見守ってくれた街の近くで

 誰にでも「ふるさと」と言えるものがあると思う。私みたいなディアスポラは必ず「ふるさとはどこなんだ」という不毛な論争をしてしまう。そんな争いにうんざりした私は「オクニは?」と質問されても「うーん、今住んでいるところですかね?」とやり過ごす。そんな私でも「ここはふるさとなんだ」と思える空間が1箇所だけ存在する。それは東上野のコリアンタウンだ。

 我が家では必ず夏と冬にコリアンタウンにある韓国食材店でチャンジャとゴマの葉の醤油漬けとにんにくの醤油漬けを買いに行く行事がある。この夏と冬の行事を私は毎年、楽しみにしていた。ニンニクの臭いがきついのでどうしても学校が無い夏休みと冬休みの時期にしか食べられないからだ。

   私が通う店にはたくましそうなお母さんが居て、そのお母さんが店を仕切っている。そんな空間を見る度に「帰って来たなぁ。」と思いながら、いつもの食品を買って行く。

 今でも大事な人への贈り物はこの店の美味しいチャンジャやゴマの葉の醤油漬けだ。高価な物よりも私が実際に食べて美味しいと思える食べ物を送りたい。それが最大のプレゼントだと勝手に考えている。

 この街に思い入れがあるのは私だけではない。私の父や母の初めてのおつかいはこの街にある韓国食材店で買い物することだったそうだし、親戚も店をやっていたそうだ。私だけではなく、私の父や母、その先の世代から続く大事な空間。そんな空間を私は「ふるさと」と呼んでいた。

 そんな「ふるさと」だと思っている空間の近くでレイシストによるデモが起きた。私は居ても居られず現場に向かった。「ふるさと」だと思っている空間がありもしない言葉で穢されることはなんとしても防ぎたいと思ったからだ。

 カウンターの現場は凄まじい。ありもしないことを垂れ流すレイシストに対して、色々な人たちがカウンターとして抗議をする。そんな光景は「ヘイトスピーチ」という言葉を知らない人から見たら「一体何をしているのか?」とか「喧嘩しているの?」程度にしか思われないかもしれない。実際に路上で何にも関係の無い通行人が「これじゃ、ただの叫び合いじゃん」と独りごちていた。

 私はそんな中では声を出さず、手持ちのiPhoneでひたすら写真を撮っていた。声を出すことよりも私の愛する街で起きていることを後世に伝えたいという気持ちからだった。

 デモは終着地点のある公園に着いた。カウンターの人々もその公園の周りに集まり、大きな声でヘイトスピーチに抗議していた。あるカウンターの人は興奮してしまったのだろうか、拡声器を持ちながら、レイシストに向かっていこうとした。

 その時、私はその場に居た市民を守るはずの警察官よりも先に制止した。

「これ以上やると刺激して、ここに住む同胞に何かあると困るからやめてくれ」

私はそんなことをカウンターの人に言っていたと思う。

   何か考えていたわけではない。もし、レイシストを刺激をしてしまえば、レイシストにより標的にされてしまうかもしれないと本能的に察知したのだろう。

   当事者になればなるほど差別的な言動の前で様々な感情を飲み込みながら生きている。それは事を荒立てればこちらに差別の刃が向いて来ると考え、とりあえず自分自身の身を守るための行為だ。そんな行為が明日を変えるわけでないことを分かっていながらも「無かったことにする」共犯になっている。

   もしかしたら、私が声を上げなかったのはあの時、レイシストに対して報復の恐怖を感じていたのかもしれない。分かりやすく言えば、いじめられているいじめられっ子が周りにいじめられていることを言えない感情とでも言えば良いだろうか。レイシストに向かって行くカウンターの彼を止めた私の中にはなんとも言えない感情があった。

 ヘイトスピーチのデモが終わった後、行きつけの韓国食材店に行った。街が荒らされていたら嫌だと思ったからだ。不安になりながらも店に向かったが、街と店の様子はいつもと変わらない。店を仕切っているお母さんは居なかったけれども、いつものあの「帰って来たなぁ」という感じがする空間だった。私はそんな様子を見て、安堵したが、いつこの街からたくさんの涙が出るのかと思うとまた複雑な気持ちになる。

 最近、結婚をした友人に会いに行くために結婚祝いとして、その店で柚子茶を買った。こんな寒い時期には身体も心も優しく温まるものが良い。

 柚子茶のような身体も心も温まるような何かは路上にこそ必要なのかもしれない。

 

神様を信じている人の日常

   福島で100体以上の地蔵や墓を壊した男が捕まった。私はプロテスタントで宗教が全く違う立場とは言え、この事件には憤りを感じる。どういう動機だかは分からないが、これからの記述で色々なことが分かるようになるだろう。

 こんな酷いが起きてしまうのと同時に、今回の事件に関して、かなり酷い反応があったことも事実だ。逮捕された男が韓国籍だったということで「反日」と結び付けようとして事件を語ろうとしている人たちが居る。彼自身がどういう信条だかは分からないし、判断もできないが、国家や民族という想像物を狂信している人類の姿に、神様はせせら笑っているのかもしれない。

それだけ国境を越える信仰の話を人種主義の話として消費したい人たちがたくさん居るのだろう。そんな現実にこの事件とはまた別の酷さを感じる。

   日本では「日本人は宗教に寛容な民族だ」なんていう話を聴く。

1年の行事を見てみれば、クリスマスはあるし、初詣もあるし、お盆もあるし、赤ん坊が生まれれば神社にお参りに行くし、結婚すれば教会で式を挙げ、亡くなるときには仏教式の葬儀を挙げる。確かに一見見れば「日本人は宗教に寛容だ」なんていう神話が信じられるのも頷ける。だが、本当なのだろうか?

