社会のことなんか考えられないよ

 ついつい飲みすぎてしまって終電を逃した私は24時間営業の居酒屋に入って、酔いさましのためにウーロン茶を頼み、ちびちび飲みながら、入管法改正案が参議院で可決された様子を店内のテレビで観ていた。

 同席していたひとはテレビを観ながら、「はぁ。」とため息をついたが、深夜なのに騒がしい店内だったせいで、その声はかき消された。

 高校時代、日本史の先生が治安維持法について教えていたとき、「悪い法律はいつの間にかできてしまうんだよな。」とボソッと言った。まだ高校生だった私はその言葉の意味が分からなかったが、大学に入り、教科書で「政治的無関心」という言葉に出会い、少しでも政治や社会のことについて関心を持とうと思った。

 どうやらこう考えているひとは私だけではないらしい。本や雑誌やネットのみならず、巷での会話でも、さまざまなひとたちが「日本のひとたちは政治や社会のことについて興味がない。」と異口同音に語る。

 きっと、学生時代の私であれば同じように語っていただろう。しかし、社会人になってから深夜の居酒屋で働くひとびとを観ていると「政治的無関心」には理由があることを理解するようになった。

 学生時代、私が通っていた自主セミでは、政治や社会のことに興味のあるひとたちが比較的多く集まり、ときには一触即発の事態になるようなスリリングで、学びの多い場だった。

 そのなかにいつも鋭い意見を言う同期がいた。彼女は尖った言葉を吐くタイプではないのだが、いつも絶妙なタイミングで言葉を放つ。そんな言葉にハッとさせられて、「このひとみたくなりたい。」と思うぐらいだった。

 そんな彼女とは卒業以来会っていなかった。お互いに社会人となり、学生時代みたく、気軽に集まることができなくなったからだ。ようやく彼女と会うことができたのは卒業して2年が経ってからだった。

 久しぶりに彼女と会ったとき、顔色が良くなかったので、私が「大丈夫?」と声をかけると彼女は仕事ばかりの毎日を送っていると語った。私は「やっぱり、そういうのは政治が良くないからなのかねぇ。」とオッサンみたな口調で言うと彼女は「仕事が忙しすぎて、政治のことなんかまったく考えなくなっちゃった。」と言った。

 「社畜」という言葉がある。「企業に飼いならされてしまい自分の意思と良心を放棄した奴隷(家畜)」という意味だ。朝早く目をこすりながら電車に乗って、意志や良心を放棄しながら仕事に打ち込み、疲れた身体で電車に乗って、家に帰る姿を自虐して言っている。こんな生活をやりたくてやっているわけではない。税金や光熱費、水道代の支払いはもちろんのこと、ローンや奨学金など支払わなければいけないものが山ほどあって、そのためにこの生活を止めることができない。

 私は同じ世代のなかでもまだマシなほうだと思う。仕事も辞めて、病気になってしまったが、運よく本は出せたし、お金はなくてもまだなんとか生きている。

 そんな私が日々の生活に追われているひとびとに「政治に関心を持ってください。」とか「社会にもっと関心を。」と言っていいのかどうかいつも悩みながら鉛筆を握っている。

 こんな「社畜」と自虐しなければいけない生活を送っていたら社会のことに関心を持たなくなるのは当たり前だ。向き合う時間や体力もないのだから。

 深夜の居酒屋で働くひとを観て、疲れ切った顔をして、私に政治のことを考えられなくなったと語った彼女を思い出す。

政治的無関心」という教科書に載っている言葉の正体は生きていくため、「社畜」にならなければいけない今のことだ。そして、無関心であることを嘆くよりどうしてこうなっているのかを問わなければいけないと思う。

