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成宮さんへの報道について

 会社で仕事をしていたら、俳優の成宮寛貴さんが引退したというニュースが目に飛び込んできた。どうやら週刊誌で報道されていたコカインの吸引疑惑が彼の引退を決意させる原因だったらしい。最近、芸能人のクスリにまつわる話が多い。チャゲ&飛鳥ASKAが再び逮捕されたり、女優の高樹沙耶大麻で逮捕されたり。そんな薬物犯罪が巷で話題になっている中で成宮さんのコカイン吸引疑惑が週刊誌で報道された。

 成宮さんは芸能界引退を発表する文章の中で成宮さん自身のセクシャリティーが週刊誌に報道されたことを引退の要因として挙げていた。彼には以前からセクシャル・マイノリティーである噂はネット上で読んだことがあった。

「そんな個人的な情報どうでも良いだろ」と思いながら、そんなページをついつい読んでしまう私が居る。

 誰かによって、自己の性的指向が暴露されることを「アウティング」と呼ぶそうだ。最近、一橋大学の大学院に通っていた院生が周りの仲間にアウティングされ、それが原因で自ら命を絶ったことは記憶に新しい。

そのような悲劇があったにも関わらず、今回も「アウティング」による悲劇が起きることになった。

性的指向が「アウティング」されてしまう立場の気持ちが完全に分かるというわけではない。ただ、暴露される恐怖は私のような民族的なマイノリティーでも共有している問題だ。

 私は高校時代に自分が「在日」であることが暴露されてしまったら、大変なことになるんじゃないかという想いの中で生活していた。たまたま隣に朝鮮学校があり、私が通っていた高校の古株の先生は朝鮮学校に対して良く思っていなかったようだったことや私の伯父が韓国籍であることが分かった途端に高校を辞めることになった話を聴いたことがあったからだった。

 そんな話を聴いて育つと、どうしても「私が私である」と言うよりも「いつ私の正体がバレてしまうのか?」「正体がバレたら社会から排除されてしまうのではないか?」「私の正体をバラさないように生きていこう」という感覚になる。

 民族的なマイノリティーはまだ暴露されたとしてもマシかもしれない。それは家族という身近な逃げ場所も存在するからだ。しかし、セクシャル・マイノリティーの立場はまず家族に自分自身が何者かとカミングアウトするところから始まっていく。

 私のような立場よりも孤独さというのはより強く感じているかもしれない。

 そんな孤独さを嘲笑うかのようにマスコミが平気で「アウティング」をしてしまうのには愕然とする。それと同時に小学校の教室と何ら変わらない今の社会が持つ欲望の渦の中に私も巻き込まれるのではないかという恐怖が襲う。

 マイノリティーの当事者たちは常に消費されている立場に置かれる。その立場を建設的に疑いつつ、外の世界とコミュニケーションを取っていく人々が居ることも事実だが、全ての人がそのような高等技術を持っているとは限らないし、「私が何者かであるとは言わない」選択肢を選ぶ人も居る。私自身は「私は私だ」と言う立場の人間だが、そんな自分自身を語らない当事者の気持ちも尊重したい。それは人の生き方を決められる権利は誰にも無いし、人の在り方を強制する権利も誰にも無い。それを決めるのはその人自身だと考えているからだ。

 近代市民社会には「疑わしきは罰せず」という原則がある。本来は国家の警察権によって容疑者とされた市民に対して人権を不当に奪わないようにする原則だ。ASKAの件から考えても、そんな原則を無視し、集団の欲望のままに人を消費する社会の中では無意味なことかもしれないが、私はあえてこの原則に従いたい。仮に彼が罪を犯していたとしてもそれは彼の罪であり、彼の属性による罪では無い。法は属性を超えて、罪を犯した全ての人に適用されるべきだ。だからこそ、集団の欲望によって、見世物にしてはいけない。まして、それが彼が隠したいと願っている属性であれば尚更だ。

 この私にも誰かを消費したい気持ちがある。そんな気持ちを抑えながら、私はその人の在り方を尊重していきたい。それは彼を守るだけではなくて、消費される立場が誰になるのかは分からないという恐怖にはうんざりしているからだ。

 生きやすい社会を作るのはそんなところから始まるのかもしれない。