「文化」が作られる場所

 先日、とある新聞記事を読んだ。どういう新聞記事だったか、詳しくここで書くことはしないが、とあるマイノリティーの当事者が「文化はマーケットによって生まれる」という発言をした新聞記事だった。マーケットということは資本主義の理論の中で文化が生まれたということか。確かにマーケットの中で文化は支えられていることは間違いない。しかし、そんなことは本当なのか?

  私は『カミングアウト・レターズ』という本が好きだ。LGBTの当事者たちが親や教師に自分の性的指向をカミングアウトした往復書簡を集めた本なのだが、この本にはとても不思議な熱がある。

 この本の魅力を挙げるとするととてつもなくたどたどしく、そして、各個人が文章を書きながら様々な気持ちの中で揺れているということだ。自分の性的指向を親に言うというのはとても難しいことだと思う。私のようなエスニック・マイノリティーは家族という血の繋がった共同体に依存しがちだが、セクシャル・マイノリティーはまず第一歩として「親」に何かを話すということから始まる。言わば、独りの状況から言葉を吐き出すことを始めるのだ。そんな状況から言葉を作り出すのはなかなか難しい。

 私はそんな「たどたどしさ」や「揺れている」文章を読みながら、不思議なことに勇気を貰う。全く違うマイノリティーという立場だけれども、そんな違うマイノリティーだからこそ、この本の中にある熱の言葉に救われる。

 私と同じくこうして言葉を紡いで必死で生きている人たちが居たんだと。

 ブログという趣味の環境の中ででもこうやって文章を書いていると他の人の熱のある言葉は励みになっていくし、ひとりではないと感じることがある。そんな本に出会えたのはとても幸せなことかもしれない。

 学生時代、私は政治学と共に文化人類学を学んできた。文化人類学の恩師がずっと私に言い続けていたことがある。それは「文化とは切実なものを持っている人が作り出すもの」という言葉だった。思えば、確かにその通りだ。私が勇気を貰う言葉を吐き出す人たちは何か切実さを持っている。ゾラ・ニール=ハーストンやアリス・ウォーカーやトニ・モリスンはアメリカの厳しい二重の差別の中で生きてきたからこそ、そんな人たちの言葉が私を奮い立たせてくれている。きっと彼女たちは自分たちの切実な問題をどうしても外に出していきたいということで書き続けたのかもしれない。そして、そんな姿が格好良く見えてくる。何かを表現しようとしているとどうしても賛成の言葉ばかりじゃなくて、反対の言葉だってある。そんな中でも凛と生きている姿がまた良い。そんな姿に私も勇気づけられる。

 そんな凛と生きている姿は当然、『カミングアウト・レターズ』の中に収録されている親や教師に対して一生懸命、自分の言葉で書き続けた当事者たちの姿でもある。自分の切実な問題を一番理解してくれて、理解してくれない相手に言う姿は何よりも格好良い。そして、そんな人たちから出て来る言葉は私だけではなくて、他の人たちも勇気づけたと思っている。

 もしかしたら、文化というのは社会から言葉を奪われた人たちが社会と繋がりたいと願いながら、切実な問題をたどたどしくも、必死に外に叫びたいという気持ちで作っていったのではないか。文化とは熱のある言葉のことなのだ。その熱のある言葉は決して、マーケットの理論の中では作ることはできない、当事者たちの切実な言葉にならない感情の中で作り出されるものなのだと思う。

歴史が色を持つ時

  アエラの記者さんのTwitterが炎上していた。最近、零戦が東京上空を飛んだというニュースに対して、零戦の「美しさ」や「雄姿」を称賛するのではなくて、零戦に平和を奪われた人たちについて知ることが重要であるというコメントが反発を呼んだらしい。

 このコメントに対して、朝日新聞がどうだとか、熊本城がどうだとか本線からずれた話ばっかりで反論になっているようでなっていない反論が多いと思ったのが私の実感だった。しかし、それでもこういう反応が多いのは、歴史の楽しみ方を誰かに言われたくないということからなのだろうか。