  私が小学5年生だった頃、私は2つの行事に参加できなかった。その行事とはプール開きと日本人形作りの行事で、一見誰にも宗教的な行事とは思えないだろうが、クリスチャンである私にとってはかなり宗教的な行事にだった。プール開きでは形の上ではお酒をまいて、ちょっとした神道の儀式っぽいことををやるし、日本人形を作るになるとそれは偶像崇拝になるしと様々な面で引っかかる。こんなことは学校生活を送る上では常に付きまとった。高校時代にあった宿坊研修は宿坊に泊まって、朝の勤行をする行事だったので、かなり前から私が悪性の風邪を引くことが家族会議で決定した。

   こういうことは事前に牧師さんに相談して決める。私は全てのキリスト教の牧師さんに会ったというわけではないが、うちの牧師さんは即座に学校に行かなくて良いと言ってくれた。お陰で皆勤賞は取れなかったが、正直、信仰の方が大事だから全然、問題は無い。

   私は一度、ズル休みをしたくてズル休みをしているわけじゃないんだから、出席扱いにしてもらえないの?と親に言ったことがある。親は何故か頑なに「それは無理なんだよ」と私に諭していたのを憶えている。大学生になってからその理由が分かった。憲法の授業で同じようなことで宗教上の理由の欠席を出席として認めて欲しいという訴訟があったことを知った。結果として、請求棄却で終わったらしいのだが「日本人は宗教に寛容である」なんて嘘なんじゃないかと改めて感じさせられた判例だった。

   最近、聖書から由来している私の名前を観て「DQNネームですか?」なんて言った人も居た。きっと悪気は無いし、知識の問題もあるのだろうけれど、私は思わず苦笑したのと同時に何か大事なものが否定されたような気がした。

   宗教を信じている人間なんか居ないっていうことが宗教に寛容であるというわけじゃない。無かったことにする理論はここでも働いているのかな。

   仏像を壊されたこと、お墓を壊されたことで怒る気持ちは分かる。でも、その怒りを人の信仰を軽視する今の日本にも向けて欲しい。

   私は仏像や墓を破壊した人も許せないし、こんな私の日常の中にあることも許せない。

信仰には国境なんて関係ないはずだし、誰にも否定するような権利も無い。

   地蔵が壊されていることはプラズマ画面の向こうのことだけれど、私にとってはなんだか他人事のようには思えなかった。

 

成宮さんへの報道について

 会社で仕事をしていたら、俳優の成宮寛貴さんが引退したというニュースが目に飛び込んできた。どうやら週刊誌で報道されていたコカインの吸引疑惑が彼の引退を決意させる原因だったらしい。最近、芸能人のクスリにまつわる話が多い。チャゲ&飛鳥ASKAが再び逮捕されたり、女優の高樹沙耶大麻で逮捕されたり。そんな薬物犯罪が巷で話題になっている中で成宮さんのコカイン吸引疑惑が週刊誌で報道された。

 成宮さんは芸能界引退を発表する文章の中で成宮さん自身のセクシャリティーが週刊誌に報道されたことを引退の要因として挙げていた。彼には以前からセクシャル・マイノリティーである噂はネット上で読んだことがあった。

「そんな個人的な情報どうでも良いだろ」と思いながら、そんなページをついつい読んでしまう私が居る。

 誰かによって、自己の性的指向が暴露されることを「アウティング」と呼ぶそうだ。最近、一橋大学の大学院に通っていた院生が周りの仲間にアウティングされ、それが原因で自ら命を絶ったことは記憶に新しい。

そのような悲劇があったにも関わらず、今回も「アウティング」による悲劇が起きることになった。

性的指向が「アウティング」されてしまう立場の気持ちが完全に分かるというわけではない。ただ、暴露される恐怖は私のような民族的なマイノリティーでも共有している問題だ。

 私は高校時代に自分が「在日」であることが暴露されてしまったら、大変なことになるんじゃないかという想いの中で生活していた。たまたま隣に朝鮮学校があり、私が通っていた高校の古株の先生は朝鮮学校に対して良く思っていなかったようだったことや私の伯父が韓国籍であることが分かった途端に高校を辞めることになった話を聴いたことがあったからだった。

 そんな話を聴いて育つと、どうしても「私が私である」と言うよりも「いつ私の正体がバレてしまうのか?」「正体がバレたら社会から排除されてしまうのではないか?」「私の正体をバラさないように生きていこう」という感覚になる。

 民族的なマイノリティーはまだ暴露されたとしてもマシかもしれない。それは家族という身近な逃げ場所も存在するからだ。しかし、セクシャル・マイノリティーの立場はまず家族に自分自身が何者かとカミングアウトするところから始まっていく。

 私のような立場よりも孤独さというのはより強く感じているかもしれない。

 そんな孤独さを嘲笑うかのようにマスコミが平気で「アウティング」をしてしまうのには愕然とする。それと同時に小学校の教室と何ら変わらない今の社会が持つ欲望の渦の中に私も巻き込まれるのではないかという恐怖が襲う。

