うちの街みたくなればいいのにな

 ヒジャブを被ったひとがキムチ屋の前を通るいつもの光景は素敵だと話した。こないだあったお祭りで近所のおじいちゃんたちと呑んでいるときに。だれかが「そこにいれば街の一員なんだよね」 といっていた。

 この街に引っ越してきてよかった。ただ「いる」だけでいいから。わたしが日本国籍を持っている在日コリアンであるとか、 政治犯のガキであるとか、 日本人のクオーターであるとかの説明は不要。何者か問われないし、問わなくて済んでいるおかげで心身ともに穏やかになった。

 そういえば、エドワード・サイードも「 ニューヨークに住むのは何者か問われないからだ」 みたいな話をしていた。 世の中の基準とすこし違うひとは背景を超えて、 似た気持ちになるのだろうか。

 帰りのバスから観える風景は暗いだけだからスマホを観てしまう。たまたま開いたTwitterはミス日本にウクライナ出身の椎野カロリーナさんが選ばれたと教えてくれた。5歳で来日した彼女は2022年に日本国籍を取得したらしい。違うけれど似た境遇だと近く感じる。

 記事に受賞コメントがあった。

 

「夢のよう。人種の壁があり、なかなか日本人として受け入れてもらえないことも多くあった中で、今回、日本人として認められたと感謝の気持ちでいっぱいです」

 

 「日本人として認められるとかどうでもよくない?」とツイートしそうになった。アメリカ国籍の科学者を「日本人ノーベル賞受賞者」にしたり、大坂なおみ選手に「結果を出さないあいつは日本人選手と認めない」なんて書き込むやつがいたり、日本のためになるならないでしか判断してない。だけど、わたしが椎野さんに物申すのは違う。だれかの素直な気持ちをかき消すなんて暴力だと思うから。つぶやきたい気持ちは肚に収めた。

 「日本らしさはどこ?」

ミス日本の写真といっしょに流れてきたことばは「純粋な日本人」でない彼女がなぜ選ばれたのか「疑問」を呈していた。知人のサンドラ・ヘフェリンさんや日本国籍を取ったアンさんが「彼女は日本人です」と引用リプライする。2人のコメントに数えきれないひとがさらに意見をかぶせていった。いったいいくつRTされたんだろう。

 

 「何者か問うのはおかしい。だけど、曖昧で勝手に決まってしまう「日本人」と断言するのも妙だ。ただ、「ふさわしいからミス日本になった」ではダメなのか?何者か問われるし、問わなくちゃいけないし、説明しなくてはいけないのがおかしいんだから」

 

 なんてツイートするよりザワザワする気持ちを収めたい。Twitterを閉じたとき、最寄りのバス停に着いた。

 ネットもわたしの住んでる街みたくなればいいと歩きながら思った。ヒジャブを被ったひとがきょうもキムチ屋の前を歩く。わたしも彼女も生きている。

 

国や民族はただの暴力なのかもしれない

北朝鮮「帰還事業」 “継続的な不法行為” 東京高裁が差し戻し 2023年10月30日 19時13分

 昭和30年代以降、在日韓国・朝鮮人と日本人の妻などが北朝鮮へ渡った「帰還事業」で過酷な生活を強いられたなどとして日本に逃れた人が北朝鮮政府に賠償を求めた裁判の2審判決で、東京高等裁判所は、「原告たちは人生を奪われた」として北朝鮮の継続的な不法行為を認めたうえで、1審で審理をやり直すよう命じました。
 昭和34年から25年続いた「帰還事業」では、在日韓国・朝鮮人と日本人の妻などおよそ9万3000人が北朝鮮に渡り、その後、日本に逃れた4人が北朝鮮政府に合わせて4億円の賠償を求めています。

 1審の東京地方裁判所は「賠償を求める権利が消滅している」などとして訴えを退けました。

 30日の2審の判決で東京高等裁判所の谷口園恵 裁判長は「事実と異なる勧誘で北朝鮮渡航させ、その後出国を許さないことで居住地選択の自由を侵害し、過酷な状況で長期間生活することを余儀なくさせ、原告たちは人生を奪われた」として北朝鮮政府の継続的な不法行為を認めました。