 私は歴史が好きだ。小さい頃は日本の中世史が好きで、成長するにつれて、世界史やアジアの歴史まで好きになっていた。そんな私が歴史の本を読んでいるとあることに気づく。とんでもない死者が出た戦争など、とんでもない犠牲者の数字が書かれてあるのだけれども、しれっと、ごく自然に書いてある。普通の歴史の本というのは政治の出来事を中心とした大きな視点で書かれることが多い。そんな視点で書いてあると大きな戦争でもしれっと犠牲者の数を書いてしまうのだ。そして、そんな数字を「凄いですよね!」と若干興奮気味に仲間へ言う私も居た。

 そんな「歴史好き」だった私にある日、歴史に直面する出来事が起きた。

 私は韓国留学中に父方の祖父母の出身地である済州島に行った。それは父も会ったことがないという祖母が違う済州島の伯父に会うためだった。私が持っていた資料は何十年も前に書かれた親族関係の住所録のみ。本当に済州島の伯父に会えるか心配になったが、なんとか伯父の住んでいる場所にまでたどり着き、済州島の伯父に出会うことが出来た。韓国語も片言で、突然やってきた見たこともない甥っ子である私を彼は温かく迎えてくれた。

 日本に帰ってきてから別の伯父に済州島に行ったことを報告し、済州島に住む伯父が元気だということを話した。そうすると伯父は済州島の伯父がベトナム戦争に従軍して、精神を病んで済州島に帰ってきたことを私に話してくれた。色々な話を親族から聴かされて育ったが、私にとっては初めて知る事実だった。

 今までベトナム戦争というのはどこか他人事の出来事だった。大学の授業やドキュメンタリー映画、本などでベトナム戦争のことは知る程度でその時の感想は、「なんで、アメリカはこんな負ける戦争をしたのだろう?」とか「ベトナムはやっぱり凄い」ぐらいの感想にしか過ぎなかったが、伯父がベトナム戦争に従軍していたことを知ると一変して、他人事だった歴史がまた別の角度から考えるようになった。

 もしかしたら、私が知っていたのはあくまでも文字や数字だけの大きな視点での歴史であって、実はその文字や数字に込められている命にまつわる小さな視点の歴史としては一切考えてなかったのではないかと。

 人によって起こされた出来事を対岸の火事として観てしまう癖がある。分かりやすく言うとテレビニュースが良いかもしれない。ニュースキャスターは「痛ましい事件ですね。」ということを言いながら次のニュースを報じてしまうし、観ている側もそうすることをどこかで望んでいる。疲れて帰ってきて、痛ましい事件を常に見たいわけではないからだ。だが、その反面、人によって起こされた悲劇を対岸の火事としてしか理解できなくなってしまう面もある。本来は私たち自身の問題として考えなければいけない問題がいつの間にやら、私とは切り離して語られる。

 思い起こせば小学校から高校までの歴史の授業を思い浮かべてみると近現代史の授業が少ないということもあるが、歴史を対岸の火事として捉えることが多かったと思う。そうでもしなければ、受験に間に合わないという事情もあるだろうが、やってきたことと言えば、年号の暗記や出来事の暗記といったことだ。当然、これからが不必要であるとは言わない。むしろ、そういうことはとても必要なことだ。

 だが、どうしても文字ばかり、もしくは数字ばかりを観てしまうと、そこで死んでしまった人たちやそこに生活していた人たちのことがどこか他人事になってしまう。当然、私の言っていることは史資料を軽んじるなということでは無くて、史資料や数字にしれっと書いてある個人の歴史に思いをはせてみたり、個人の生活や日常に思いをはせてみたりしても良いんじゃないかと思う。そんな生活や日常に思いをはせた瞬間に不思議とまた別の視点が生まれてくる。

 そんな歴史への見方が実は新しい何かを作ってくれるのかもしれない。過去を振り返るということを私たちはただしているだけではなくて、今、私たちに何が必要なのかを教えてくれたりもするのだ。

 歴史の楽しみ方は人それぞれあるし、愛着があればあるほど、そんな楽しみ方を誰かに言われることは嫌なのかもしれない。ある意味では大きな視点の歴史として楽しむのも面白いのかもしれないが、白黒な大きな視点から、大きな出来事の幕間にあった小さいがカラフルな個人の物語に目を移してみるとまた違った色が出てくるのではないか。そんな歴史が色を持った瞬間に初めて、歴史と出会ったと言えるのではないのかと思う。