 始発の時間になったので、私は店を出て、電車に乗った。朝早い時間なのに、席は埋まっている。このなかにどれだけのひとがこれから仕事場に向かい、これから仕事で疲れた身体を休めるために自宅に帰るのか。
 24時間営業の居酒屋で客としてサービスを受け、二日酔いの身体で電車に乗っている私がこんなことを言えないのことは分かっているが、これだけ言わせてほしい。

 こんなに働かされていたら社会のことなんか考えられないよ。

あのスラッシュはまやかしだった

  小さいころに通っていた公文の教室で学習図鑑『日本の歴史』と出会ってから私は日本史オタクになった。

 「どんな時代が好き?」と訊かれると小さい私は決まって「戦国時代」と答えていた。多分、父が借りてきてくれた日本史のビデオが「徳川家康」だったからだと思う。

 歴史オタクは自分の好きな国や時代以外のことはあまり知らない場合が多い。

戦国時代オタクだった私もそうだった。

 ある日、久しぶりに『日本の歴史』の年表を観ていると1945年以前と以降でスラッシュがあることに気づいた。

 父に訳を尋ねてみると「日本が戦争に負けて、新しい国になったから。」と答えてくれた。

 小学校6年生になるとそのスラッシュに再会した。

日本史の授業を受けていた私はちょうど、1945年のことについて教わっていたのだ。

担任の先生は1945年に「日本は戦争に負けて、民主的な新しい国になった。」と教えてくれた。

 大人になった私は新潟県阿賀野川に行くようになった。そのとき、ある水力発電所へ案内してもらった。

 いまでも現役で稼働しているという大きなダムは、戦前に作られたもので、当時としては日本で最大の規模だったそうだ。

 そこへ案内してくれた人は私にこんなことを話してくれた。

 

 「金ちゃん、このダムは朝鮮半島からたくさんの人がやってきて、作ったものなんだよ。」

 

 その話を聴いたとき、妙な冷気を感じだ。それは地元で有名なある遺跡で感じた冷たさと同じだった。

 私の地元には吉見百穴という古墳時代に作られた横穴墓群がある。そこにひときわ大きい横穴があった。その穴は戦時中に地下の軍需工場として、3000人ぐらいの朝鮮人労働者が掘ったものだという。

 そのいわれを聴いて、穴のなかに入ってみるとどこからともなく冷気を感じて、寒さに耐えきれなくなり、すぐに外へ出た。

 あれは横穴特有の冷たい風たと思っていたが、阿賀野川のほとりで再会して、ただの風ではないことに気づいた。

 あの時代、日本にやってきた大半の朝鮮人たちは読み書きのできないものを言えぬ「安価な労働力」だった。そんな「労働力」は単純労働をしながら日本で生きつづけ、戦争が終わって、自らを「在日朝鮮人」と名乗るようになったが、故郷に2つの国ができたので、やがて「在日韓国・朝鮮人」と呼ばれるようになった。

 いまではそんなひとたちの5代目の子孫が生まれていて、路上に出てみれば日本語しか分からないのに「祖国へ帰れ!」と罵倒される。

 「日本にも移民がやってきた。」と語るひとたちを横目に、「昔からこの国には「安価な労働力」だった移民がいたんだよな。」と「安価な労働力」の子孫である私がひとりごちる。

そのひとりごとは真新しい「移民」ということばでかき消されてしまう。

まるで、そんなことは今までの日本ではなかったと言いたいように。

 入管法改正案が衆議院を通過したとき、「移民たちを「安価な労働力」としてしか考えず、そんな存在をなかったし、都合が悪くなれば罵倒することをまた繰り返すのか。」と天を仰いだ。

 この国へ希望を持ってやってきた外国人たちに「君たちは安価な労働力だ。」と私は言いたくない。

 1945年のスラッシュと「在日韓国・朝鮮人」の中黒は戦争に負けて、民主的な新しい国になったこととと冷戦で故郷に2つの国ができてしまったことの2つの現在を現わしていると思っていた。

