿賀野川に行くようになった。そのとき、ある水力発電所へ案内してもらった。

 いまでも現役で稼働しているという大きなダムは、戦前に作られたもので、当時としては日本で最大の規模だったそうだ。

 そこへ案内してくれた人は私にこんなことを話してくれた。

 

 「金ちゃん、このダムは朝鮮半島からたくさんの人がやってきて、作ったものなんだよ。」

 

 その話を聴いたとき、妙な冷気を感じだ。それは地元で有名なある遺跡で感じた冷たさと同じだった。

 私の地元には吉見百穴という古墳時代に作られた横穴墓群がある。そこにひときわ大きい横穴があった。その穴は戦時中に地下の軍需工場として、3000人ぐらいの朝鮮人労働者が掘ったものだという。

 そのいわれを聴いて、穴のなかに入ってみるとどこからともなく冷気を感じて、寒さに耐えきれなくなり、すぐに外へ出た。

 あれは横穴特有の冷たい風たと思っていたが、阿賀野川のほとりで再会して、ただの風ではないことに気づいた。

 あの時代、日本にやってきた大半の朝鮮人たちは読み書きのできないものを言えぬ「安価な労働力」だった。そんな「労働力」は単純労働をしながら日本で生きつづけ、戦争が終わって、自らを「在日朝鮮人」と名乗るようになったが、故郷に2つの国ができたので、やがて「在日韓国・朝鮮人」と呼ばれるようになった。

 いまではそんなひとたちの5代目の子孫が生まれていて、路上に出てみれば日本語しか分からないのに「祖国へ帰れ!」と罵倒される。

 「日本にも移民がやってきた。」と語るひとたちを横目に、「昔からこの国には「安価な労働力」だった移民がいたんだよな。」と「安価な労働力」の子孫である私がひとりごちる。

そのひとりごとは真新しい「移民」ということばでかき消されてしまう。

まるで、そんなことは今までの日本ではなかったと言いたいように。

 入管法改正案が衆議院を通過したとき、「移民たちを「安価な労働力」としてしか考えず、そんな存在をなかったし、都合が悪くなれば罵倒することをまた繰り返すのか。」と天を仰いだ。

 この国へ希望を持ってやってきた外国人たちに「君たちは安価な労働力だ。」と私は言いたくない。

 1945年のスラッシュと「在日韓国・朝鮮人」の中黒は戦争に負けて、民主的な新しい国になったこととと冷戦で故郷に2つの国ができてしまったことの2つの現在を現わしていると思っていた。

 だが、あの改正案が強行採決で通ってしまったことを知って、外国人をただの「安価な労働力」としてしか見なさない「美しい日本の伝統」のまえにあのスラッシュはまやかしであったと感じた。

 あのとき、私が学んだ「戦前」と「戦後」とはいったいなんだったのだろうか。

君はあの唄を歌えるか

 秋空になると急に肉まんが食べたくなる。私はお昼どきのコンビニに入って、秋の味覚肉まんを買うためにレジの行列に並んでいたところ、私の前の客で流れがつっかえた。

 つい最近、入ってきたばかりの新人店員だったのかレジ打ちでミスをして、もたついてしまったらしい。客は「急いでるんだから早くしろよ。」とつぶやいた。

 コンビニでバイトをしていたことのある私は「よくあるよねぇ。」と心の中で独り言ち、うだつの上がらない店員だった私とその店員を重ね合わせていた。

 パニックになってしまったのかなかなかレジ打ちができす、「スミマセン、スミマセン!」と片言の日本語で謝る店員を見て、客はしびれを切らして、こんなことを言った。

 「日本語のできるひとに替わって!」

 客の大きな声と長い行列に気付いたのか、流暢な日本語が喋れるであろう日本人の店員に替わって、トラブルは「解決」した。

そんなやりとりがあったあと、私が念願の「肉まんひとつ。」を言うためにレジへ行くと替わってと言われた店員が戻ってきて、レジの前に立った。
 交通費をケチるために自転車を乗り回している私だが、このときは肉まん以外にもコロッケを買って、店の外に出た。

そして、私はかつて聴いたことのあるあの歌を想い出しながら肉まんとコロッケを秋空の下で頬張っていた。

 何年前かの紅白歌合戦美輪明宏さんが『ヨイトマケの唄』を真っ黒な髪に真っ黒な衣装で力強く歌っていた。

そんな姿を観て、隣にいた父は号泣していた。きっと祖母のことを思い出していたのだろう。
 旦那が働かず、苦労して働いたという在日のおばあちゃんたちはよくいる。彼女たちから話を聴くと「あのひとがお金を持っていかなければマンションの1つでも建てられたわよ。」と語る。
 父方の祖母も彼女たちとまったく同じだった。父方の祖父は「フーテン」のようなひとで、そんな祖父の代わりに働いて、家族を養っていたのは祖母だった。あるときは幼かった父とともに近くにできた団地へゴム靴を売りに行き、あるときは「ヨイトマケ」のようなことをし、あるときは料理が苦手なのに親戚の焼肉屋へ働きに行った。

文盲だった彼女は文字が読めないことを同じ店で働く人たちや客になじられたこともあった。しかし、それでも子供たちのために働きつづけた。

その努力が実ったのか、彼女は自分の店を持つことができた。
 私が幼いとき、祖母の店までよく行っていた。赤いエプロンをして、店に立っている祖母の背中はいまでも忘れられない。