『セデック・バレ』と蓮舫さんと私と

 『セデック・バレ』という映画がある。日本の台湾統治時代に台湾の原住民であるセデック族が起こした霧社事件をテーマにした映画で、2部構成、計4時間というとても長い映画だ。だが、不思議なことにこの4時間という時間を感じさせないくらいにとても面白い映画で、私は時間さえあれば何回も観てしまう。

 この映画には花岡一郎、花岡次郎という2人の登場人物が出てくる。彼らはセデック族だが、セデック族の中でも頭が良いということで他のセデック族よりも良い教育を受け、街の巡査として働いている。本来、支配される立場の人間が、模範的な支配される側として当局に利用されているのだ。劇中でこの2人は日本とセデック族の板挟みとして苦しみながらも、最終的にセデック族の反乱に協力し、死んでしまう。

 この2人を観ながら、私は思わず自分自身を重ね合わせてしまった。2つの共同体の板挟みになる辛さというのは痛いほど分かるし、霧社事件から90年近く経った今でも、帰化をした人々は「日本人らしさ」を求められる。現に自分がかつて所属していた共同体をけなして、「日本人らしさ」を強調する人だって居る。私は帰化したのにも関わらず、自分を「日本籍の在日コリアン」と言う。せっかくの自分の人生だからどこかのマネキンで居るようなことは嫌なのだ。

 ずっと、この気持ちは私だけにしか分からないと思っていたけれども、最近になってから、『セデック・バレ』の花岡一郎と花岡次郎に共感できる人は私だけではないと感じることがあった。 

 民進党の代表選挙の時、蓮舫議員の「二重国籍疑惑」が問題になった。元々は中華民国籍で日本に帰化したはずの蓮舫議員が、中華民国籍を抜いていなかったのではないかというお話だ。どう考えてもこの問題を提起した人々は悪質極まりないが、この問題がきっかけで蓮舫議員は叩かれることになった。だが、この問題よりも私個人として何とも言えない気分になったのは、「私は生まれながらの日本人です。」とFacebook蓮舫議員が釈明したことだった。帰化したことは悪いことでは無いし、彼女自身のルーツは悪いことではない。だけれども、このような問題があらぬ方向から来てしまって、彼女はこう答えるしかなかったのだろう。

 私の周りの蓮舫議員の評判は良くない。「高飛車だ」とか、「偉そうだ」とか言われて、何を言っても否定されてしまう。でも、この私からすれば蓮舫さんは必死になっているようにしか見えない。帰化人だからということなのか、誰よりも必死に取り組もうとするし、誰よりも真面目になろうとしている。彼女の険しい顔と強い言葉からそんなことの考えている現われかもしれない。多分、彼女は「良き日本人」になりたいのだろう。この私にもそんな気持ちがどこかにある。でも、そんなことをしても結局は「良き日本人」になるだけで、それ以上でもそれ以下でもない。二重国籍疑惑の時のように結局は「帰化人だから」ということで片づけられてしまうようなことが現実だった。

 最近になって、自民党でアメリカの市民権を持っていた小野田議員が、市民権を手放した報告をしたと共に、戸籍を明示しない蓮舫議員を叩いていた。「良き日本人競争」を一生懸命していて、国籍を離脱したことによって「良き日本人競争」に勝ったと思っている小野田議員がガッツポーズをしているように見える。そのガッツポーズは何だか悲しく見える。「日本人にならなければいけない。」という競争を彼女もさせられているのだから。一体、彼女たちにそんな競争をさせているのはどこのどいつなのだろう。

 私は「良き日本人」競争を強いられている蓮舫さんを見ながら、彼女のような存在を認めたくないという人々が多いことを知る。帰化とは何だったのだろう。と思わされる瞬間だった。

 もしかしたら、世間からは蓮舫議員も私も『セデック・バレ』に出てきた花岡一郎と花岡次郎のような存在として思われているのだろうか。「良き日本人」として振る舞うことを求めらるだけの存在だとしたら、モデルにされる側はどうやって声を出せば良いのかと考えてしまう。

 そんな現実を知った時に、私も蓮舫議員のように険しい表情になってしまった。この国が本当に良い国だと言えるのは私と蓮舫議員の険しい表情が無くなっていくことなのかもしれない。

