柳に今を尋ねる

   私は映画『阿賀に生きる』をきっかけにして出会った方のお誘いで新潟に行くことになった。新潟とは縁遠く、余りイメージするものもない。だけれども、ふと、大学の授業の記憶を思い出した。それは北朝鮮への帰還事業は新潟港で行われたことだった。

   私は新潟に向かう前に帰還事業に所縁のある場所を探し出し、自分の脚で向かうことにした。

   池袋から深夜バスで4時間半近くかけ、新潟に着いた時、朝焼けが麗しい頃だった。

私がネットで見つけ出したのは「祖国往来記念館」という建物と「ボトナム通り」という通りとその由来を知らせる看板と帰還事業の記念碑だった。

   私はバスから出て、その建物と看板と記念碑に向かって、歩き出した。

   歩いていると新潟市の歴史を伝える看板や記念碑が数多くあることに気付く。歴史が好きな私は看板や記念碑をスマートフォンのカメラで撮影しながら、歩いて行く。

   「ボトナム通り」に着いた。街路樹として柳の木が植えてある。私が目的としている建物と看板と記念碑はまだ歩かなければいけないらしいので、そちらに向かって歩き続ける。

   「ボトナム通り」の「ボトナム」とは韓国語(「朝鮮語」と言わないのは多分、教育なのかもしれない)で「柳」を意味する。日朝親善事業の一環でどうやら柳の木が北朝鮮から贈られたらしい。それに感激した当時の新潟県知事が港に至る通りに街路樹として植え、その通りを「ボトナム通り」と名付けたようだ。

   しばらく歩いていると「祖国往来記念館」とハングルで書かれた建物に着いた。朝早くだったということもあるのだろうか、シャッターが閉まっていた。その隣にある総連のものと思しき建物はガランとしていて何もない。

   シャッターが閉まっていたのはもしかしたら、朝早かったのではなくて、そこに何故、総連の建物があるか黙して語らないようにしているだけかもしれない。

   そこからまた少し歩く。そうすると「ボトナム通り」の由来を知らせる看板と帰還事業の記念碑がポツンと立っていた。2000年に作られた看板の文字は掠れてしまって、読むことはもう難しい。港町特有の潮風のせいだろうか?

   この看板と出会った時、かつて、この街で起きた一大事業と現在が出会ったように思った。

   私の父方の祖父と祖父の一家北朝鮮への帰還を考えていた。祖父とその一家は当時、困窮しており、北朝鮮が地上の楽園であるという流行の言説を信じていた。

  実は父方の祖父以外に、北朝鮮への帰還を考えていた人間が他にも居た。それは祖父の弟とその一家だった。

   父方の祖父は3人兄弟で、その真ん中。兄と弟が居て、兄弟たちと済州島から日本にやって来た。

   この3人兄弟の中で日本で比較的成功したのは一番上の祖父の兄だったらしい。勢いのある性格と豪胆さで商売に成功したが、祖父は勢いはあったものの、様々な問題から生活に困窮した。

   この2人と祖父の弟は全く性格が違ったようだ。

温和で、堅実で、真面目。

   3人の兄弟の中で、一番、真人間だと周りに言われたらしい。

   祖父の弟が北朝鮮に行きたいと思ったのは北朝鮮が発展しているということではなく、差別の多い日本よりも温和な生活ができると言われていたからだった。それだけに憧れも強く、先に祖父の弟とその一家北朝鮮へ帰還した。その次に祖父とその一家が帰還する予定だったが、当時、北送反対を主張していた民団の説得によって、結局、日本に残ることになった。

   北朝鮮に帰還した祖父の弟とその一家がどうなったのかは分からない。ただ、私が知っているのは族譜にある祖父の弟とその一家の名前と生年月日、そして、元山に住んでいるという記述だけだ。

   祖父の弟が願った温和な生活は、ニュースを見ている限り、出来たとは思えない。

    帰還事業は自らの意思で行なったとされている。確かにそれは事実かもしれない。だけれども、帰還事業の風を作った人たちにどんな意図があったことは語られない。

   昔、『キューポラのある街』という「名作」映画を観たことがある。北朝鮮への帰還事業をテーマにしているので、今では放送されることすらないらしい。私にとっては背筋が凍る作品だ。「善意」という名の下に、時代の流れを作り、結果は悲惨なものになった。あの作品を放送しないこともまたその怖さに拍車を掛けている。まるで、あの時代の出来事に蓋をしてしまったかのようだ。

