「統一された祖国」よりも

 韓国を旅して回っていたころ、貧乏留学生だった私はいつもチムジルバンに泊まっていた。

 チムジルバンとは24時間営業のサウナだ。

その昔、詩人の田村隆一さんが「平日昼間の銭湯の幸せを味わったらカタギに戻れない。」と書いていたが、チムジルバンもまったく一緒。平日昼間のチムジルバンの幸せを味わったら、普通の社会生活はできなくなる。

 韓国伝統式のサウナに30分ぐらい入って汗を流す。そのあと、シャワーを浴びて、水風呂に入る。これが気持ちいい。
「身体が冷めてきた。」と思ったら、ちょうどいい温度の温かい風呂に入って、体を温める。

 風呂上がりに待っているのは冷たいシッケだ。
キンキンに冷えてちょっとシャーベット状になっている昔ながらの優しい韓国の甘さを熱くなった身体に染み込ませるのは格別だ。

 これを味わったらきっと「カタギに戻れない。」

 あのチムジルバン体験から4年が経った。私が「大統領」と呼んでいた「お嬢様」はさまざまな人が戦って手に入れた憲政によって弾劾され、監獄行きになり、留学先の選挙区から選出されていた地元の弁護士出身の国会議員が大統領になった。こんな出来事に喜びを感じていたのもつかの間、次は3回も金正恩氏と会った。

 わずかな期間の目まぐるしい動きに戸惑いながら、さまざまな人から「今回の南北首脳会談についてどう思う?」と訊ねられる。

 こうしたとき、訊ねた相手が望んでいるのは「在日として南北関係が平和になって、統一の第一歩となるのは嬉しいです!」という熱い答えか、「文在寅は北が好きで、今の韓国は親北だ。」という冷たい答えのどちらかだ。

 どうやらこのパターンはほかの人たちもそうらしく、3回行われた南北首脳会談を赤ん坊が初めて歩き始めたときのように目を細めて喜ぶ「当事者たち」の熱気のこもった声が紹介されている一方で、今回の動きを「南が北にすり寄っている。」と冷たい視線を送る人たちもいる。

 南北朝鮮をめぐる言説はいつもこんな「熱い声」か「冷たい視線」によって分断される。どちらの意見でもない私はこんな言説を目の前にして、いつも「うーん。」とうなってしまう。
 ちょっと遠い親戚まで集めてみると、朝鮮籍韓国籍と日本籍を持つ人たちが顔を合わせる。このなかには済州島で統一を夢見ながら、「大統領閣下」を名乗る最後の李氏朝鮮の国王が率いる軍隊に殺された人もいるし、その影響からか、国家保安法という対共産主義者の法律があるゆえに、日本籍を持つ私のように韓国のチムジルバンでシッケを楽しめない人もいる。
 別の親戚に顔を向けてみると、かつてクリスチャンであるからという理由で「首領様」と呼ばれているソ連からやってきた革命青年の軍隊に追われ、大切な義兄を殺された人もいる。私はその影響で平壌に行くことはできない。クリスチャンである私も彼と同じようになってしまうかもしれないから。

 だから、集まったとしてもそれぞれが「本音」を話すことなんてできない。

 文在寅大統領が平壌で「私たち民族は優秀です。私たち民族は強靭です。」と語る声を聴いた。

 「民族」だの「国家」だのに振り回されている親戚たちを見ていると、この言葉がとても空虚に聴こえる。見えない38度線に生きている私は「70年間、南北に分断された民族が待ち望んだ統一された祖国」ではなくて、「さまざまな属性を超えて、切実な声をもった人たちの緩やかで誰も排除しないつながり」を望んでいるからだ。

 「統一」という言葉は「民族」や「国家」の名のもとに血を流した人たちの記憶を忘却するものではなく、そんなつながりを作る第一歩として、南北双方が自己の問題に向き合うための「合言葉」となってほしい。

 チムジルバンで冷たい水風呂に入ったあと、温かいお風呂に入る瞬間が一番、気持ちい。もし、チムジルバンに熱いサウナと冷たい水風呂しかなかったら体調を崩すだろう。
シッケもあの温かい風呂があるからこそ美味しい。

 今、私の目の前に広がる南北関係をめぐる言葉はサウナのように熱いものか水風呂のように冷たいものだ。しかも、率先して、そのどちらかを「代表」しなければいけない。

 こんなとき、私はあの温かいお風呂を懐かしく想う。

サウナで汗をかいた身体をさっぱりさせるためにも、冷たい水風呂で凍えた身体を温めるためにも必要だし、あのちょうどいい温度の温かいお風呂のような感じだからこそ言えることがあると思う。

 それにそのあとのシッケの味も美味しくなるんじゃないかなぁ。