声を押しつぶす人たち

 今、安倍晋三寄りのジャーナリストである山口敬之氏が女性に性的暴行をしたと問題になっている。被害を受けた女性は警察に被害を届けたものの、結果的に嫌疑不十分のため、書類送検になった。

 被害を受けた女性は一部ではあるものの実名を公表し、顔を出して会見に臨んだ。こういった性的暴行の事例では被害者が表に出て何かを話すということはとても少ないが、今回は彼女の希望によって、会見が行われることになった。

 しかし、そんな被害を受けた女性に対して、この女性に「隙」があったのではないか?という声がある。男女2人でお酒を飲みに行くのに油断をしてはいけないということが言いたいのだろうか?こんな意見を観ていて、何だか呆れかえってしまった。

 被害者であるにも関わらず、何故、ここまで非難の声が上がるのだろうか?

 学校でいじめ自殺があったという話や企業の中で何らかの問題があったという話の中で必ず言われる文句がある。それは「この問題については全く関知していませんでした。」という言葉だ。問題が起きた学校や企業のお偉いさんに何かマニュアルでもあるんじゃないか?と思ってしまうくらいに共通している。長い間、こういった現象が起きてしまうことが不思議でしょうがなかったが、あることをきっかけにこういうことが原因なのではないか?と思い始めた。

 私はBuzzfeedヘイトスピーチに関しての記事が取り上げられて以来、小さな空間やインターネットの空間で「当事者」として差別の話を話す機会が多くなった。私の話に対して様々な応答がやって来るのだが、その中でびっくりしてしまう応答があった。それは「貴方の受けている差別なんて気のせいじゃない?」という言葉だ。この言葉はとても怖い。私が話したことは無かった問題と断定してしまうからだ。

 差別の問題のみならず、こういった「語りにくい被害」は当事者が様々な社会的制約から語らないということが多いけれども、私は「語ってもしょうがない」という心理がどこかで働くのではないかと思う。声を出してもそれを差別として認知しようとせず、差別されている当人のせいにしてしまうのだから、声を出しても何も変わらないということに気づいてしまう。そして、怖いのは「気のせいじゃない?」と言っている人たちが、無かったことにしようとしている感覚すらないということだ。

 この被害女性への非難とは一体何だろうと考えてみると同じ怖さを感じる。

 彼女を非難している人たちはたくさん居るが、そのどれもが彼女の「失点」としてこの問題を語ろうとしている。だけれども、それは被害を受けた彼女の失点にすることによって、無かったことにしたいという欲望の表れであるのだ。

 そして、この問題の深刻な点は「語ってもしょうがない」という空気を作ってしまうことだ。日本国内では性犯罪が起き続けている。そのような中で、彼女の勇気のある「告発」は非常に意味をなすものになる。でも、もし、この「語ってもしょうがない」という空気を作り出してしまったらどうなるのだろう。同じような犯罪が起きたとしても見逃され続けてしまうだけだ。

 無かったことにしたい人たちはそこまで考えているのだろうか。

 そんな無かった人たちに対抗するためにしていることは何だろう。

 それは声を出すことだ。ネットでも、自分たちの周りの人たちにも少しだけ話をしてみるのも良いのかもしれない。まずは無かったことにしないこと。そして、勇気のある告発をした彼女に寄り添うこと。これが一番大事なことだと私は思う。

 とても単純なことだし、もしかしたら、どこででも言われていることかもしれないけれども、敢えてここで書いたのは、ただでさえ、これから誰かが集まって物を自由に言えなくなる時代が来るかもしれないからだ。

 そんな時代にしようとしている偉い人とその取り巻きの人たちにとって一体何が怖いのかと言えば、そんな小さな繋がりとちょっとした言葉の力だ。犯罪をもみ消せるよな大きな力を持っている人たちだからこそ、とっても怖い力を私たちは持っている。

天皇の言葉を借りて「民主主義」を語る

   先日、毎日新聞であることが報道された。その報道とは天皇が退位を巡る有識者会議でとある有識者の発言に対して、天皇が不快感を示したということだった。その有識者の発言とは天皇は祭祀さえすれば良いという発言だったらしい。確かに長年、様々なところを行幸し、戦後、残されたことを総決算しようとした天皇の方針とは違った考え方だったかもしれない。