 マイノリティーの当事者たちは常に消費されている立場に置かれる。その立場を建設的に疑いつつ、外の世界とコミュニケーションを取っていく人々が居ることも事実だが、全ての人がそのような高等技術を持っているとは限らないし、「私が何者かであるとは言わない」選択肢を選ぶ人も居る。私自身は「私は私だ」と言う立場の人間だが、そんな自分自身を語らない当事者の気持ちも尊重したい。それは人の生き方を決められる権利は誰にも無いし、人の在り方を強制する権利も誰にも無い。それを決めるのはその人自身だと考えているからだ。

 近代市民社会には「疑わしきは罰せず」という原則がある。本来は国家の警察権によって容疑者とされた市民に対して人権を不当に奪わないようにする原則だ。ASKAの件から考えても、そんな原則を無視し、集団の欲望のままに人を消費する社会の中では無意味なことかもしれないが、私はあえてこの原則に従いたい。仮に彼が罪を犯していたとしてもそれは彼の罪であり、彼の属性による罪では無い。法は属性を超えて、罪を犯した全ての人に適用されるべきだ。だからこそ、集団の欲望によって、見世物にしてはいけない。まして、それが彼が隠したいと願っている属性であれば尚更だ。

 この私にも誰かを消費したい気持ちがある。そんな気持ちを抑えながら、私はその人の在り方を尊重していきたい。それは彼を守るだけではなくて、消費される立場が誰になるのかは分からないという恐怖にはうんざりしているからだ。

 生きやすい社会を作るのはそんなところから始まるのかもしれない。

デモの現場から教室を経由して祭祀(チェサ)の現場を観る

 朴槿恵大統領の弾劾騒動がとうとう山場を迎えている。野党が12月9日に弾劾決議案を国会で可決することを目指し、セヌリ党の非朴派は12月7日に朴槿恵大統領が辞任時期を示さなければ弾劾決議案に賛成するとのこと。とうとう朴槿恵大統領も追い込まれたという形だ。本来はこの憲法秩序回復の過程について色々と書いていかなければいけないのだろうが、今回はそんな話とは違って、韓国国内に根強く残っている問題の話をしようと思う。それは韓国における「女性」の話だ。

 2014年に私は釜山に留学していた。その時に、私は韓国政治を英語で学ぶクラスに入っていた。

 2014年というと韓国の経済状況が良くなかったことを覚えている。物価は上がっているのだが、賃金が上がらなかったことを愚痴る人が多かった。また、その年にはセウォル号の事件もあり、国内では朴槿恵が「何もしない大統領」として人々が様々な不満を漏らしている時期だった。

 私が居た韓国政治を英語で学ぶクラスにはベトナム人留学生がたくさん居て、彼らは特に女性が国家元首になったことが興味深かったそうで、クラスを受けもっていた教授に朴槿恵大統領に関しての質問を多く投げかけていた。具体的には「朴槿恵大統領が大統領になったことは韓国の女性の地位向上に繋がっているのか?」「韓国の女性の地位は上がっているのか?」といった質問だったと思う。

 それらの質問に対して、教授は朴槿恵大統領が父親である朴正煕大統領の長女であるということや父親の支持者や政治基盤を引き継いでいるということを話した後に、「朴槿恵大統領の韓国の女性の地位向上に繋がっていない。大統領は結婚しているわけでもないし、主婦の経験も無い。なので朴槿恵はWOMANではなくて、PERSONとしてしか見られていない。」と答えた。

この一言を聞いたときに、自分の中ではこんな言葉が出てきた。

「それでは一体、韓国における女性とはどんな人のことを言うのか?」

 我が家はクリスチャンだ。なので親戚が行っている祭祀(チェサ)に参加することはない。だが、お正月だけはチェサが終わった後に、正月の挨拶回りということで伯父の一家に会いに行く。

 韓国におけるチェサは本当に大変なのだ。誰が大変なのかと言えば、家に関わる女性が大変。とりあえず親戚中の女性が台所に立って、料理を作り、チェサの後片付けからなにやら全てをこなす。男は午前中にご先祖様へのお祈りをした後に、ただ飲んだくれているだけ(笑)そんな「韓国的」とされている空間の中には男性が行わなくてはいけないことと女性が行わなければいけないことというジェンダーの問題を垣間見ることができる。

 お正月、私が伯父の一家に挨拶回りをする時には必ず、伯父の妻である伯母が常に台所に立ち続けているし、私たちの世話まで焼いている。

母が「私やりましょうか?」と言っても「良いから、座ってて!」と言われ母が出る幕もない。伯母は済州島から伯父に嫁入りするために日本に来た。私のような在日とは違って、ニューカマーとしてやって来ているので、もしかしたら、チェサをやることはすでに教育されていることなのかもしれない。

 こんな空間に耐えられなくなった私は一度、手伝おうとしたが、伯母は「良いから、座ってて!」と言って、私を手伝わせなかった。このことを父と母に相談したところ、「伯母さんはそれを誇りだと思っているんだよ」と話した。それ以来、私は伯母の手伝いをしないようにしている。