   帰還事業について、日本政府や北朝鮮政府、あの時代、帰還事業を熱心に進めた人たちから何かを語った話を聴いたことがない。多分、これからも何かを語ることもないだろう。

「自由意志」という名で帰還させたのだから。

    2003年の日朝首脳会談で同じく新潟県を舞台とした北朝鮮による日本人の拉致問題が発覚してから帰還事業は薄いものに変化してしまった。そして、2010年代になってから、ヘイトスピーチの問題が顕在化して、より帰還事業の歴史は彼方へと行ってしまった。

   もしかしたら、あの看板の掠れた文字は潮風によって掠れたのではなくて、時代の風によって掠れたのかもしれない。

  私たちは常に柳のように枝葉を風に委ねたり、暴風の吹く中で風に逆らったりして、生きている。きっとあの時代、北朝鮮への帰還を考えた祖父や祖父の弟は柳のように生きていたのだろう。私もまたヘイトスピーチの問題が取り沙汰される中で、私の枝葉を風に委ねたり、風に逆らったりして生きている。風は誰によって作られたのかを考えながら。

   私は柳の木に聴いてみた。

ヘイトスピーチにまみれたこの国で、死の恐怖に脅かされながら生きている方が正解だったのか。

偽物の歴史で独裁体制を築いている国で、権力と死の恐怖に苛まれながら生きている方が正解だったのか。

私の問いに柳の木は答えず、ただ黙って、風を枝葉に委ねていた。きっと枝葉を揺らしていた風を見ろと柳は言っていたのだと思う。

「東京」の茶番劇

   昨日の晩からずっとテレビを観ていると東京都議会議員選挙の話題で持ちきりだ。

都議会選挙の結果は小池都知事を支持する政党が圧勝して、自民党が大敗。民進党が微減して、共産党が微増した。

 隣の県に住んでいる人間としては東京都議会選挙なんていうのはハッキリ言ってしまえば、どうでも良い。豊洲の市場がどうだとか、オリンピックがどうだとか言われているが、こちらとしてはそんなことはほとんど関係無い。勝手にやってれば良いんじゃないの?と思ってしまうのだ。

 だけれども、不思議なことに今回の都議会選挙を国政選挙だと思い込んでいる人も居るらしく、安倍政権へ反対するために自民党に入れないようにしようとか、今回、選挙で自民党が負けたのは安倍政権への抵抗があるからだなんていうことばかりが取りざたされて、国政の選挙なのかと錯覚してしまうことがたくさんあった。そして、当の安倍首相も都知事選挙の結果を受けて、内閣改造をするらしい。

 都議会選挙が国政に影響を及ぼすっていうのは1993年の都議会選挙で自民党が敗北して、その年に行われた衆議院選挙で政権交代が成し遂げられたからだと思うけれども、一体、地方自治体の選挙が国政に影響を及ぼすとか及ぼさないとか何なんだろう。 

 都議会選挙の話で今は持ちきりだけれども、ずっと安倍政権に反対している地域がある。それは沖縄だ。普天間基地辺野古の問題でオール沖縄と超党派で連合を組ん、県議会選挙や県知事選挙で勝ってきた。でも、その結果が国政に影響を与えたなんて聴いたことがない。せいぜい、海の向こうの本土で話されることなんて、「沖縄では基地反対派が強いんだねー。」とか、「沖縄の人怒ってるんだねー。」いうことぐらい。

 中央の政治家も「また、沖縄かよ・・・・・。」ぐらいにしか思っていないんじゃないか。

 でも、沖縄の選挙にとって沖縄の基地問題って外野の私から観ても、豊洲の移転なんかよりも、もっと切実な争点であるはずだ。アメリカ軍の基地とどうやって暮らしていくのか?そして、どうやって安全を保つのか?本当にこれからも戦争に巻き込まれないのか?そんなことを地方自治体レベルでも考えていかなければいけないのだ。少なくともこんな問題を私が住んでいる地域で議論しているなんて聴いたことがない。