 こうやって天皇の意見が新聞上で出てくるのはとても珍しい。基本的に天皇が何かのイシューに対して、意見を示すことは無く、避けられる傾向にある。天皇の言葉は権力によって用いられる。いわば、権威のような存在だからだ。実際に、かつて、防衛庁長官が内奏で天皇が話した言葉を公にしてしまい、それがきっかけで防衛庁長官が辞任に追い込まれた事件もあった。そのくらい天皇の言葉は重大なものとして扱われていたのだ。

 だが、驚くことにこの天皇の意向を安倍政権への反対だと言ってしまう人たちが多い。確かに安倍政権が戦後民主主義体制を破壊しかねない、かなり危険な政権であることは間違いないだろう。私も安倍政権には反対だ。だが、本当かどうか分からない宮中の天皇の意見を自分たちの政治的な意見の正統性として用いるのは一体どういう意味を持つのか。

   大日本帝国憲法では国民に主権は無く、あくまでも天皇に主権があるとされていた。そして、政治的な決定は天皇の言葉を通して、行われていたが、その結果、天皇の言葉が政治的闘争のために用いられ、また天皇の名前によって、人権を無視するような行為が行われるようになってしまった。

   私は植民地で育った祖母から天皇の恐ろしさをよく聴いていた。正確に言えば、天皇の名の下に何をやっても良いという恐ろしさとでも言えば良いだろうか。植民地の人々にとっても天皇の言葉は絶対だった。そんな言葉に逆らえば命はない。

   かつては植民地の人々が天皇の住む宮殿に向かって挨拶をすることや、天皇の祖先を祀る神社にお参りしなくてはいけないような決まりもあった。クリスチャンだった祖母にとってこの儀式は屈辱的だったと聴いている。祖母の青春はカッコ良く言えば、個人の思想信条の自由を守るかの戦いだった。

   そんな日常を伝え聴いていた時は、「昔はそうだったんだろうなぁ…。」ぐらいの認識だったが、今では全く違う。

「うわぁ…。あの時聴いていたことそのまんまじゃん…。」と思う日々だ。

   植民地の子孫として生きて、日本国籍を取得した私にとって、天皇の言葉よりも日本国憲法の理念が大事だ。

国民主権、平和主義、基本的人権の尊重…。

もしかしたら、これは絵空事に聴こえるかも分からないが、そんな日本国憲法の理念によって、私は生きていると思っている。

決して、天皇の言葉なんかではない。

   教室で教えられることや歴史の本を思い返してみれば、1945年を境に戦前/戦後に区分している。だが、天皇の言葉を用いて、自分の主張をしている人々を見ていると戦前と戦後なんて無くて、ずっと帝国が生きていたと感じてしまう。いや、かつての帝国なんかよりも酷いかもしれない。一方では臣民であった人々を除外し、諸権利を戦後の体制によって奪ったばかりか、差別する現状を是認し、一方では同胞だと言いながら、憲法の理念を信じて復帰した人々に日本のためのセコムを押し付けて、反対すれば「土人」と言うのが今なんだから。

戦前/戦後の間にあるスラッシュのまやかしは今に始まった事ではなかったのだ。

   いつになったら、見えない植民地を生きる私は私の口で語ることができるのだろう。

   つい最近、とある会社のお偉いさんが、憲法なんて紙切れにしか過ぎないとSNSに書き込み、謝罪することになった。あのお偉いさんの言うことは皮肉なことに間違っていなかった。天皇の言葉を使って、政権に反対するなんて最も憲法の理念から反している人々が居たからだ。

   この国の憲法国民主権という大事な原則を生かすも殺すも自分たちの意思次第だ。

Tシャツを脱がせたのは誰だろう

 私が在籍していた高校はとても校則が厳しかった。頭髪検査はもちろんのこと、爪の長さや、男子は腰パン、女子はスカートを短くしていないかを視られていた。

 卒業した今から考えれば、なぜ、あんなに生徒を拘束していたのかも分からない。別にグれるような連中は居なかったし、それぞれの個人にモラルがそれなりにあったと思う。「反抗したい」と思っているが、文句を言いながらも渋々、そんな変なルールを受け容れていた。