 伯母が韓国の女性を全て代表しているとは限らないが、そんな社会的役割をこなしている女性こそが「女性」であると考えている人が極めて多いと思う。

 こんな問題をこの時期に書いたのには理由がある。それは朴槿恵大統領の辞任を求めるデモの中で様々な芸能人が参加し、会場で歌を歌ったり、コントをしたりした。その中で、ある芸能人の歌が女性を誹謗中傷するものだとして、デモの当事者たちの話し合いでパフォーマンスを取り止めたことがあった。

 そのニュースに触れたとき、何だか韓国でも少しずつ状況が変わりつつあるのかなぁと思った。「女性大統領」という問題ではなくて、「憲法に違反するような行為をした大統領」として朴槿恵大統領を批判するのであればそれで良いと思う。だが、今回のことをきっかけに女性への批判ということになってしまえばそれは違う。幸いそのような方向ではなく、憲法に違反するような行為をした大統領として国民から批判されている。

 今後どうなるか分からないが、そんなことはチェサで働き詰めの伯母を観ていると、とても希望のようにも感じるのと同時に伯母がチェサで働くという行為も私は受け容れなければいけないのかなぁとも思っている。「これが正義だからこのことには従わなくてはいけない」とするのは何か違う。伯母にとってそれが誇りであるのであれば、何もしないということには違和感があっても、尊重したいし、見守っていきたい。もし、女性の権利を片手に伯母に対して何か言うのであれば、その態度こそが「女性はこうでなければいけないという」どこかで見た光景を私自身が再生産してしまうと思うからだ。

伯母が「もう止めたい」と言った時にどんな言葉を私が掛けるのかということだろう。

 デモの現場でのちょっとしたできごとは海を越えたここでも、小さな生活のこととして起きている

 

 

吐息に触れる大切さ

 ある飲み会に出席したとき、どういう話の流れかは覚えていないけれども、たまたま過労が原因で自殺した電通の社員の話になった。こういった話なると「可哀想だったね」という話になっていく。本当にどう考えているのかは分からないが、そんな社交辞令になってしまうのも悲しい現実だ。

 しかし、そんなありふれた展開にはならなかった。私とほぼ同じ年のある人間が自殺してしまった社員に対して「あれだけ働いて死んじゃうとかゆとりだよね。私なんか、もっと働いているし、あれが当たり前だよ。」と言い始めたのだ。私はその言葉に衝撃を受けた。

 過労死の話は決して他人事ではない。私の友人の中でも過重労働が原因で倒れてしまった人間も居るし、かなり厳しい状況の中で働いている人間たちも知っている。確かにそれが「業界の慣習」というやつなのかもしれないが、そんなことで正当化できるものではない。

 本来は生きていくために労働をしているはずなのに、労働のために命を奪われてしまうという事実がある。こんなおかしいことが余りにも普通に起きてしまっているせいなのか、とうとうそんな言葉が出てくるようになってしまったのかと思うと、とても居たたまれなくなってしまう。また、このようなことを言うぐらい異常な労働環境が当たり前のものとされている現実にも愕然とした。そんな現実の前で私たちの問題として考えなければいけない命の問題が「向こう側」のこととして消費される瞬間に私は立ち会っていた。

 肚の中で様々な感情がぶつかり合っているときに、ふと、ある映画が浮かんだ。それは『ゆきゆきて、神軍』という映画だ。

 『ゆきゆきて、神軍』は一般的に日本の戦争責任を追求した映画とされている。インドネシアで戦った元兵士の奥崎謙三が言葉と身体を用いながら、かつての上官たちに突撃し、戦争責任を追求していく。奥崎の過激な姿勢と過去を追及された上官たちのしどろもどろする姿に衝撃を受けた人も少なくないだろう。 しかし、今、そんな見方からまた別の見方をされることが多い。それは奥崎謙三を狂人の見世物として観るという発想の見方だ。

 確かに奥崎が狂人だったことは否定できない。自分を神であると自称し、様々な奇怪な発言や殺人や暴力事件など犯罪行動を繰り返してきた。奥崎にとって暴力こそが自分の表現であると思っていたのだろう。それは批判されてしかるべきことだ。しかし、その根底には奥崎の戦争体験があったことも忘れてはいけない。奥崎なりの戦争体験が無ければああいうような体当たりは無かったのではないか。

 戦争から70年経った今、戦争を忘れなかった人が戦争責任を追いかけるというテーマから一転して、狂人を追いかけただけのカルトムービーとして消費されるのは一体どんなことが起きているのだろう。『ゆきゆきて、神軍』を監督した原監督は誰もが近寄らないような虎のような吐息をしている人々に密着し続け、その吐息を余すところなく、フィルムに収め続けていた。だが、今ではその吐息の意味が無視されてしまって、いつの間にか吐息をしている奇妙な人間への悪趣味な解釈のみが広がって、動物園で動物を見ている時のような、私には関係のない「向こうの世界」のこととして消費されてしまう。

  人々の吐息に触れるということはドキュメンタリーを語っていく上で常に議論になってきたことだ。原さんの前の世代となると土本典昭小川紳介の両監督が高度経済成長の中で抑圧される戦後日本の姿を「水俣病」と「三里塚闘争」というふたつの出来事から、当事者たちの吐息を写し続け、私が尊敬するもうひとりの監督である佐藤真監督は「日常」をテーマにしながら、人々の吐息をフィルムに残していった。