 だが、あの改正案が強行採決で通ってしまったことを知って、外国人をただの「安価な労働力」としてしか見なさない「美しい日本の伝統」のまえにあのスラッシュはまやかしであったと感じた。

 あのとき、私が学んだ「戦前」と「戦後」とはいったいなんだったのだろうか。

君はあの唄を歌えるか

 秋空になると急に肉まんが食べたくなる。私はお昼どきのコンビニに入って、秋の味覚肉まんを買うためにレジの行列に並んでいたところ、私の前の客で流れがつっかえた。

 つい最近、入ってきたばかりの新人店員だったのかレジ打ちでミスをして、もたついてしまったらしい。客は「急いでるんだから早くしろよ。」とつぶやいた。

 コンビニでバイトをしていたことのある私は「よくあるよねぇ。」と心の中で独り言ち、うだつの上がらない店員だった私とその店員を重ね合わせていた。

 パニックになってしまったのかなかなかレジ打ちができす、「スミマセン、スミマセン!」と片言の日本語で謝る店員を見て、客はしびれを切らして、こんなことを言った。

 「日本語のできるひとに替わって!」

 客の大きな声と長い行列に気付いたのか、流暢な日本語が喋れるであろう日本人の店員に替わって、トラブルは「解決」した。

そんなやりとりがあったあと、私が念願の「肉まんひとつ。」を言うためにレジへ行くと替わってと言われた店員が戻ってきて、レジの前に立った。
 交通費をケチるために自転車を乗り回している私だが、このときは肉まん以外にもコロッケを買って、店の外に出た。

そして、私はかつて聴いたことのあるあの歌を想い出しながら肉まんとコロッケを秋空の下で頬張っていた。

 何年前かの紅白歌合戦美輪明宏さんが『ヨイトマケの唄』を真っ黒な髪に真っ黒な衣装で力強く歌っていた。

そんな姿を観て、隣にいた父は号泣していた。きっと祖母のことを思い出していたのだろう。
 旦那が働かず、苦労して働いたという在日のおばあちゃんたちはよくいる。彼女たちから話を聴くと「あのひとがお金を持っていかなければマンションの1つでも建てられたわよ。」と語る。
 父方の祖母も彼女たちとまったく同じだった。父方の祖父は「フーテン」のようなひとで、そんな祖父の代わりに働いて、家族を養っていたのは祖母だった。あるときは幼かった父とともに近くにできた団地へゴム靴を売りに行き、あるときは「ヨイトマケ」のようなことをし、あるときは料理が苦手なのに親戚の焼肉屋へ働きに行った。

文盲だった彼女は文字が読めないことを同じ店で働く人たちや客になじられたこともあった。しかし、それでも子供たちのために働きつづけた。

その努力が実ったのか、彼女は自分の店を持つことができた。
 私が幼いとき、祖母の店までよく行っていた。赤いエプロンをして、店に立っている祖母の背中はいまでも忘れられない。

 店をたたんだあと、気が抜けてしまったのか、働いていたころの祖母とはうってかわって、小さな老婆になってしまった。苦労したことを何も語ることなく、私が小学6年生のときにひっそりと亡くなった。
 ゾラ・ニール=ハーストンの『騾馬とひと』のなかで、昔のことを尋ねられた黒人のおばあさんが「私は騾馬なのよ。」と語る場面がある。ただの労働力としてしか見なされない奴隷であったおばあさんのことばは私の祖母の生き様を思い出させる。

 そして、その生き様はかつてアメリカで黒人差別が今以上に激しかった時代を描いた人類誌だけではなくて、現代日本のコンビニでも出会うのだ。

   私が財布の紐をちょっとだけ緩くして、コロッケを買ったのは客からあんなことを言われた店員が祖母と重なって見えたからだ。せめて、私のお金が彼のポッケに多く入ってほしいと思うが、結局は安い給料で雇われているのだろうと店に貼ってある店員募集のポスターを見て思う。