そのうえで、1審が北朝鮮内での不法行為について審理していなかったことなどから、東京地裁でやり直すよう命じました。

 北朝鮮政府を被告とする裁判は初めてとみられます。

 判決後の会見で、原告側の弁護士は「帰還事業の実態について丁寧に認定し、人生を奪われる被害だと正確に評価した。日本の裁判所で北朝鮮の人権侵害を追及する可能性をひらく画期的な判決だ」と述べました。


原告「全面勝利」


 2審の判決後、東京高等裁判所の正門前では原告や支援者などが集まり、拍手をして喜び、涙を流す原告もいました。

 原告の1人で在日2世の川崎栄子さんは「全面勝利だと思う。この北朝鮮帰還事業を世間に知らしめて、正すためには命をかけないといけないという決心のもと、北朝鮮を脱出してきた。生きて日本に帰って来てきょうの判決を見ることができたのでよかった」と話していました。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231030/amp/k10014242201000.html

 

 ブラウザから消せない。家族が日本海の向こうにいるから。父方の祖父には弟がいた。真面目なひとだったらしい。日本で結婚し、子どもを儲けた。チョーセン人はまともに稼がせてもらえないときだったから縁もゆかりもない「地上の楽園」に渡った。

 どんな生活をしていたか分からない。けど、人間として認められていないのは噂で窺い知れた。

「お金や生活用品を送っていただけませんか?できればナプキンとか生活用品がいいです」

「総聯のやつらに騙された」

「絶対にくるな」

   渡ったひとの話は相手を選ばなくてはいけない。差別に利用されかねないし、「同胞」の圧力を受けたくないから。以前、現状を伝えたら民族名で生活するかたから凄まれた。力で事実を消すのはだれでもやるらしい。

 12月14日で帰還事業64年目になる。けど、話題に上らない。戦争があちらこちらで起きているからか、黙らなければいけないからなのか。

 国や民族はただの暴力なのかもしれない。

まだ夜羽音さんは生きている

 デモ後の食事会が山本夜羽音さんとの初対面だったはずだ。到着するなり彼の姿が目に入った。アメフトキャップに髭ヅラ、スカジャンで隠せない大きな腹。ビール片手に大声で話してる。思わず、仰け反ってしまった。気持ちを悟られまいとふつうの顔で自己紹介を聴いてみる。長らく描けていない社会派エロ漫画家で普段は土木作業員らしい。やっぱり変なひとだった。だが、政治の話題を振られた途端に熱く語る。運動経験が滲み出ているから面白い。いつのまにやら聴き惚れてしまっていた。

 彼の主催する夕食会に集まっていたほとんどのひとも似た経験があったのか。会の名前はアキバダファミリア。由来は知らない。でも、家族みたいな関係を築けそうな場だった。山本洋一郎でしかなかったころから付き合いのあるひとはさまざまな「前科」を話していたがいまいちピンとこない。参加者への細やかな気配りと甲斐甲斐しく世話する姿を観ていたからだろう。

 あるとき、共同執筆を誘われた。主人公は文禄・慶長の役で朝鮮王国に投降した日本の武将。わたしが原作で夜羽音さんは作画。嬉しかったけど長らく描けてない彼にできるのか。本気なら取材や感覚を取り戻すために新作を出すはず。曖昧だけど前向きな返事をしておいたが動く気配はない。若い物書きと出会うたびに話を持ちかけているようだった。でも、描いてさえくれればどうでもいい。長らく待っていたら食事会開催のダイレクトメールが送られてきた。このひとは一体なにをしたいんだろう。分からなくなると付き合いも薄くなる。最後はTwitterで近況をなんとなく察するだけの関係になった。

 夜羽音さんの訃報がSNSで錯綜したのはこれから春になろうとしていたときだった。流行病で集いを避ける風潮なのに葬儀の日取りまで流れてくる。実感がまったく持てない。気持ちを落ち着けたいからスーツと黒いネクタイを取り出した。 