 だが、そんな吐息について語ろうとするとそれは「政治的な見方」であるという言われ方をされてしまう。人々の吐息に触れるということが政治的なことなのだろうか?吐息に触れるということすら「政治的である」とされ、読解されることなく、ただ置き去りにされてしまっている状況には何か違和感を感じる。むしろ、そんな吐息の置き去りにこそ私はある種の政治性を感じる。それは「私にとって、画面の向こうの世界は関係が無い」という政治性だ。

 今でも奥崎のような戦争の被害者たちは存在している。兵士として連れていかれ、戦争精神障害と戦いながら生きているおじいちゃん。逆に何も語らずに亡くなってしまったおばあちゃん。また孫たちに思い出を語りながら、目の前にある悲惨なことを思い出したくはない人も存在する。そんな様々なカタリツギの問題が複雑に絡み合う中で、ただ、かつてのことが消費物となってしまい、結局、何も変わらないという状況になっているのだとしたらそれは悲劇以外の何物でもない。

 もしかしたら、このような「私には関係がない」という政治性を持つのは余りにも悲惨な現実の前で、そうとしか思えないという逃避の証であるのかもしれない。悲惨すぎる現状に対して、その悲惨さを覆い隠すための行為としてやっているのだとしたら、そんな逃避行動自体も悲惨すぎてしまっている。

  吐息に触れることはとてもエネルギーが必要なことかもしれない。ただでさえ、絶望的な中で自分自身を消費しなければいけない中で、イチイチ異常であることを指摘したり、イチイチ何かに感動したり、イチイチ何かに怒ったりすることはとてもきつい。

 戦争中の絶望というのはこういうものなのではないかと思うことがある。隣にある吐息を感じるということよりも今、目の前にある、見たこともない何かに勝たなければいけないような雰囲気の中で、誰かが亡くなれば、もしかしたら舌打ちひとつ出るかもしれない。

 しかし、そんなロボットのようにならなければいけないような中で、そうではない方向を示してくれるのは外の世界を示してくれる得体の知れない何かであったりする。そんな得体のしれない何かの正体は人々の吐息であるように思う。そんな吐息が私という人間を生かしてくれるかもしれない。

 そんな吐息を感じられるような余裕のある社会でないことも確かだが、私はそんな誰かの吐息に寄り添いたい。自殺してしまった社員に対してそのようなことを言った人間のあの言葉も、今の時代が吐いている吐息として私は触れていきたい。その吐息はこの私にどのような世界を見せてくれるのだろうか?

切実さを世界に解き放つ

 この間、私の女友達に会った。「会おうね。会おうね。」とお互いに言いながら、なかなか会えず、ようやく会えた友人だった。

社会人になるとどうしても時間が確保できずに困ってしまう。

 私の友人の中でもこの女友達はかなり面白い。

ある人の紹介で出会った友人なのだが、いつも私に刺激的な視点を与えてくれる。

実は在日コリアンの歴史についての卒業論文を書いているときに、あるシェアハウスで卒論の中間発表会を開くことになったんだけど、その中間発表会を開くことを私に提案したのは彼女だった。

 久しぶりに友人と会うと、「そんなこともあったねぇ。」「こういうこともやったねぇ。」なんていう話になるけれども、そんなあるある通り、私の卒論の中間発表会の話になった。私は何だか懐かしい気分でその時の話をしたけれども、彼女にはある違和感があったようだ。

それは私がそのような場を用意されて、用意されたまま喋っているのではないか?という違和感だった。

 確かにあの時、私は嬉々として喋っていたと思う。

なかなか語られなかった、私の共同体の歴史である在日コリアンの歴史を話す機会は無いし、そういう場面が与えられるとついついこちらとしても張り切ってしまう。

そんな私の姿に彼女は違和感を持ったということだったのかもしれない。

 「私の共同体を語る」ことはとても難しい作業だ。

特にマイノリティーという立場に立ってしまうと共同体を語るということそのものがひとつの武器として用いられるし、そういった場が増えていくことは確かに必要なことなのだが、そんなことを語るときの私の口の形であるとか、私が経っている場面は一体どんな場面なのかをあまり考えたことが無かった。 

そうやって考えていけばいくほど、私は私の口の形や声の大きさ、そして私自身が経っている点について深く深く考えていかなければいけないと思った。

私がマイノリティーであることを語る空間では一体何が起きているのだろう?

 大学の教室やゼミの議論の場面、もしくは社会的な集まりの場面でマイノリティーであることを言う機会が増えてきた。

昨今のLGBTに関する認知も広まり、またヘイトスピーチに関しての問題も路上で発生しており、そのような社会的な場面で私が何者であるかを言うような場面は増えてくるだろう。

ダイバーシティ」という言葉が最近の社会の中で様々な広がりを見せていく中で、それはとても良いことかもしれない。

今までは私が何者であるかということを言えない人々が圧倒的に多かったし、そのようなマイノリティーへの社会的な差別が言わないことによって見えてこなかったということも事実だ。

しかし、そのような空間が用意されている中では私自身がマイノリティーの代表者として語ってしまう。確かにそのような空間が用意されていることは間違いないことなのだが、私自身がいつの間にか「代表者」としての色を持ってしまい、「エッジ」としての色をどうしても消さなければ対話ができないのではないか?分かってもらえないのではないか?という問題も存在する。