 おまけに沖縄県が頼りにしているはずの日本国政府は全くもって頼りにならない。ていうか、むしろ、地方自治の本旨に逆らって勝手に様々なことを押し付けてきているという訳の分からない構造になっているんだから。

 中央の政治家にとって、切実な問題を抱えているのはきっと東京だけとしか思っていなんだろう。

 今日はテレビを観なかった。いい加減、小池都知事の鉄仮面を観るのもうんざりするし、二元代表制の趣旨も理解できていない音喜多なんていう議員のこれからの意気込みこと、議会人としての矜持を捨てた「言い訳」を聴くのも疲れる。

 昨日、今日の都議会選挙で分かったことは東京の問題だけが国政に影響を与えるっていうことぐらいかっていうことか。きっと中央の政治家さんたちは日本=東京としか思ってないのかね。東京なんて日本の一部だろ。たまたま明治の御一新で天皇が京都から来ただけじゃないか。

 私は東京の茶番劇なんかよりも本当に今、困っている人たちの声を聴きたいよ。

シマと島のフットボール

  1か月の間、ずっと書かなければいけないと思いながらもなかなか書くことができない事件があった。かつての私であればすぐに書いていただろうけれども、正直、どうすれば良いのか、そして、どう纏めれば良いのか分からなかったからまとめることはなかったし、この場でも書くことはなかった。でも、そろそろ書いて良いのではないかと思ったし、書かなければいけないことだと思って、パソコンの画面に向き合っている。

 その書かなければいけないことというのはACLで起きた浦和レッズ済州ユナイテッドの件だ。ACLの試合中に逆転された済州の選手が槙野の態度に激高し、試合後、槙野を追いかけまわしたり、レッズのキャプテンである阿部に試合中、ひじ打ちをしてしまった。試合にはレッズが3-2で勝ったものの、レッズも済州もペナルティーを受け、また阿部にひじ打ちをした済州の選手や槙野を追いかけまわした選手には厳しい処分が下された。現在、どうやら済州側は国際スポーツ仲裁裁判所への提訴も考えているらしい。

 様々な事件を起こしたいたレッズに対して済州側が少し過敏になっていた面もあっただろうし、同時に紳士にならなければいけない済州の選手たちにも問題はあったと思う。また、真実を明らかにしなければいけないのと同時に、必要な処分を与えるべきだ。

 しかし、私はこの記事の中でとちらが悪くて、罰せられなければいけないかという話をしたいわけではない。むしろ、こういう事件が起きてしまった後にこそ、サッカーの持つ力とはなんだろう?ということだ。

 日本と韓国のサッカーの試合は白熱した試合になることが多いのと同時に、問題がある試合も数多くあった。かつての日韓戦では韓国側の選手が問題を起こして、日本側から数多くの反発を買っている。(不思議なことに日本に居る私には日本側の選手が韓国側の気分を損ねた話になる話は聴こえてこない。)

 こういう時に必ず日韓戦を2度とやらないという意見が持ち上がってしまう。しかし、そんな2度とやらないという選択を簡単に選んでしまって良いのだろうか?ということだ。

 私は昔、こんな話を聴いたことがある。FIFA会長がイスラエルの首相に対して、イスラエルパレスチナの親善試合を提案したことだ。イスラエルパレスチナは未だに戦争をしている。そんな中でもFIFAの会長は平和の為にサッカーの親善試合を提案した。私はここにヒントが隠されていると思う。

 つまり、ピッチの内外では争いがおこるけれども、実はサッカーは人々を平和にし、ひとつにするためにあるのではないかと。

 どうしても衝突した瞬間にばかり目を向けがちだ。確かにそれはしょうがない。だけれども、この後どうすれば良いのか?ということについては一切語られない。だからこそ、敢えて私は言いたい。あえてレッズと済州ユナイテッドが親善試合をすることはどうだろう。名目は何でも良い。そんな親善試合をして、サッカーの持つひとつにする力を借りてみてはどうだろうか?

