ロックンロールは生きている

  私は高校生の頃から忌野清志郎が好きだった。最初に清志郎を知ったのはタイマーズの曲がきっかけだった。今まで聴いていた曲に何か物足りなさを感じていた私は過激なスタイルで暴れまわる清志郎に魅了された。そんな私が次に好きになった曲は『君が代』だった。ミニアルバム『冬の十字架』に収録されているこの曲は君が代をカバーしながら、よーく聴いてみるとアメリカの国歌が流れていたりする名曲で、アルバムが出される際にはかなり問題になったらしい。私の知っているロックとはこんなことを平気でやってしまう音楽のことだ。

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 こないだ、話題になっているRADWIMPSの『HINOMARU』の歌詞を読んだ。歌詞はここでは書かないがかなり軍歌っぽい。どうやらボーカルの野田洋次郎氏に言われれば軍歌だと思って作ったわけではないらしいが、なんだか妙な違和感を感じるとともにこういうのは自分が聴いてきたロックではないと思った。
 私の身の回りだけなのか知らないが在日のおっさんの口癖で「民族のために、祖国のために」なんていう言葉をよく聞く。自分自身を元気づけるためなのか何なのか分からないが、私はこの言葉を聞きながら「何が民族とか祖国だよ。言葉も喋れないじゃんか。」なんていうことを思う。愛国心ではないけれども、それに近い感情をマイノリティー側も持っている人たちは少なくない。
 「民族」や「国家」という言葉はとても不思議だ。唱えれば唱えるほどなんだか自分がその一員のように感じてきていつの間にか強くなったような気になってしまう。しかし、民族や国家なんて所詮、近代の作り物でしかないし、その作り物に求愛することによって、自分自身の立ち位置を確認しているだけにしか過ぎない。

 そんな求愛の先にあるものは「死」だ。「民族」や「国家」を愛していると自ら表明する人ほど先に罪のない人間を殺していくし、最終的には自身も死に向かっていく。
 私の親族には「民族」や「国家」の間で死んでいった人間たちが数多く居た。ある親族は日本軍に家族を皆殺しにされ孤児として生き、ある親族は統一を望んだばかりに韓国軍に殺され、ある親族はクリスチャンであったばかりに朝鮮人民軍に殺された。殺した側はきっと「善良な人間」であったと思う。本気で民族や国家を考えた先に私の親族の生命を奪っていったのだ。殺した側は今頃何をしているだろうか。もしかしたら、国家の英雄として処遇されているかもしれないし、どこかで生命を落としたかもしれない。

 殺された側はこうしたことをいつまでも記憶している。ただ、声に出せないだけで、私と同じ立場の人々が「民族」や「国家」という言葉を使うと「もしかしたら次は私の番ではないか。」と思って、顔がこわばる。
 清志郎タイマーズを結成したり、『君が代』をリリースした理由は彼の母親が戦争で前夫を亡くしていることを知ったからだという。きっと前の大戦のときも「民族のために、国家のために」と大真面目に言っていた人間から人を殺し、死んでいったのだろう。偉大なロックンローラーである彼もまた私と同じで声に出せない何かを背負っていたのかもしれない。
 私は人を死に向かわせる言葉よりも人を生かす言葉の方が好きだ。清志郎の歌には人を生かす力があると思う。きっと「ロックンロール」とは人を生かす言葉を指すのだろう。
 RADWIMPSのボーカルは「自分の生まれた国を好きで何が悪い!」とライブ中に言ったそうだ。彼もまた「善良で無垢な人間」なのかもしれない。だが、善良で無垢な愛国心はどこへ向かうのか。私たちが今、立ち止まって考えなくてはいけないところはそんなことだと思う。