このような話法を用いていると私というあくまでも「点」である存在がいつの間にか「全体」となってしまい、本来、マイノリティーの問題の中で語られなくてはいけないことが語られなくなってしまうのだ。

 翻って、私の共同体である「在日」の歴史や文化を語ることは一体どういう状況だったかということを考えてみよう。

在日コリアンは戦後日本に登場した民族的なマイノリティーだ。1950年代から様々な政治的な状況の中で歴史や文化を語ることに対してはかなり熱心だった。そのお陰で「在日文学」という文学ジャンルの出現や「在日」をテーマにした作品も多い。

そのような「在日」を文学的なジャンルや歴史的な視点、文化的な視点を語る口の中では主に2つの視点で語られる。

 1つは「在日が日本帝国主義の犠牲者である」という語りだ。この語りは主に朝鮮史の研究者や政治活動を行う人々の口から語られてきた。徴用の為に日本にやってきたり、もしくは朝鮮半島南部で貧困にあえいでいた朝鮮人たちが日本に生活のためにやってきて、サンフランシスコ平和条約によって国籍をはく奪され、最終的には日本の差別的な政策によって、何ら支援も受けられないという観方をする。

大島渚が作った傑作テレビドキュメンタリー「忘れられた皇軍」はまさにこの事実を告発した。

私はこの観方そのものは間違ってはいないと思う。実際に大日本帝国というモザイクガラスのような帝国が存在しなければ私は生まれてこなかったし、現に「朝鮮籍」と呼ばれている「国籍」は植民地時代の「朝鮮戸籍」の名残でもあり、このような歴史の残り香は犠牲者としての今の状況を映し出している。

 この語りが行われていたのと同時にもう1つ行われていた語りとは「在日が韓民族もしくは朝鮮民族を象徴する」という語りだ。この語りは当事者、もしくは韓国や北朝鮮の研究者に用いられることが多かった。民族教育を熱心に行い、また民族心を涵養していくことも戦後は求められた。また、在日は韓国や北朝鮮が良く知られる前の段階であった時代においては日韓もしくは日朝の文化交流の最前線でもあった。今ある焼肉は決して韓国や北朝鮮にあるような焼肉とは違うまた別の食べ物になってはいるものの、キムチやその他、食品を伝えたのは間違いなく「在日」が文化的な発信地としてその役割を担っていたことは間違いないだろう。

 また、戦後の在日文学者たちは日本の古い文化の中に「朝鮮的」な文化を発見するということも行っていた。日本の国民作家である司馬遼太郎と在日文学者の第一人者であった金達寿の試みは今でも書店へ行けば読むことができ、この2人の試みによって大きな影響を受けたと語る人々も多い。

 重要な点はこのような2つの語りは決して別々にされた語りではないということだ。この2つは常に共鳴し合い、さらに相互依存の関係でもあった。

かつて日本で行われた北朝鮮への帰還事業を行う際に、北朝鮮国内で行われた宣伝は在日同胞がいかに日本帝国主義の犠牲者であったかということと彼らが民族として誇り高い生き方をしているかということだった。

この語りは当然、正統政府としての地位を争っていた韓国でも同じ語りをしていた。

  この2つの語りはどんな形で生きているのか?

   私がとある芸大の友人と朝鮮大学校まで行った時の話。

歩いて、朝鮮大学校まで行く道すがら、ある在日の人(「同胞」とでも呼べば良いだろうか?)が韓国語で話しをしていた。そのパッチムができていない韓国語を聴いて、私は思わずおかしさを感じた。それは日本席である私が朝鮮籍である彼に対して国籍は違っても、私の方が民族の言葉を語ることができると思ったからだ。

しかも、私は韓国に留学したことがあった。

私は苦笑しながら、「下手だなぁ」と漏らした。

   すると友人はすかさず「何が変なのかは分からないけれど、何で笑うのかも分からない」と言った。

その言葉を聞いてハッとした。

   あくまでも道具でしかないはずの言語が私の中の帰属したいという欲望の中に埋まってしまっていたのだ。

韓国語もしくは朝鮮語を話せることは在日の中でもステータスだ。それは祖国を忘れず民族の言葉を学び続け、歴史についても理解している。かつて深沢夏衣という作家はそんな様子を一級市民、二級市民という形で皮肉って書いたけれど、私もそのような中で生きていて、また二級市民を嗤うような状況に立っていた。

つまり、民族の言葉を喋れない同胞を私は同胞の中でランク付けしていたということになる。言い方を変えれば知らず知らずのうちに純血さを私も求めていたということだ。

このような形でランク付けするのは祖国に居る人々も同じだ。そして、あいつは「パンチョッパリ」であると陰口を言う。

   今でも影響のある2つの語りは確実に社会のランク付けという形で生きていた。それが如何に国家や民族の中に回収され、国家や民族に対して優等生であるのか?という形だった。

   国家や民族はあくまでも「想像の共同体」とされている。近代というシステムの中で構築されたこの共同体は時に力を発揮し、時に共同体の中に居る人々に対して、牙を剥いた。

本来、私たちは私が作るものであるが、いつの間にか私たちが私を作ると錯覚する。

その錯覚によって、さらに私が実際に作られていくからさらに複雑なことになる。

本来は各々の境遇やモノの見方は違うはずなのにメンバーシップを高めるための想像行為がやがて、私を共同体の一員として高めることになる。また共同体の中にあって、いつの間にやらこうあるべきという姿も現れてきてしまう。そのこうあるべきであるという姿を語り、共同体の一員としての私を語るために語ることも少なくはない。