 学校の校則は今、考えてみれば奇妙なものが多い。例えば、「髪の毛を染めるな」とか、「異性交際禁止」とか、数えていけばキリがない。必要に迫られて髪の毛を染めなきゃいけない人だって居るし、陰ではコソコソお付き合いしていることだってある。なんで、高校生だけがそんなことをしてはいけないのか・・・・・・。

うーん。卒業してから考えると、とても不条理に感じる。

 今から考えれば、「高校生の癖にお洒落はするな。」もしくは「高校生の癖に色づくな。」ということか。そんな環境で育っていると妙に主張している自分と同じ年の連中を観て、「うわぁ・・・・・。中二病だ。」と言って、馬鹿にしていていた。

 私にとって、とても恥ずかしい過去だ。

 今日は参議院に行ってきた。小学校の社会科見学以来だったが、大人になってから行ってみるとまた違った感覚で観ることが出来る。特に、ここで寝てる奴は許せんよなぁとか(笑)そりゃあ、私たちの一票で代表を決めているんですもんね。

 そんな大人の社会科見学の当日である今日はとても暑かった。5月下旬であるにも関わらず、真夏みたいに暑い。こんな暑い時、私は大好きなTシャツとジーパンで過ごすことにしている。

 私はTシャツを集めるのが大好きだ。どんなTシャツを持っているかと言えば漫画「ワンピース」やディズニーのTシャツのようなキャラTや、バンドTシャツもあるし、ちょっと主張のあるTシャツまで持っている。これで夏は大体、乗り切れてしまう。

 今回の大人の社会科見学では特別、何も考えずにビートルズのTシャツを着て、替えのTシャツをバックの中に入れていた。こんな天気の時は汗をかいてしまい、着ているTシャツがびしょびしょになってしまうからだ。

 今日も結局、国会議事堂前駅のトイレで黒いTシャツに着替えた。そして、トイレの鏡の前に立った途端にふと気づいた。なんと、そのTシャツの胸にはオレンジ色で「NO WAR!」と書いてあるではないか。でも、私は大丈夫だろうと思って、参議院に向かった。

しかし、参議院の前にまで行ったときに、職員さんに止められてしまったのだ!

その職員の人曰く

「主張がある服装での入場はお断りしています。」

とのこと。

 一気に高校時代に戻ったような気がして、「懐かしいなぁ、この感じ。」と思い、「NO WAR!」のTシャツから、再びビートルズのTシャツに着替えた。それで無事にOKを貰い、国民の代表機関である国会に入ることができたのだった。

まぁ、ビートルズも愛と平和を歌ったんだから充分、主張はあるんだけどね(笑)

   こんな出来事があっては、建物のことなんか頭に入らない。ひたすら、職員さんにとって、「主張がある」っていうのは一体何だろうと考えていた。

 日本の学校に通っていると嫌でも社会科の時間に日本国憲法の三大原則を学ぶ。

国民主権」、「平和主義」、「基本的人権の尊重」。

この3つの原則で私たちの自由な生活が保障されていると言っても過言ではない。

 日本国憲法の三大原則の中で特に特徴的なのは「平和主義」の条項、つまり、憲法9条だろう。ここで改めて、憲法9条とはどんな条項なのかということを確認してみるとこんなことが書いてある。

第二章 戦争の放棄

第9条第1項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

第2項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 

 おいおい!これってつまりは「NO WAR!」じゃないか!

私のTシャツは全くもって当たり前のことを語っていたのだ。

 憲法で規定されている原則を書いたTシャツを着ていただけで、憲法で「国民の代表機関」であり、「国権の最高機関」に入れないなら、どんなに中立であったとしても、国会は誰の主張も受け容れてくれないのだろう。

 念の為に言っておくが、私を止めた職員さんに何か思っているということではない。むしろ、その職員さんも職務を遂行するために、上司からの命令でやっていただけだ。土日で、しかも、こんな暑い中、私みたいな面倒臭い人間を注意するのだから本当に「ご苦労様」と心の底から言いたくなる。

 そんな職員さんよりも、憲法に書かれた当たり前のことを「主張」だと言ってしまお偉いさんの方が遙かに問題だ。

 こんなお偉いさんたちにとっての「主張」っていうのは何だろう?

まさか高校の校則のように「国民の癖にモノを言うな!」とでも言いたいのだろうか?