 コートについたみぞれは季節外れを伝えていた。北海道出身の彼らしい日だ。払ってから礼拝堂に入る。多数の参列者に驚いた。置かれていた式次第にカトリックを感じながら席に着く。どんな葬式だっただろう。あまり記憶にない。でも、神父の慈愛に満ちたことばで温かい空気が広がっていたのは憶えている。出棺のときに頭を下げた。遅いのは分かっている。霊柩車が観えなくなったとき、気持ちの整理がついた。

 帰宅したあとだった。山本夜羽音を無性に語りたい。Twitterでお喋りできる機能を開いたら生前を知るひとがたくさんやってきた。そして、彼の話を何時間も話したり、聴いたりした。さまざまなひとの思い出が合っていたり、すれ違ったりする。ひとりひとりのなかに生きていると実感した。

 あれから1年半以上経つ。夜羽音さんを知るひとたちとときどき会う。話題はいまは亡き社会派エロ漫画家について。まだ生きているんだ。記憶のなかだけなんだけど。

森喜朗発言を読んで-排除と選別にNOを-

 東京オリンピックパラリンピック組織委員会委員長である森喜朗氏が非難されている。2月3日に開かれたJOCの臨時評議員会での発言が原因だ。

 マスコミやSNSで「女性蔑視」と反応するのは当然だと思う一方、なにか抜け落ちているような違和感を感じた。

 この感覚の正体を突き止めるため、彼のことばをあらためて読んでみた。

news.yahoo.co.jp

これはテレビがあるからやりにくいんだが、女性理事を4割というのは、女性がたくさん入っている理事会、理事会は時間がかかります。これもうちの恥を言います。ラグビー協会は倍の時間がかかる。女性がいま5人か。女性は競争意識が強い。誰か1人が手を挙げると、自分もやらなきゃいけないと思うんでしょうね、それでみんな発言されるんです。結局、女性はそういう、あまり私が言うと、これはまた悪口を言ったと書かれるが、必ずしも数で増やす場合は、時間も規制しないとなかなか終わらないと困る。そんなこともあります。 私どもの組織委にも、女性は何人いますか。7人くらいおられるが、みんなわきまえておられる。みんな競技団体のご出身で、国際的に大きな場所を踏んでおられる方ばかり、ですからお話もきちんとした的を射た、そういうご発言されていたばかりです。

 「女性がたくさん入っている理事会、理事会は時間がかかります。」の部分がとくに取り上げられている。しかし、つづきを読んでみると、侮蔑だけではない、怖い理屈をいっているのにお気づきだろうか?
「これはテレビがある」~「みんな発言されているんです。」の部分まで、組織内に存在するある属性のひとたちを無根拠に邪魔だと決めつけたうえで、「必ずしも数で増やす場合は、時間も規制しないとなかなか終わらないと困る。」と明言している。

集団内のマイノリティーに組織効率低下の原因をなんのエビデンスもなく背負わせたうえで、発言権を奪おうとしているのにほかならない。
 そして、これだけでは終わらないのがミソだ。「私どもの組織委にも、女性は何人いますか。7人くらいおられるが、みんなわきまえておられる。みんな競技団体のご出身で、国際的に大きな場所を踏んでおられる方ばかり、ですからお話もきちんとした的を射た、そういうご発言されていたばかりです。」と、「会長である自身の基準に達してるやつは除く」と但し書きまでつけている。
 ここまで読んで、しっくりしない感じの正体がハッキリした。

「女はしゃべりすぎるので邪魔だから発言を制限させよう。ただし、俺さまのお眼鏡に沿うやつは除く。」という「排除と選別の理論」が言及されないことへの引っかかりだったのだ。
 この理論は「女性」だけに適用されてきたのではない。近現代史を紐解いてみれば、さまざまな属性や集団に当てはめられてきた。結果、本来は手を取りあって、助け合わなければいけないもの同士が争う羽目に陥ってしまい、制度や構造から目を背けさせてしまっている。