 サッカーには衝突がつきものだ。だけれども衝突を衝突したのままにしてはいけない。あえて、サッカーの持つ可能性にかけたいと思っている。

 正直、私はレッズと済州の問題があってから悩んでいた。私にとって、浦和はシマであり、済州島は私の父祖の地としての島であるからだ。そんな立場として言えることは何だろう?ということを考えてきた。だけれども、そういうアイデンティティーの問題と同時に私はひとりのサッカー好きなのである。レッズを好きでいたいし、済州島に思いもはせたい。しかし、サッカーもまた同時に愛したい。だからこそ、サッカーの可能性にかけてみたいのだ。

 この親善試合が行われる日は何時になるかは分からない。だけれども、1人のサッカー好きとして、浦和というシマと済州という島のチームが埼スタで戦う日に両方のユニフォームを着て行きたい。多分、それが私にとって、サッカーに敬意を表することであり、どちらのチームにも敬意を表することであると思うからだ。

車椅子と私たち

  私が小学生の時、生活の時間だったか、総合の時間にやっていたことはバリアフリーに関しての授業だった。主にやっていたことは車椅子の動かし方。生徒を車椅子に乗せて、学校の周りを一周するというものだった。当時、小学生で身の周りに障害者が居なかった私にはこの意味が全く分からず、どこか他人事だったし、車椅子専用のスロープがある意味も分かっているようで分かっていなかったと思う。

 そんな小学生の時の記憶がほとんどかすれてしまった18歳の時、我が家に祖母がやって来た。祖母はずっと一人暮らしだったが、病気で自由に歩けなくなってしまい、私たちの家族と同居することになった。年の割に元気だった祖母が歩けなくなることは私にとって、とても意外でどこかショックだったことを憶えている。

 自由に歩けなくなった祖母と病院に行くときや外に出る時に頼りにしたのは車椅子だった。

私はいつも祖母の車椅子を押す係。小学生の時にたまたま受けていたバリアフリー教育のお陰で、祖母は「貴方が押してくれるととても安心するんだよ。」なんていうことを言ってくれた。

 実は車椅子でどこかに行くということは結構、不便だ。車椅子対応かどうかで、行ける場所が決まってしまう。祖母と一緒に暮らしている時は行く場所が車椅子に対応している場所かどうかということを常に気にするようになっていった。

 すでに祖母が亡くなって6年経つ。車椅子に乗っている身内は居なくなったし、自分が介護の世界に行くこともなかったが、今でも、ほんの少しだけ車椅子対応の場所かどうかを気にしてしまう。

 障碍について考えるとき、障害者と健常者という二項対立で語ろうとする。障害者の権利を尊重するべきであるということは非常に大事な意見である。それと同時に誰しもが怪我や病気をして、障害を持つ立場になるということの視点も語られなければいけない。

 私の祖母はとても元気だった。年の割にはしっかりしていたし、教会の執事や通訳をやっていたぐらいだ。でも、そんな祖母でも、亡くなる1年前は障害を抱え、私たち家族が介護していた。障害を抱える可能性は誰しもがあるものだと思っている。

 そう考えてみると、小学生の時に受けたあのバリアフリー教育はそのことをどこかで教えてくれていたのかもしれない。誰しもが障害を持つということ、そして、車椅子に乗る立場になるということのメッセージを。

良く考えてみれば障害者ではない私たちも車椅子に乗る。体調が悪い時に車椅子に乗って運ばれる人は色々な場所で見たことがある。そんなことを含めて、あの教育は間違っていなかったのかもしれない。

 今日、車椅子の乗っている乗客にタラップを這い上がらせる事件が報道された。航空会社は謝罪し、当事者の男性は航空会社側に車椅子の人でも安心して利用できるようなシステムにすることを求めた。

 この一連の動きを一種の「政治闘争」として捉える人たちが存在する。その背景にはどこかで私たちは障害者にならない。もしくは車椅子に乗ることはないと考えているということなのだろうか。

 私は誰しもが遭遇する可能性の話を「政治闘争」という言葉には置き換えたくはない。障害を抱えている人の権利として、また、私たちも障害を持ち得る存在として常にこのような事件に注視しなくてはいけないと思う。