   マイノリティーが何かを語ることはそんな自己の共同体を強化し、私という存在を代表させることになってしまう。そして、そんな存在であることを求める空間もまた存在する。 卒論中間報告会を開いてくれた彼女はここに違和感を感じたのかもしれない。私自身が私自身の共同体によって生み出された何かに飲まれてしまうようなどこか当たり前なのだが不気味な感じ。

無邪気だった私はそんなことにも気づかず、私のエッジを在日の全てとして語っていた。

   私のような語りをしてしまうことによって一体何が起きるのだろう。

   昔、山村政明という男が居た。彼は在日朝鮮人であったが、幼い時に帰化をし、苦学して大学に入った。

彼もアイデンティティの問題で大分、悩んだようだ。今以上に2つの語りが切実さをもって語られ、そうあることが自由であると信じられた時代は彼にとって酷だったのではないかと思う。

彼は大学に入るとすぐに在日問題を探求したいと思い、あるサークルに入ったが入会を断られた。その理由は彼の国籍が問題だったからだ。日本籍であることを理由に、祖国への裏切り者と見做したということだ。

結局、彼は自殺してしまう。貧困の問題や様々な差別が入り組んでいる中で彼は疲れ切ってしまったのだろう。彼の手記はすぐに本になって、様々な人々に影響を与えた。

 そんな彼の死はどのようにして避けられたのか?ということは色々な答えがあるだろう。ただ、切実さを抱えていた彼にそんなことで悩むなよというのは何か酷だと思う。それは私ももうひとりの山村になる可能性のあった人間として、そのようなことは言えない。そのような切実さが現実にある中で、「言うな」ということや「それは思い違いだ」なんていうことをいうことはできない。

ただ、これだけは言えるのではないかと思う。作られた、誰かに見せるためのアイデンティティーなんかよりも自分の切実さをどのようにして世界に解き放つか?ということを考える方が良いのではないかと。

  誰かがマイノリティーの代表として何かを語ろうとするとき、マイノリティーがステレオタイプ化されてしまう。そんなステレオタイプ化されたマイノリティーにとって、ステレオタイプ化されていないマイノリティーはどんな人間なのかさっぱりよく分からない存在だ。ある種においては異端の存在とも思うかもしれない。しかし、それは異端の姿ではなく、むしろ、マイノリティーと言っても多世界的に存在するという実はごく当たり前のことを無視しているだけにしか過ぎないのだ。

 マイノリティーという立場は常に不安定であり、切実さを持っている。私のようなエスニック・マイノリティーだけではなく、セクシャル・マイノリティーや女性、部落の人々や自ら学びの道を選んだのにも関わらず、「不登校」というレッテルを貼られている人々、様々なマイノリティーが何らかの切実さを持っている。そして、世界のどこかでマイノリティーとして生きている人々は全てがそんな不安定さの中で自分が何者なのかを探し、私が人間でないことを実感させられながら生きている。

 そんな中だからこそ、マイノリティー内部の強化ではなく、あらゆるマイノリティーの人々が持っている切実さを寄せ集めて、人が本来、持っている「普遍的な何か」として語っていきたい。それはマイノリティーであるということをチケットに世界と繋がり、共に考え、言葉を交わすということである。

 当然、こんな切実さはマイノリティーだけが持っているものではない。どのような人間でも切実さは持っている。そして、切実さがあればあるほど声を出す人間が少なくなってきてしまう。それは声を出しても何かに繋がらないと思ってしまうのかもしれない。だが、それは何かに別の世界に繋がるものだと思う。

  そんな切実さを私は「希望」と呼ぼう。

 当事者としての語りを自己の共同体を強化するものではなく、むしろ、その語りを「普遍的なもの」として落とし込むこと、それはただでさえ不安定であるマイノリティーという立場にはとても辛いことかもしれないが、そんな不安定であるという切実さから生み出される疑いの目があることはある種の語るための原動力であり、世界と繋がることがチャンスになっていく。

 私の語りの中に共同体を代表したくなる欲望があることは事実だ。しかし、その欲望を客観視することによって、私にとって新しい世界が開け、本当の意味で平等な世界になるのであればそれはとても幸せなことだ。共同体を代表する欲望から違う問題に直面している人々を想像する知性を持つこと、そして、違う問題に直面していく人々と繋がり、対話をして共に歩んでいく力。

今まで言葉がないとされてきたかが故に、私の中の切実さからそんな新しい言葉を手にしたい。

 私の語りは多世界の中にあるただひとつの中の語りにしか過ぎない。

一つの人格の中には様々な面が存在する。

不安定で波のような私、それも日本国籍取得者、韓民族、クリスチャン、男性、様々な私が安定を持っていたり、不安定さを抱えたり、様々な中で生きている。

マイノリティーである面はほんの一部でしかない。そうであるが故にそんな面に目を向けなくなることもある。

でも、私の負の面としている面は世界に繋がる可能性を有している。

   マイノリティーとマジョリティーは固定化されたものではない。複雑で多色な私は時に誰かを抑圧したり、抑圧されたりするかもしれない。入れ替わり立ち替わりしていく状況を時に面倒臭いとしてしまうのもまた私を固定化することになるだろう。固定化されない多色な世界に敢えて生きるということだ。