 だからこそ、「女性蔑視を指弾するだけ」ではなく、「排除と選別を行う政治」も真正面から批判しなければいけない。

 森会長は怖ろしいセオリーをあっけらかんと語る口で「東京オリンピックはレガシーだ」と公言してはばからない。しかし、本当の遺産とは効率の名のもとに、ある属性のひとびとを排除し、都合のいいやつのみを選別する権力者にNOを突きつけ、あたらしい政治を行うことではないだろうか。

「先生」と呼ばれたとき

「お話を聴いていただき有難うございました。」

ある場所のトークイベントで、出版した本についての話を1時間ほどした。

「これから質疑応答に移らせていただきます。質問のある方はいらっしゃいますか?」

司会が会場に問いかけると、数名が手を挙げた。

「そちらの赤い服を着た女性の方」

指名された年配の女性がこう話した。

「とても勉強になるお話を有難うございました。先生は…。」

 

せっ…先生?

口には出さなかったが、バイトをしながらネットで文章を書いているだけなのに偉いひとのように扱われたせいか、手の届かないところをかきむしりたくなったときのような顔になった。

 質疑応答が終わると、あるひとがわたしのほうへやってきた。

「はじめまして。以前からブログなどを拝見させていただいておりますケイン樹里安です」

名刺を差し出し、挨拶をする彼に「ああっ!じゅりあんさんですね!ずっとお会いしたかったです!」とはしゃぎ声を出した。

 友人との出会いを思い出しながら『精神病理学私記』の翻訳出版記念トークイベントへ行くため、電車に乗っていた。イベントに足を運んだ理由は訳者の阿部大樹さんの対談相手がケイン樹里安くんだったからだ。

 会場の最寄り駅である高円寺駅を降り、地図アプリを見ながら歩くと「サリヴァン精神病理学私記』出版記念イベント こちら」と書かれたブラックボードを見つけた。どうやら会場は半地下のライブハウスらしい。階段を降りると、窓ガラス越しに樹里安くんの姿が見えた。

 店に入って、「よっ!久しぶり。最近、忙しいみたいだね。」と声をかける。

わたしに気づいた彼は心なしか疲れた顔をして「おっ!来てくれたんだ!昨日もふれしゃかのイベントで遅くまで飲んでたよ。」とあいさつをして、おたがいの近況について話していた。
わたしたちは一度、話し出すと止まらなくなるので、わたしは壁にかけられたアナログ時計をちらちら見ていた。
 秒針が開始時刻15分前を指したとき「ごめん。もう時間だよね。」と言って、客席に座って、彼も定位置へついた。
 時計の秒針が開始時刻を指したのと同時にイベントがはじまった。
 著者のサリヴァンアメリカのアイルランド系移民の子であり、同性愛者であり、統合失調症を患っていたそうで、自らの体験から『精神病理学私記』を書いたが、社会構造を精神障害の原因とする考え方は学界で受け容れられなかった。しかし、彼の治療成績はとてもよく、内務省で講演したり、WHOの立ち上げにもかかわったという来歴が阿部さんの口から語られた。

 面白いひとだなぁとぼんやり思っているうちに、阿部さんと樹里安くんのトークがいつの間にかはじまっていた。最初は研究手法についての話だったが、ハーフの話になってくると、2人の話が止まらなくなり、白熱したまま、休憩に入った。
 後半はサリヴァンの経歴からはじまった。とてつもない治療成績だった彼は行政に携わるようになり、徴兵制度を作るプロジェクトに従事したそうだ。自らの書いたものは学界で評価されなかったが、凄腕の医者として行政に入り、自らを苦しめることになった制度を作るのはどんな気持ちだったのだろうと思いながら聴いていると、阿部さんはサリヴァンみたいに制度を作る側になったらなにをするかと樹里安くんに訊ねた。
 「うーん。教育に手を入れるかな…。そうだ、図書館に移民の本を入れる。」
行政に携わるからこそできる彼のアイディアを聴き、「先生」として思想を伝えるのに失敗した結果、現場の「実務家」として世の中を変えるためにサリヴァンは行政へ入ったのかもしれないと気づいた瞬間だった。
 後半もさまざまな方面に話が盛り上がり、予定時刻を過ぎてイベントが終了した。後片付けや名刺交換などを終え、トークをしていた2人と会場に残った数人で近くの喫茶店に入り、遅い昼食を食べた。