マイノリティーの交差点

 つい、先日の事、私はこんなツイートをした。

 稲田防衛大臣が国際会議の席上で「全員がグッドルッキング」と発言したことに対して、私がその男性社会で求められていることを行っていることを皮肉った意味だった。

だが、そんな私の皮肉に対して、くしゅんさんというフォロワーさんからこんな反応があった。

 私が「スカートを履いた男」という言葉を用いたのは、実はマツコ・デラックス中村うさぎの往復書簡『全身ジレンマ』で取り上げられている話題だった。男社会の日本において、まるで男性の枠型に嵌って、男性のような価値観を持ち、そして、男性のような価値観を持てない女を卑下する女。この表現、まさに稲田大臣の発言から考えて、ピッタリだなと思ったのだ。だが、その考えはくしゅんさんのツイートから変わることになった。

 私の周りには女性はもちろんのこと、セクシャル・マイノリティーの人が多い。だけれども、こんな指摘から実は、私自身、そういった人たちの複雑さを理解しないまま、今まで簡単に言葉を使っていたのではないかと思う。念のために言っておくが、私に差別する意図はない。しかし、今回、そのような意図が無いのにも関わらず、私は差別者になってしまった。これは嫌な話だが、くしゅんさんの言葉を単なる「気にし過ぎ」にすることもできる。でも、そんなことをすることが本当に良いことなのか?

  差別する側に自分自身が立ってしまうことがある。正確に言えば自分自身の立場が差別する側であると知る瞬間と言えば良いだろうか?そんな瞬間に様々な人が差別する側であることを否定しようとして、中には差別発言を無かったことにしてしまう。これはマイノリティーであろうが、マジョリティーであろうが一切関係ない。だが、このような現象が起きてしまうのはどこかで私たち自身がマイノリティーとマジョリティーを勝手にイメージとして固定化してしまうことがあるからではないか。

   社会全体を見てみると、実は人々の流動的な関係性の中で生きていることに気づく。その流動的な関係性の中に居れば当然、ぶつかったり、熱を帯びたりする瞬間に遭遇する。

   ぶつかったり、熱を帯びたりする瞬間を怖がるが余りに、差別されている側が何かを感じ取り、その言葉を情緒的であると言ってみたり、理論的ではないとする人たちが居るけれど、どうしても納得できない。何が差別で差別じゃないのかということはそんなぶつかったり、熱を帯びたりする瞬間にこそ出て来る議論なんじゃないのか。

   相手の言葉を切り捨てることなんて簡単なことだ。でも、このぶつかりや熱に向き合ってこそ、私は差別に向き合うということになると思う。そして、それは同時に人間に向き合うということにもなるのだ。 

   私にも在日という切実さがある。だけれども、その切実さの中には篭りたくない。あくまでもこの私にとって在日とは異なる世界の誰かと出会うためのチケットだ。そんなチケットを持っているにも関わらず、私はまた別のチケットを持っている人の言葉を無かったことにはしたくない。きっと、こうやってぶつかりあったり、熱を帯びたりして、新しい自由を私たちは得る。そんな民主主義の可能性をどこまでも信じたい。

  最後に、くしゅんさん。大切なことを教えてくれて有難う。私と貴方の切実さの交差点が新しい自由を切り開くことを信じて、私は私の差別性に目を向けながら、新しい言葉を紡いでいきたいです。

君たちはキムチを食べたことがあるか?

諸君、私はキムチが大好きだ。

カクテギが好きだ。

チョンガクキムチが好きだ。

白キムチが好きだ。

水キムチが好きだ。

ポッサムキムチが好きだ。

ねぎキムチが好きだ。

水キムチが好きだ。

この地上にあるありとあらゆるキムチが好きだ。

 だが、そんな私にもどうしても苦手なキムチがある。

日本のスーパーで市販されているキムチだ。

見た目は真っ赤なのにも関わらず、口にした瞬間、チーズはどこへ消えた?ばりに辛みが消え、なんだか良く分からない甘さだけが口に残る。

 市販されているキムチを食べた時、「さては、キムチじゃねぇな。オメー。」とひととりごち、気づいたときには皿に取り分けられたキムチを片手に、厨房へ「このキムチを作ったのは誰だ!女将を呼べ!」と怒鳴りこむか、「私に3日下さい。究極のキムチをお見せしますよ。」と言って、東上野のコリンタウンに駆け込む。

 市販されているキムチに毒されている諸君らにはっきりと言っておく。(ちなみにこの言葉を私が使うときはヘルメットを被り、ゲバ棒を片手に、トラメガで叫んでいるものと思って欲しい。)この世の中で一番美味しいキムチは釜山広域市沙上区にあるハプチョンテジクッパのキムチであり、二番目に美味しいキムチはソウル特別市チョンノ3街にあるハルモニカルグクスのキムチであると。

 えっ?全部、韓国の店じゃないかって?韓国には行く余裕がないから日本で同じレベルのキムチを食べたい?