 先日、「共謀罪」を定めた刑法改正案が衆議院の委員会を通過して、今、衆議院の本会議で審議に入ろうとしている。様々なところで「共謀罪」の怖さを伝えている人たちが多い。しかし、もしかしたら、共謀罪があるような日常にもう入っているのかもしれないと思うと参議院の議場をただ見学するだけではいけないと感じるのだった。

ボールが描く虹色の夢

  先日、浦和レッズが6-1でアルビレックス新潟に勝ったらしい。久しぶりの大勝と首位にあらゆる人が喜んだ。

   しかし、私はその試合を快く観ることができなかった。それは試合内容に不満があったというわけではない。地元のクラブチームとして不名誉なことがあったからだ。

   5月4日の鹿島アントラーズ戦で、レッズのディフェンダーでお馴染みの森脇良太選手が鹿島のレオ・シルバ選手に対して、「臭い」と発言し、選手同士でもみ合いになった。結果、森脇選手が2試合出場停止になり、あの事件は「終結」することになってしまった。

   森脇選手がいわゆる「元気」なキャラだということはよく知っている。そのキャラが時にチームを元気付け、時に森脇のキャラがチームを危機に陥れることもある。ファンとして言えばこういうことはいつかあるのではないかと思っていた反面、ピッチの上で人種差別と捉えられないような行為をすることはショックだった。

 私が住む街にはあらゆる人たちが居た。教室に行けば、私のような在日韓国朝鮮人の子も日系ブラジル人の子も、残留孤児の帰還者の子も、新しく日本に渡ってきた中国人もクラスメイトとして一緒に過ごしていた。また、学校の中では部落差別に関する教育もされてきた。

 あらゆる人が住んでいたということ以外にも、私の住む街にはある特徴があった。それは野球の話よりもサッカーの話で盛り上がること。そりゃあ、当然だ。何せ、同じ街に2つのクラブチームがあるのだから。毎週土日になれば、試合が終わった後に、それぞれのサポーターが酒場で時に素晴らしいプレーを肴に酒を飲み、時に情けないプレーへの怒りをぶちまけていた。

 最も困るときは我が街の赤のチームとオレンジのチームが対決するときだ。お互いのホームタウンまで電車で10分ぐらいなのでまず、それぞれの駅が殺気立ち始める。試合になればここでは書けないようなヤジは飛び交うし、試合終了後、サポーターたちが溜まっている酒場は荒れに荒れる。どっちが勝ったかということはサポーターたちの顔を見れば一目瞭然だ。

 そんな街の名物風景を私は生まれてからずっと見てきた。そのせいだろうか、私はいつの間にかサッカー好きになっていた。丁度、私が小さい頃は日本代表が初めてワールドカップに出た時でもあった。今では、日本代表の試合はもちろん、時間があれば、Jリーグの試合も、イングランドプレミアリーグの試合も観るようになった。去年の冬頃は高校時代の友人と一緒にJ1の優勝決定戦を観に行った。喜び勇んで、埼玉スタジアムに向かったものの、結局はレッズらしい負け方をして、肩を落として帰ったことを憶えている。 

 私にとって、あの2つのチームはこの街の象徴だと思っていた。あらゆる出自の人たちがこの街には住んでいたし、実際、この2つのチームは外国人選手の活躍によって強くなってきた。そして、このチームを支えていたサポーターたちも色々な出自を持つ人間たちが支えてきた。森脇にとってはもしかしたら、一時の勢いで起こしてしまった過ちなのかもしれない。だが、彼に何だかこの街のことを否定されてしまったような気がした。
 また、悲しいことにこういった事件は今回が初めてではない。以前にも過ちを犯している。それは試合の横断幕に「JAPANESE ONLY」という横断幕を一部のサポーターが掲げたことだった。すぐさまこの横断幕は問題になり、重い処分が下された。

同じことは繰り返されてしまうのだろうか。私がこの街の一員として、できることはこういったことを無かったことにしないこと、そして、この出来事をブログで書くことだと思っている。もう二度とこんなことでサッカーを汚しちゃいけない。

 森脇はもうじき帰ってくる。そんな森脇を私はどうやって迎えれば良いのだろうか。処分が終わって同じことが繰り返されるようなチームを応援したいとは思わない。同じことを繰り返さないためにできることは一体何だろう。