 そのあいだ、イベントについてああでもないこうでもないと阿部さんと樹里安くんはずっと喋っていたせいか、「やばい、酸欠だ。頭痛い。」とおなじタイミングで言いだし、顔色を悪くしていた。
 「つぎの予定は6時からだよね?」
樹里安くんに別のイベントの予定があるのを知っていたので、時間を伝えた。皆で店を出て、わたしは彼を駅まで案内する。
 つぎの予定を伝えたり、道案内したりしているわたしが、助手みたいでどこか面白い気持ちになり、「先生」と彼をふざけて呼んだら、むずがゆそうな顔をして、「なんか偉そうにしちゃったかなぁ」と尋ねてきた。

「いいや、ふざけているだけ」と笑いながら答えたとき、サリヴァンも「先生」と呼ばれるとこんな顔をしていたのかなと思った。

 駅に行くまでの道のりは「先生」と呼ばれるむずがゆさの話で盛り上がった。

わたしもおっさんになった

 スピーカーから『河内のオッサンの唄』が流れると父は「これは在日のおっさんを歌ったと思うんだ。」という。酒を飲ませたがったり、疎遠になった身内の様子を聴いたり、ギャンブルにはまっている感じが「在日っぽい」ということらしい。

父の話を聴いて、私の記憶を思い返してみた。

 「おう!元気か!頑張ってるな!メシは食ったか!」
 おっさんたちはわたしのような若い衆に会うと大きな声でそんなことを言って、行きつけの焼肉屋に連れていく。こういうときにかぎって、若い衆のお腹はいっぱいなのだが、「先輩」の前でそんなことを言えず、勧められるがままに肉を食う。
 こんなとき聴かされるのは「小学生のとき、高校生のツッパリと喧嘩して勝った」とか「民族学校の制服を着ていたから地元の不良に毎回、喧嘩を挑まれて、毎回、ボコボコにした」とか「線路の上で喧嘩をして電車を停めた。」とかおっさんが若いころの「武勇伝」だ。しまいには自分の握りこぶしを見せ、「いいか。こういう握り方であごに当てろ。」と喧嘩のしかたまで講義してくれる。

 「そんな知識、どこで使えばいいんだ。」と思っていても先輩の話はちゃんと聴かなくちゃいけない。

 こんな話も終盤になってくると「若いときっていうのは勢いでなんでもできる。だけど、やっぱり金だぞ。稼げなきゃダメなんだ。おじさんみたいに喧嘩ばかりじゃなくて、勉強したり、金儲けの方法を考えて金持ちになって、だれかにおごれるようになれ。」と武勇伝を語っていたときと打って変わって、哀愁に満ちた表情で、静かに語る。
 その落差に圧倒され思わず「はい!頑張ります!」と言ってしまうのだ。
わたしはこんなおっさんがいまでも大好きだ。

 たしかにこのひとたちを思い出してみるとどこか懐かしい声で歌われているあの唄は在日のおっさんを歌ったものかもしれない。

 しかし、どうして若い衆におごりたがっていたのか。
 今年の3月、クルドの春祭り「ネブロス」に行った。学習支援で出会ったクルドの子どもに会うためだ。会場である秋ヶ瀬公園に着いて、その子を探しにサッカーをしていた子どもたちの集団に目を凝らしていたが、見当たらず、まだ来ていないのかもしれないと思い、その子が来るまでサッカーに混ぜてもらい、1時間ほど遊んでいた。しかし、来る気配がない。
 「もしかしたら、もういるのか?」と思い、サッカーを抜け、別の場所を探すことにした。するとケバブ売り場の隣で大人に飲み物を売っているその子を見つけた。

 頑張っている姿を見て、思わずこう声をかけていた。

 

 「おう!元気か!頑張ってるな!メシは食ったか!」

 