私はそんな貴方に青少年の真剣な相談に答える北方謙三宜しくこのように言うだろう。

「日本でこのレベルと同等の美味しいキムチを食べたければ、東上野のまるきんか第一物産に行け。さらにまるきんに行くついでにチャンジャを買っていくべきだ。毎日、浅草チャンジャカーニバルが楽しめるのだから。」

 だが、まるきんや第一物産に毎日、行けるわけではない。市販のキムチをチゲや豚キムチにしながら私は欲求不満のキムチライフ(意味深)を送っていた。

 そんなある日、ひょんなことから高麗町の山を登ることになった私は、山登りの帰りにJAのお土産売り場でとあるキムチに出会った。

 高麗町とは飛鳥時代辺りに、高句麗が唐に滅ぼされ、日本に渡ってきた渡来人たちが「ここ、故郷に似てる。」という理由で住み着いた土地らしい。とは言っても、どこが故郷に似ているのか、1300年後ぐらいに色々あって、朝鮮半島から日本にやってきた子孫の私には全く分からないのだが、高麗神社という古くからある神社もあり、今でも朝鮮半島との繋がりが深いみたいだ。

そんな土地のJAのお土産売り場にキムチがあった。

それも冷凍されて置いてあるのである。

 キムチを冷凍だと!

キムチを冷凍するということはサッカーの世界でハンドをした上に、レッドカードを出した主審をグーで殴る行為だ。もしくはAKBの総選挙で突然、結婚宣言をするようなものだ。つまり、奴はキムチ界のバロテッリだ。もしくはキムチ界の須藤璃々花と言っても良いだろう。そこまでして、キムチ界の海原雄山こと私に挑む度胸は素晴らしいということで購入した。

  冷凍されているということで、解凍しなければいけなかったが、高麗町から我が家までは1時間くらいある上に、暑い日だったのでとっくのとうに解凍されてある。

 家に帰り、車中で解凍されたキムチを器に盛った姿を観て、小生、思わず腹キュン。

だがここで油断をするべきではない。第一、4時間近くちょっとハードな山道を駆け巡った影響で、腹が減っているのに加え、見た目だけ赤く、なんだか良く分からない原因不明の甘みは私の口の中を突如襲ってくるかもしれない。

 恐る恐る口にしてみると・・・・・・。

 これは美味い!

辛いけれども、ほんのちょっとの甘みがあり、ただ辛いだけではない!

そして、甘さが辛さを邪魔しない!

辛さと甘さの共存をしているぞ!

とうとう私は見つけた!

この喜びはサハラ砂漠のど真ん中でオアシスを見つけたときの嬉しさだ!

日高市良くやったな!

高麗王若光!(どうやら最初に来た渡来人の偉い人らしい)お前が言っていた故郷に似ているという意味が良く分かったよ!

私、凄くキムチについて知って、初めて市販のキムチを好きになることが出来ました!

こうして私は欲求不満のキムチライフ(意味深)から卒業することが出来たのだった! 

 たまに落語とかを聴いていると、「日本人にしか分からない芸能ですね。」なんていうことをマクラで話す噺家が居る。こういう現象は落語だけではない。相撲でも、「日本人力士が横綱にならないといけない。」と言った言説が飛び交っている。

だが、日本人ではない私は普通にオタクと言えるぐらいに落語の音源を聴き、テレビでやっている相撲中継を親と観ている。

 どうして人々が楽しむための文化に、「日本人だけ」という言葉がついていくのだろう。

 キムチ好きの私をうならせた高麗町のキムチは「韓国人だけ」が楽しむものなんだろうか。

 「伝統文化なんだから○○人だけにしか分からないよ!」なんていう人に出会ったら、私は多分、高麗町のキムチを食べさせるその時はきっとこう言うだろう。

「先生、これがほんの私のキムチ(気持ち)です。」

「憲法」が「拳法」になるとき

 私たちは小学校の社会科の授業から高校の政治経済の授業まで「憲法」という不思議な法を学ぶ。中には私のように大学生になってからも一般教養として「憲法」を学び続けた人が居るかもしれない。どちらにしろ、学校教育の中で憲法は学ぶことが必須とされている事項であるとされているようだ。

