「何かのため」に生きなきゃいけない時代に

 季節の変わり目はとりあえずヘコみやすくなる。こんな性格は高校の時からそうだったからお付き合いしなくちゃいけないなぁと思いながら、日々、生活しているけどなかなか治るものじゃない。まぁ、大学に居た頃よりかはまだマシか。

大学に居た頃はサッカーの勝ち負けでヘコみ、自分の中のどーしようもない感情でヘコみ、自分の言葉の至らなさでヘコみ、伝わってないなぁと思ってさらにヘコんでいた。

大学を卒業してからだとヘコむことが減るかなぁと思ったけどむしろ増えつつある(笑)

こんなもんなのかなぁと思いながら、今日もヘコんでいたらヘコむ内容が自分だけのことじゃなくて、同級生が病気になったり、同じ年齢に近い人が死んじゃうことみたいな他者のことであることに気づく。

いや、ヘコんでいるというか、これは恐怖に近いのかな?

 24歳で電通に勤めていた女性が自殺したことを知った時のヘコみはこんなヘコみだった。

どうやら去年のクリスマスに自殺したとのことだったから、私が卒論とか就活していないからどうしようとかそんなことを考えている時に別のところではこんな悲しいことがあったのかと思うと他人事なんて思えない。

でも、報道は段々と過労死で亡くなった悲劇の女性から電通叩きになっていった。

鬼十則」と呼ばれる誰が決めたのだか分からないような原則の奇妙さやいつまでも社屋の電灯が消えないこと、労働基準局が電通にまで捜査をしに行ったこと。

なんか妙な違和感だけが私の中に残る。

ふと、大学生だった5年前を思い出してみた。

 私が大学生だった頃と大袈裟に言ってみたけど、5年前からやたら「意識の高い学生」がもてはやされた頃だった。

社会人と対等に付き合い、世のため、人のために行動していく学生はなんだか世の大人にウケたのだろう。

そんな学生たちを見ていて、私みたいな人間は「クソッタレ」としか思わなかった。

はっきり言えば嫉妬というやつだ。

臆病な自分に対して、正々堂々と世のため、人のために働いている彼らになんだか抜かされたような気がした。

でも、世の中はとても残酷なもので、そんな「意識の高い学生」たちを叩き始めた。

不思議なことに彼らが叩かれ始めた瞬間になんか変な違和感を私は感じた。

「いや、お前らに叩く資格はないだろ」と言った感じで。

「意識の高い学生」も最初から意識が高かったわけじゃない。

今の就活のシステムの中でどうしても必要とされたから意識が高くなったのだと思う。

自己実現」だとか「社会貢献」だとかそんな言葉ばかりが先走ってしまって、なんだか分かんなくなったのかもしれない。

そんな姿を見ている大人たちは「ゆとり」という自分たちが生み出したはずの制度のせいにして、そんな意識の高い学生たちに同じ格好をさせ、同じ就活の教本を買わせ、同じことを面接で話させ、ちょっとしたことがあれば「ゆとりだから」と言って、飲み屋の肴にするだけだった。

誰かのためでなければいけないという強迫観念を植え付けて、いらなくなったら若者で遊び始める世界に生きているんだなと思うと就活なんて私にはできないと思った。

 どうやら自殺してしまった24歳の女の子は弱者には辛いツイートをしていたようだ。

そのツイートが良いかどうかは別として、少し頷ける自分が居る。

ひたすら「何かのため」に頑張っているのに、「何かのため」にならないものが存在するのは腹が立つ。

「なんで私だけ?」

「なんでこいつらは楽をしているの?」

人に聖人君子なんてそうそう居ないものだから、そんなことを思いながら生活していたのは事実かもしれない。

  こんな「何かのため」にということから私は相模原の殺傷事件を思い出した。

この事件も「何かのため」にならないと目した人々をターゲットにした事件だった。

24歳の女の子が自殺した話と相模原の殺傷事件から見えていく「何かのためになる人間」と「何かのためにならない人間」という線引き。

私たちは恐ろしい峻別をしている。

本来、人はそこに居るだけで尊いものなのに、そんな尊さを忘れてしまって、いつの間にやら「何かのためになるかならないか」という軸で人の価値を判断していたのだ。

そんな判断は日常生活の中にも存在する。

 この国では人身事故が頻繁に起きている。人身事故は大ごとなのに電車の中では舌打ちをする人、ため息をする人、会社に電話して、出社が遅れることを謝る人…この中には誰も人身事故で死んでしまった人を悼むことを考えない。

ただひたすら「自分のため」にならない人物の死には興味がないということを言いたいかのように電車の中では様々な動きをしている。

一体、こんな世の中で「命とはなんだろう?」と考えさせられる瞬間だ。

「何かのため」に生きなきゃいけない時代に、行われているのは「何かのためになるかならないか」という命の選別だった。

24歳の女の子がクリスマスに自ら身を投げたこともひたすら「何かのため」になろうと頑張り、相模原で凄惨な事件を起こした彼は「何かのため」にならないと目した人々を次々と刺した。「何かのため」とする世の中はとうとう人の命を侵すようになった。

 こんな時だからこそ、「何かのため」じゃなくて、「これでいいのだ」と私は言いたい。

別に理由なんてなくても良いし、なんだって構わない。

ただ、そこに存在する尊さを分かち合えるようになりたい。

相手に何かを求めてしまうけれど、そんな求めることよりもただ、そこに居る大切さだけを私は感じたい。

「これでいいのだ」にはそんな魔法があると思う。

そして、そんな魔法の言葉を言うことこそが自殺してしまった電通の社員だった彼女や相模原の事件で亡くなってしまった彼らへの何よりの追悼だと信じているから。

あの凄惨な事件を生き抜いた人たちを癒す言葉だと信じているから。

言葉ならばきっとどこにでも届くよね?