 お腹を空かしていたのか「有難うございます!ケバブを買ってきてください!野菜は少なめで!」と彼は言った。
 ケバブ売り場の長い行列に並んでいると待ちくたびれたクルドの大人たちが店主とクルドのことばで怒鳴りあっている。「こんな光景を東上野でも見たっけ」と思いながら、わたしの番はいつになるだろうと待ちぼうけていた。我慢しきれなくなったのか、ケバブを頼んだ子が「まだですか~?」と言いながらわたしのほうにやってきた。「もうちょいの辛抱。」と答えると「腹が減りすぎて死にそうですよ。」とちょっと情けない声で言った。

 そんな会話をしていると前に並んでいた10代後半のクルドの女の子たちが「お前、〇〇の甥っ子じゃん。」と彼に気付いたようで、目の前でじゃれはじめた。そんなほほえましい姿を見て、女の子に「いくつなの?」と訊く。すると「2003年生まれの16歳です。おばさんですよねー。」と言うではないか。

 思わず、「1991年生まれの27歳なんだけどおじさんかな?」と訊くと「おじさんだと思います。」と即答されてしまった。

 ミレニアム生まれ以降のひとと話したことがないので、ちょっと話をしてみたいと思い、「好きなアーティストはだれ?」と聴いてみる。すると「TWICEです!」と答え、TWICE愛をとうとうと語りはじめた。彼女によればYoutubeで動画を観たことがきっかけでハマったらしく、学校でも流行っているそうだ。K-POPといえば「少女時代」や「KARA」で止まっているおじさんのわたしは「ついていけない。」と思いながらも話を聴きつづけていると、韓国語が喋れるようになりたいと言いはじめた。

 すかさず「俺、釜山にいたからちょっとできるよ。」というと彼女は目を輝かせ「しゃべってみてください!」と頼んできた。下手な韓国語でちょっと話すと「かっこいい!」と言った。
 「『いいか、外で韓国語なんか使うな。韓国人だってバレたらなにされるか分からない。』っておじさんが小さいころは親や親戚に言われたんだよなぁ。」と心のなかでつぶやいた。
 「韓国語教えてくださいよ。」

彼女はわたしにそう言ったが、自分のレベルを知っていたので東京の韓国語教室をいくつか勧めた。すると「そこまでは行けないんですよね。」と彼女はぼそりと言った。

 「そうだ、この子たちは県外へ出るにも届出が必要だったんだ。」

踏んではいけないものを踏んだような気がして、気まずい気分になったが彼女は「いつか、新大久保に行ってみたいんですよねー。」と夢を話してくれた。
 そうしているうちにケバブの順番がやってきた。

2003年生まれとの話に夢中になっていて、途中からほったらかしにしていたお腹を空かせたクルドの子にケバブを渡すと、「有難うございます!」と嬉しそうに言って、どこかへ行った。
 帰り道、あのおっさんたちが若い衆におごったときの気持ちはこんな感じだったのかもしれないと思った。

 日本というアウェイで生きていると、ひとより冷たい現実と向き合わなければいけないことがある。それでも頑張って生きているんだから、せめて、メシぐらいはおごってやろう。

 そんな気持ちが芽生えてきたと気づいたとき、わたしも「おっさん」になったと感じた。
 おっさんたちが若い衆にメシをおごる理由がを書こうとしていたとき、川口市の学校で、あるクルドの子どもがいじめで不登校になったという新聞記事を読んだ。

 「しまった。喧嘩のしかたを教えてなかった。」と一瞬頭をよぎったが、あのおっさんのことばを思い返した。

 

「おじさんみたいに喧嘩ばかりじゃなくて、勉強したり、金儲けの方法を考えて金持ちになって、だれかにおごれるようになれ。」

 

 そうやって生きなければいけない事情も分かる一方で、おっさんたちの陰でどんなひとが泣いていたのかも知っている。ひとことでは到底、言えない気持ちをいまでも持ちながらみんな、生きている。
 メシをおごる側になったわたしはそんなおっさんたちのことを書くことにした。それは「差別」としか思えないようなことは昔からあったし、いまでもつづいていることを、子どもに注意することができる大人へ「対岸の火事」にすることなく伝えたいと思ったからだ。
 そうすれば喧嘩の仕方なんて教えずに済むかもしれない。なによりあの愛しのおっさんたちのような生き方をしなくてよくなるかもしれない。

