私はともに生きていきたい

 実はしばらくSNSから離れていた。悪いニュースしか流れてこないし、頭の中が爆発しそうになったから精神的な休養が欲しくなったのだ。言葉が濁流のように流れているSNSの世界から離れ、好きな本を読んだり、音楽を聴いたりしながら小川のせせらぎのような言葉の世界を楽しんでいた。
 だが、SNSはどうしても私を離してくれない。何かの連絡をするときにはSNSを使ってしまう。ついでに何かを書いてしまう。そこでたまたまある記事が目に飛び込んできた。それは琉球新報の塚崎昇平記者の記事だった。琉球新報では毎週日曜日に記者のコラムを発表しているらしく、そこには塚崎記者自身がかつて「ネトウヨ」だったこと、そして、辺野古や高江の現場を訪ね、そこから戦後史を学び、琉球新報の記者になったことが書いてあった。
 「いじめをカミングアウトする。」

これを読んでどのように感じるだろうか。普通、「いじめをカミングアウトする。」と言われると「いじめられたことをカミングアウトする。」と感じるかもしれない。事実、自分がいじめられたことを告白する有名人は多い。だけれども、自分が誰かをいじめた経験をカミングアウトすることはあるだろうか。私が知らないだけかもしれないがそういった話は余り聞かない。

その昔、サッカーの前園真聖選手が「いじめ、カッコ悪い。」というCMに出ていた。いじめることはカッコ悪いし、そのカッコ悪さはいじめる側もどこかで分かっているのだと思う。だからこそ、誰かをいじめた経験を話さない。

 この記事が出てから色々な反応があったようだ。その告白に感動するコメントもあったし、対話の意味を見出す人も居た。その一方、こうした告白を許せないと素直に言葉にする人たちも居た。どちらの気持ちもよく分かる。私みたいに何らかの形で実名が出ている在日の当事者たちはびっくりするぐらいのヘイト発言に襲われる。かつて、私がBuzzfeedで取材を受けた記事がYahoo!ニュースに出たとき、6000件ぐらいのコメントがあって、そのほとんどがヘイトコメントだった。

 彼に対して「許せない」と言うのも当たり前の話だ。でも、そうした人たちと生きていかなければいけない現実もある。差別されている側のジレンマとでも言えば良いだろうか。そんなとき、私はある映画を思い出した。

 私はクストリッツァの『アンダーグラウンド』という映画が好きだ。ユーゴスラビアの歴史を描いた映画で、最後、主人公のクロは友人で自分を裏切ったマルコに「許そう。でも、忘れない。」と言う。

 彼のことを許せない人たちが多いかもしれない。でも、私は彼と一緒に生きていきたいと思った。差別する側であったとしても、こうやってともに生きていくことができる。もし、彼に求めるとすれば、今後このようなことが起きないようにともに協力してほしいと願うことだろうか。未来を作る責任を私はともに分かち合っていきたい。
 あの記事を読みながらあらゆる人たちの顔が浮かんだ。そのどれもが本当の表情だと思う。良いかどうかは私には言えない。だけれども、私は「ネトウヨだった」と自認する人と未来を作っていきたい。

 実名で書くことは怖かったと思う。こうした記事が叩かれることは当たり前だし、そうしたことを覚悟して書くことは容易ではない。私にだって経験がある。

だから、この記事を匿名で書きたくない。

ちゃんと名前をお互いに出して、お互いに語っていくことが大切だ。そうした出会いがまた何かを変えると思う。

私の名前は金村詩恩です。