 店をたたんだあと、気が抜けてしまったのか、働いていたころの祖母とはうってかわって、小さな老婆になってしまった。苦労したことを何も語ることなく、私が小学6年生のときにひっそりと亡くなった。
 ゾラ・ニール=ハーストンの『騾馬とひと』のなかで、昔のことを尋ねられた黒人のおばあさんが「私は騾馬なのよ。」と語る場面がある。ただの労働力としてしか見なされない奴隷であったおばあさんのことばは私の祖母の生き様を思い出させる。

 そして、その生き様はかつてアメリカで黒人差別が今以上に激しかった時代を描いた人類誌だけではなくて、現代日本のコンビニでも出会うのだ。

   私が財布の紐をちょっとだけ緩くして、コロッケを買ったのは客からあんなことを言われた店員が祖母と重なって見えたからだ。せめて、私のお金が彼のポッケに多く入ってほしいと思うが、結局は安い給料で雇われているのだろうと店に貼ってある店員募集のポスターを見て思う。

 いま、政府が法律を変えて、外国人労働者を増やそうとしているが、そんな過去と現在を知っている私からしたら、安く雇って、気に入らないことがあれば、なじる存在を増やしたいだけなのかと感じる。
 この国にとって外国人とは「騾馬」なのか。

 外国人労働者を騾馬としか考えられないひとたちに『ヨイトマケの唄』を歌うことはできるのか。

 少なくとも、私は彼らよりも歌える自信がある。

 「僕をはげまし慰めたばあちゃんの味こそ、世界一」と。

まぁ、いいや、そこにいろい。

 談志師匠を好きになったのは若いころに演じていた『源平盛衰記』をYouTubeで聴いたのがきっかけだった。

 私が聴いた回では談志師匠がいきなり客席に向かって「立っているのは大変だなぁ。」と語りかける。どうやら、このときのひとり会は満員札止めで立ち見の客がいたらしい。

 「チケットを多く売りすぎるのも問題だなぁ。」とひとりごとのように言うと、談志師匠は立ち見の客にこんな言葉を投げかける。

 「まぁ、いいや、そこにいろい。」

  落語に完全無欠な聖人なんて出てこない。むしろ、どっか抜けた人たちばかりが出てきて、騒動を起こす。そういう人たちは現代だと「生産性がない」とレッテルを貼られておしまいなのだろうが、落語の世界ではどんな人でも「まぁ、いいや、そこにいろい。」でおしまい。「生産性」なんて追及した日には「お前は野暮だね。」と馬鹿にされるのがオチなのだ。

 談志師匠はそんな落語を「業の肯定」と定義したけれども、私は落語を「まぁ、いいや、そこにいろい。」と定義したい。

 先日、東上野の古い焼肉屋に行ったのだが、エプロンをしたおばあちゃんが一生懸命、客の応対をしていたが「こんな光景を見ることも無くなったなぁ」と少し寂しく思った。

 昔は焼肉なんてもてはやされる料理ではなかった。来るお客さんと言えば「同胞」ぐらいで、日本人のお客さんが現れることなんて本当にごくわずか。

それでも、「日本人が寝ているときにも働かなければいけない。」と口癖のように言っていた1世のおじいちゃん、おばあちゃんたちは懸命に肉をさばいていた。

 この社会は「まぁ、いいや。そこにいろい。」とは簡単に言わない。だから、泥水をすすりながら、ときに無学であることをけなされても、その一言を聞くためだけに、何でもやっていたのだ。

 やがて、商売が認められると、街の人たちは「まぁ、いいや、そこにいろい。」と言ってくれた。いままで同胞しか訪れなかった焼肉屋にも日本人がたくさん来てくれるようになったし、油まみれの汚い店がオシャレになって、今では着物を着た女性が応対し、神棚まで飾ってあるような高級店も現れるようになった。
 こうやって生きているのは在日だけではない。街を歩いてみると中国から来た人たちの店に入るとご飯のすすむ麻辣湯を出してくれるし、ちょっと自転車で走ればパキスタンからやってきた人たちが作った美味しいカレーを食べられる。電車に乗って蕨まで行けばクルドの人たちが作った美味しいスイーツを楽しめる。

 彼らがお店のなかで一生懸命生きる姿に自分の祖父母を重ねながらその店の味を楽しんでいる。
 移民たちが生きる姿はときに汚く見えてしまうかもしれない。だが、私はそうやって生きてきた人たちを誰よりも誇りに思っている。彼らが私の代わりに苦労してくれたおかげで今の私があるからだ。

 今日、全国で「反移民デー」と言われるデモが開かれていたようだ。私の地元もその現場になっていて、駅前には「反移民」を訴える人とそれに抗議する人たちがいた。

 私はその穏やかではない光景を見て、こう思った。

『こんなに頑張っても、まだ「まぁ、いいや、そこにいろい。」と言えないのか?』

 日の丸や君が代が作られるはるか前の人たちはどんな人間が来たとしても「まぁ、いいや、そこにいろい。」と言っていたのかもしれない。

 落語の噺は中国やインドから由来したものが多いそうで、落語そのものが移民みたいなものだ。もし、「落語は日本人にしか分からない。」と言えば、サンスクリット語の「ア・バ・ラ・カ・キャ・ウン」から由来していると言われている「あばらかべっそん」が口癖の名人8代目桂文楽が「そんなことを言ったら天が許しませんよ!」と怒るだろう。

 同じ伝統だというのであれば、私は国旗や国歌よりも「まぁ、いいや、そこにいろい。」を誰かと生きていくための合言葉にしたい。