 私が記憶する小学校から高校までの憲法の授業は日本国憲法の基本的原則を憶え、さらに基本的原則が書かれてある条文を暗唱することだった。教育指導要領にそのようにするようにと書いてあるかどうかは知らないが、子供ながらに「こんなことをやって何の意味があるんだよ・・・・・。」と思ってしまった。今になってから言えることだが、暗唱することなんていうのはつまらない。

 私を含めたつまらない憲法の授業を経験した人たちにとって、憲法の中に書かれてあることは全くもって良く分からない。難しい言葉ばかりだし、何より「キレイゴト」ばかりが書いてある。そんな「キレイゴト」に対して、今の日本では反発する人々が増えている。何より、今の首相や防衛相は「キレイゴト」を尊重する義務があるのに、どうやら受け容れられないらしい。では、何故、そんな「キレイゴト」が憲法には書いてあるのか?

 近年、韓国では『弁護人』という映画が流行った。この映画は盧武鉉元大統領の弁護士時代に起きた『釜林事件』をテーマにしたもので、国家保安法による冤罪で捕まってしまった行きつけのテジクッパ屋の息子を助けるために、弁護士のソン・ウソクが奔走する映画だ。

 この映画では法廷にて、テジクッパ屋の息子を捕まえた当局の人間に対し、ウソクが大韓民国憲法第1条を諳んじるシーンがある。

ちなみに大韓民国憲法第1条とは次のような条文になっている。

第1条

  1. 大韓民国は民主共和国である。
  2. 大韓民国の主権は国民にあり、全ての権力は国民より由来する。

 当時、韓国はまだ軍事独裁の時代で、自由や民主主義なんていうものからは程遠い時代だった。そんな時代の中で韓国の国民は何十年も地道に活動し、やがて、自由や民主主義を手に入れた。そんな中で抵抗した人々が、抵抗の拠り所にしたのは大韓民国憲法第1条の条文だった。そして、去年の10月、朴槿恵大統領が国政壟断事件を起こしたときに、人々が朴槿恵大統領に対して抵抗の拠り所にしたのも、この大韓民国憲法第1条だった。

 「憲法」をただの紙切れとして考える人たちが居るかもしれない。それは一面においては事実だ。しかし、時には人々の権利を奪う為政者への有効な武器にもなっていく。アメリカにおいて公然と黒人差別があった時代、キング牧師は常に合衆国憲法の理念に従うことを政府に求め続けた。それは憲法に書いてある「キレイゴト」を頑なにまで信じたからだった。自分たちの生きにくい世の中をどのようにして生きていくのか。そんな時に希望の光になったのは憲法という紙切れに書いてある「キレイゴト」だった。

 為政者によって生きにくい日々を送っている人々にとって、「憲法」は為政者を殴るための「拳法」として機能する。だが、そんな機能を忘れてしまった瞬間に「憲法」はただの紙切れに戻ってしまうのかもしれない。憲法の条文を暗唱させるよりもそんな人々がどんな人々であるのかという想像力を持つことが「拳法」としての威力を発揮させることなのかもしれない。

 だが、日本では「憲法」を「拳法」として発動させる人々は居ないと考えている人が極めて多い。それは大きな誤解だと思う。

 先日、大田昌秀沖縄県元知事が亡くなった。彼はずっと「憲法」を沖縄を守るための「拳法」として考えていた人だった。そんな考え方だったのは大田元知事だけではない。沖縄が日本に復帰することを選んだのは日本国憲法第9条が地上戦で大きな被害を被った沖縄にとって、まさに夢のような憲法だったからだ。そして、今、そんな「憲法」を「拳法」として信じつづけている人は今でも数多く存在する。

 彼の冥福をただ、祈るだけではなくて、そんな「憲法」を「拳法」として発動させようとした人の姿を語り継ぐことが本土に居るこの私のできることなのかもしれない。