 そう思いながら、新米のおっさんは書いている。

ぢっとお札を見る

 埼玉にはだれもが知っているような「偉人」がいないせいか、名の知られている偉人がちょっとでも関係あれば「埼玉とゆかりのある偉人」として無理矢理紹介する。

 先日、埼玉の観光サイトを読んでいると太宰治が「埼玉とゆかりのある偉人」であることを知った。理由は『人間失格』を大宮で書いたかららしい。
 埼玉県民のわたしは思わず、こうつぶやいた。
 

 「知らねぇよ。」


どこで書きはじめたかなんてどうでもいいし、仮にそうだとしても「ゆかりがある」なんて実感が湧かない。
 こうしなければいけないぐらいメジャーな偉人がいないのだ。
もちろん、それは埼玉に「偉人」がいないというわけではない。とりあえず、思い浮かぶひとは3人いる。

 1人は江戸時代中期から後期に活躍した塙保己一だ。幼少のころ、病で失明したが、江戸に出て学者になり、日本の国文学や国史をまとめた大著『群書類従』を編纂した。編纂の際に版木を「20字×20行」の400字詰めに統一させた。それがのちに原稿用紙の基本様式となる。
 原稿用紙を使う私にとって、塙保己一は偉大な人物である。
 もう1人は、『群書類従』に収録された「令義解」から女性医師の規定を見つけ出し、「日本には古来から女性医師がいた」と主張して、はじめての公認女性医師となった荻野吟子である。
 「男しか教師になれない」と親に言われたある少女は荻野吟子の伝記を読み、親を説得して、教師になった。そのひとがのちに私の小学生時代の担任になる。
 わたしの担任の先生に影響を与えた荻野吟子は偉大な人物である。
 そして、最後に「埼玉の偉人」と言えば、彼を忘れてはいけない。
『時事新報』や『東京パック』で風刺漫画を描いた「日本近代漫画の祖」と呼ばれる北沢楽天である。戦前に出版した『楽天全集』は「漫画の神様」と呼ばれる手塚治虫に影響を与えた。
 さきほど書いた荻野吟子のおかげで教師になったわたしの担任は漫画嫌いだったものの、手塚治虫だけは好きで教室に『鉄腕アトム』や『火の鳥』が置かれていた。小学校のころ、それらを読みわたしは手塚治虫のファンになった。
 わたしが好きな手塚治虫に間接的な影響を与えた北沢楽天は偉大な人物である。


 (えっ?「自分のエピソードと無理矢理、結びつけて変な感じがする。」って?埼玉県だって関係のないひとを無理矢理、結びつけてるんだからしょうがないね!)

 「埼玉の偉人」と言われて思い浮かぶひとを書いてみたが、多分、私大の入試でギリギリ出るレベルの知名度だと思う。
 そんなマイナーな偉人ばかりの埼玉にとって、有名人を出す一発逆転のチャンスといえば、お札のひととしてだれかが採用されることだろうか。
 お札のひとになればどこへ行っても有名になれる。現にわたしはなにも見なくても彼らの名前はすぐに書ける。
 財布によく入っている1000円札は野口英世で、たまに入っている5000円札樋口一葉、そして、これが入っていたらビル・ゲイツみたいな気分になる1万円札は福沢諭吉だ。

それぞれなにをしたかもすぐに書ける。

野口英世は大正期に黄熱病の研究をした医者。

樋口一葉は明治期に『たけくらべ』や『にごりえ』を書いた作家。

福沢諭吉は『文明論之概略』や『学問ノススメ』を書いた。それだけではなくて、『脱亜論』を書き、日本による朝鮮の近代化「指導」を主張した啓蒙思想家・・・・・。

 あれっ?1万円札のひとだけ経歴がなんか変だぞ?
まぁ、細かいことは気にしなくていいか。お札がなければ美味しいご飯も食べられないし、新しい服も買えないし、税金だって払えないから。
 いままで慣れ親しんだお札のひとが2024年度に、1000円札は大正期の医者である北里柴三郎に、5000円札は女性教育者の津田梅子に、1万円札は明治から昭和に活躍した実業家であり、埼玉県深谷出身の渋沢栄一といった具合に一新されるそうだ。