だからこそ、世界という大きな海の中で、言葉という波を発生させることによって、どこからか反響するのを待っている。そんな波が様々、反響し合えば、やがては大きな波になっていく。そんな波が新しい世界を作ってきた。

 思えば、私が好きでたまらない人たちはそんな人たちだ。切実さを切符にして様々な言葉を紡いできた。そんな人たちの言葉で私は生きている。

小さな波かもしれないがこうやって私のエッジから観ている風景を少しずつ少しずつ書いていきたいと思う。そして、これを読んでいる切実さを持った人たちと私は繋がり、共に考えたい。

 言葉だけは時空を超える。そんな時空を超える言葉にこそ私の希望を詰めていきたいのだ。

 

色の無い世界への入り口

   先週の土曜日に岡崎乾二郎さんの個展に行ってきた。

   1年ぶりに行く場所だったから、「どこだっけ? 」なんて思いながら、スマホさんを頼りにあっちでもない、こっちでもないと色んな道を頼りに会場に向かった。

  会場に向かう途中、やたら警官が多いことに気づく。どうやら会場近くの韓国大使館で行事をやっていたようだけどあれだけ物々しい麻布を見たのは初めてだった。 

   とうとう会場に着いて、スマホで写真をとって、会場に入った。会場に入る前、私はとても幸せな気持ちだった。

   私は岡崎さんの作品が大好きだ。

色々な色の世界が自由に踊っていて、なんだか嫌な外の世界を忘れられるような感覚になる。私の周りの世界が単色になっていく中で、岡崎さんの作品の中だけは私に自由の喜びを教えてくれた。

   会場に入った時、何か違和感を感じた。

いつもの岡崎さんじゃない。

なんかどこかどんよりとした霧というか、靄がかかったように思えた。

そして、色も単色で、以前のような様々な色が踊っているような様子もない。

踊っているのかもしれないけれど踊り方がなんだか不気味だった。

「何か違うぞ」と思ったのはそれだけではない。

 人物画があった。それも単色で一筆書きをしたような人物画。

3組9枚の人物画が飾られていたけれど、3組とも何の変哲も無いような線がだんだんと男性の顔に変わっていく絵で、どの男性も何かを睨みつけている絵だった。

    もうちょっと私の主観の見方で言うならば、中学生の頃、日本史の資料集で見たような軍人の顔にそっくりでびっくりした。

以前の岡崎さんの絵とは違う何かを私は感じながら、会場を立ち去った。

   会場で私が感じたことは戦争のことだった。

学生時代、読んでいた戦争中の体験記の中で印象的だったことがある。

それは1945年8月15日、天皇玉音放送が流された時、その時の空は凄まじいほど蒼く鮮明な色だったということだ。

  どうやら戦争というものは人から色を奪うらしい。様々な戦争画があるが、確かに戦争画はなんだかモノトーンな感じと暗さと凄惨さだけを感じる。

   うつ病になったことのある人から聞いたことがあるのだからうつ病になってしまうと段々と世界が白黒になってしまう。それが辛くてたまらないそうだ。

   戦争は様々な人をそんな状態にするということなのだろう。

   最近、世界が様々な色で出来ているのではなく、白か黒かというようなことを言う人が増えてしまった。

その枠にはまらない元来から様々な色を持っている人を否定し、とりあえずモノトーンな世界になんでも押し込めようとする。

こんな話、祖母から聞いたことがあるなぁ…という薄ら寒さを感じながらそんな世界で生きている。

   モノトーンな世界を押し込めようとしている人たちは大体が同じ顔をしている。

それは常に誰かを監視しているような目と常に誰かに監視されているのではないかという不安な目。そんな目で睨みつけられたり、もしくはこちらに何かを願うような目で見られたりするとこちらまでそんな目になってしまいそうだ。

   むかし、むかし、祖母がしていた真夜中でなければ自分たちの言葉が喋れなかった植民地の話、母がしていた韓国の大統領が軍人でなければいけなかった時代の話、そんな負の歴史が私の頭の中に蘇ってくる。

岡崎さんが描いたなんだか奇妙な人物画は将来、そんな顔になってはいけないことを私に教えてくれたのかもしれない。

   帰路につくため、地下鉄に揺られていた時、妹からLINEが来た。

妹からは「トランプが大統領になっちゃったよ。どうしよう。」との内容だった。

妹には2人の子供が居る。私にとってとても大事な姪と甥だ。

普段、国内の政治ですら全く興味の無い妹からのそんな言葉が出て来るとは思わなかった。

妹は妹で多色な世界を許さない政治家に脅威を抱き、お腹を痛めた我が子をどう守るか?ということを考え、私も多色な世界を許さない今の世の中に不満を持ち、なんとかして、私の姪や甥には多色な世界を見せようと様々な試みをした。

それぞれのエッジは違えど、気持ちが通じた瞬間だった。

   私が学生時代についていた映画監督が良くこんな話をしていた。

「良い?作品というのは自分の意味づけでしかないのよ。どれだけ自分で意味付けしていくのかが大事なの。」

   ここに書いたことは私の単なる意味づけでしかない。だが、私のエッジからはそんな風景が見えてしまった。

   多色な世界を許さない時代が近づいていないことを私は祈りたい。

何せこれは私の意味づけなのだから。