こんな時に求められること

 民団の呉公太団長が新年会の挨拶の中で慰安婦問題について言及した。2015年の合意を評価し、慰安婦問題を政治的に利用してはいけないということ、少女像については「撤去すべきというのがというのが在日同胞の切実な思いだ」と述べたそうだ。団長としてこのようなことを言わなければいけないということだったのだろう。こういった意見があることも尊重をしなくてはいけない。私自身、どちらかといえば、この団長の意見に近い。2015年の合意については評価しないが、この合意を結んでしまった以上は両国政府は誠実に果たす義務がある。このような合意を結んでしまった当時の韓国政府にも問題があるというのが私の意見だ。しかし、団長の言葉にはまた別の意味で違和感を持った。

 私みたいな「在日」という立場は日韓関係で何かあると口が疲れてしまう。慰安婦問題のような日韓関係の問題があった時には韓国側のことを説明する立場に立たされるからだ。こういった時のみならず、韓国の情勢について何か聴かれることがあったり、「在日」全体の代表者として何かを言わなくてはいけないような立場に立たされる。

 例えば、最近のことになると朴槿恵大統領の弾劾デモに関して色々と話をした。本当にこの話をするのは大変だ。なにせ韓国の政治史から話さなくてはいけないのだから。私はこの話を決して、韓国の話としてしているつもりはない。むしろ、立憲主義や民主主義など普遍的な話として話をしようとしている。

 こういう話をしていると大体、私が韓国側として観られてしまうことが多い。確かに私はこの議論の場で「かつて韓国に留学をしていた日本人/在日/韓国人」という代表性を持って喋っている。代表性を持たされる時はとても心地が良くなる。それはその議論の場でマイノリティーである私が認められたということでもある。しかし、良く考えてみれば、この構図そのものがかなりおかしい。私の意見をマイノリティーの立場を代表する人間として振る舞うことによって、マイノリティーの様々な立場や存在や声を消してしまうからだ。

 例えば「在日」として韓国語が上手くなくてはいけないであるとか、日本人に帰化してはいけない、もしくは民族学校に通わなくてはいけないなど様々なその人の在り方を規定してしまう。このような中でかつて自分自身の在り方に悩み、自ら命を絶った私と同じ年の青年も居た。このような共同体による個人の規定は決して、対岸のことではない。私がかつて釜山に留学をしていた時、日本人留学生たちは自分自身を「日本人の代表」といった意識を持っていた。私が酒の席でしくじりを起こすとすぐに「日本人の代表なんだからしっかりしなきゃだめだよ」なんていうことを言ってきた。どこにでも存在する共同体の罠なのだ。

   この罠はそれだけではなく、社会全体の問題として共有しなければいけない問題をマイノリティーだけの問題としてしまう。私が韓国のデモについての話をしていて、対岸のこととしてしか受け取られていなかった。また在日を語るときも同じような反応になってしまう。代表性を持つことでマイノリティーを可視化しただけでは何も変わらない。

 代表性を持つこと/持たされることは共同体の引力の中に私自身を引き込ませる作業である。その作業からどのようにして私自身を話していくのかが最も重要なことなのかもしれない。

 私がまだ大学生だったとき、こんなことがあった。私と同じゼミ居た在日の子と合宿で話をした時だ。ふと彼女は私に「お前が在日の代表として話をするのがなんか気に入らなかった」ということを言ってきたことがあった。その時のことを余り憶えていないがそういうことがあったのだろう。

 よくよく考えてみればそうだ。私自身は決して代表性を持てる立場ではない。あらゆる面が私には存在する。在日である私、日本国籍取得者としての私、男としての私、ヘテロセクシャルである私、身体障害を持っていない立場としての私、様々な私が存在して、1つに統一されるわけではない。全てが私なのだ。

 代表性を持つことによって、そんな私の中に存在する多数の私を認めないだけではなくて、マイノリティーが抱えさせられている問題を対岸の問題として認識させられるようになってしまい、私以外のその他のマイノリティーの声や存在も認めなくなってしまう。共同体の引力や共同体の居やすさはそんな怖さを持っている。

 共同体の求心力や居心地に自分自身の身を委ねることではなく、共同体の求心力や居心地を冷静に見つめながら、自分自身の立っている立ち位置を常に建設的に疑っていくことこそとても重要なことではないか?そのような構造の中で話さなくてはいけない限り、呉団長のようになってしまうのはある意味当然だと思う。しかし、私はそんな構造を疑いながら、別のやり方で言葉を紡いでいきたい。