 埼玉新聞には「郷土の偉人」がお札になったと喜ぶ深谷のひとびとの声を紹介していたが、わたしは戸惑っていた。住んでいる地域が違うせいか、渋沢栄一が「郷土の偉人」と言われてもピンとこない。なので経歴を調べてみた。
 深谷で生まれた幕臣だった彼は明治維新後、大蔵省の役人になったが、すぐに辞め、実業家として500以上の会社の創設にかかわった。また、「道徳経済合一説」という理念を打ち出し、さまざまな社会貢献活動も行ったそうだ。

彼をひとびとは「日本資本主義の父」と呼んでいる。

 彼の作った会社の名前を調べて驚いた。いまでもある会社ばかりだからだ。
東京瓦斯
東洋海上火災保険
王子製紙
秩父セメント
帝国ホテル
京仁鉄道合資会社
 あれっ?「京仁鉄道合資会社」なんて聴いたことないぞ。どうやら朝鮮半島に日本のための鉄道を敷設する会社だったらしい。朝鮮半島に作った会社はこれだけではない。黄海道に農業拓殖会社を作り、その土地に住む小作人たちから過剰に小作料を搾取していたという。
 とんだ「道徳」の持ち主だ。
そんな「社会貢献」が認められたおかげか、大韓帝国が日本の保護国だったころ、韓国国内で流通していたお札には渋沢栄一の顔が描かれていたという。
 大変、「ご立派」な経歴を知ったわたしは「福沢諭吉と変わらない。」とつぶやいた。
 福沢も渋沢も「近代化」の立役者だが、間接的にも直接的にも植民地支配にかかわった。そうでもしなければ1万円札に描かれないという決まりでもあるのか。
 そんなことを言ったら、大方のひとはきっとこう言うだろう。

「もう決まったことだし、どうせそのときになったらお前も使うんだから気にするな。」


 たしかに生きていくためにお金を使う。しかし、お札に描かれたひとがなにをしたかという事実は残る。
 戦前から戦中にかけて植民地朝鮮から多くの労働者が埼玉にやってきた。軍需工場で「お国」のために働かされるためだ。
終戦後、無責任に放り出された労働者たちは生きていくために、よく食べていた豚のホルモンを串に刺して焼き、売り歩いた。
 これが埼玉名物「やきとん」のはじまりである。
 そんなことを食卓で父から教わったわたしは気にしないよう、記憶の扉に蓋をしても、気にしてしまう。だって、わたしもそんな労働者たちの「同胞」として生まれ、埼玉でやきとんを食べながら育ったんだから。
 それでもこの1万円札を使うために忘れなければいけないのか。
そう感じだとき、1万円札が「戦後日本の象徴」のように思えてきた。「植民地支配の責任」を問われれば「お金を払ったからいいじゃん。」と公言するひとたちがずっと支配してきた。彼らにとって、植民地は「忘れ去られた過去」なのかもしれないが、支配された側にとって、植民地だったがゆえの問題が無責任に放置され、声を出せばお札を手渡され、沈黙させられることがずっとつづいた。
 なにも解決しないまま、いまに至っているのだ。
 来月から「日本国民統合の象徴」が替わり、令和時代を迎えるが、新時代に作られる新しいお札を見るかぎり、都合の悪いことはお札でごまかす発想は変わらないようだ。
 渋沢栄一を「はじめてお札のひとになった埼玉の偉人」なんて胸を張るよりも、名の知られたひとを無理矢理「埼玉とゆかりのある偉人」と言ったほうがよっぽどいい。
 こんなことを言っても2024年度には、われらが「郷土の偉人」の描かれた新札をほしがっているだろう。お金がなくて、ぢっと手を見る生活はごめんだから。

 それでもわたしの記憶を黒々とお札でぬることはできないんだよ。