 いま、政府が法律を変えて、外国人労働者を増やそうとしているが、そんな過去と現在を知っている私からしたら、安く雇って、気に入らないことがあれば、なじる存在を増やしたいだけなのかと感じる。
 この国にとって外国人とは「騾馬」なのか。

 外国人労働者を騾馬としか考えられないひとたちに『ヨイトマケの唄』を歌うことはできるのか。

 少なくとも、私は彼らよりも歌える自信がある。

 「僕をはげまし慰めたばあちゃんの味こそ、世界一」と。

まぁ、いいや、そこにいろい。

 談志師匠を好きになったのは若いころに演じていた『源平盛衰記』をYouTubeで聴いたのがきっかけだった。

 私が聴いた回では談志師匠がいきなり客席に向かって「立っているのは大変だなぁ。」と語りかける。どうやら、このときのひとり会は満員札止めで立ち見の客がいたらしい。

 「チケットを多く売りすぎるのも問題だなぁ。」とひとりごとのように言うと、談志師匠は立ち見の客にこんな言葉を投げかける。

 「まぁ、いいや、そこにいろい。」

  落語に完全無欠な聖人なんて出てこない。むしろ、どっか抜けた人たちばかりが出てきて、騒動を起こす。そういう人たちは現代だと「生産性がない」とレッテルを貼られておしまいなのだろうが、落語の世界ではどんな人でも「まぁ、いいや、そこにいろい。」でおしまい。「生産性」なんて追及した日には「お前は野暮だね。」と馬鹿にされるのがオチなのだ。

 談志師匠はそんな落語を「業の肯定」と定義したけれども、私は落語を「まぁ、いいや、そこにいろい。」と定義したい。

 先日、東上野の古い焼肉屋に行ったのだが、エプロンをしたおばあちゃんが一生懸命、客の応対をしていたが「こんな光景を見ることも無くなったなぁ」と少し寂しく思った。

 昔は焼肉なんてもてはやされる料理ではなかった。来るお客さんと言えば「同胞」ぐらいで、日本人のお客さんが現れることなんて本当にごくわずか。

それでも、「日本人が寝ているときにも働かなければいけない。」と口癖のように言っていた1世のおじいちゃん、おばあちゃんたちは懸命に肉をさばいていた。

 この社会は「まぁ、いいや。そこにいろい。」とは簡単に言わない。だから、泥水をすすりながら、ときに無学であることをけなされても、その一言を聞くためだけに、何でもやっていたのだ。

 やがて、商売が認められると、街の人たちは「まぁ、いいや、そこにいろい。」と言ってくれた。いままで同胞しか訪れなかった焼肉屋にも日本人がたくさん来てくれるようになったし、油まみれの汚い店がオシャレになって、今では着物を着た女性が応対し、神棚まで飾ってあるような高級店も現れるようになった。
 こうやって生きているのは在日だけではない。街を歩いてみると中国から来た人たちの店に入るとご飯のすすむ麻辣湯を出してくれるし、ちょっと自転車で走ればパキスタンからやってきた人たちが作った美味しいカレーを食べられる。電車に乗って蕨まで行けばクルドの人たちが作った美味しいスイーツを楽しめる。

 彼らがお店のなかで一生懸命生きる姿に自分の祖父母を重ねながらその店の味を楽しんでいる。
 移民たちが生きる姿はときに汚く見えてしまうかもしれない。だが、私はそうやって生きてきた人たちを誰よりも誇りに思っている。彼らが私の代わりに苦労してくれたおかげで今の私があるからだ。

 今日、全国で「反移民デー」と言われるデモが開かれていたようだ。私の地元もその現場になっていて、駅前には「反移民」を訴える人とそれに抗議する人たちがいた。

 私はその穏やかではない光景を見て、こう思った。

『こんなに頑張っても、まだ「まぁ、いいや、そこにいろい。」と言えないのか?』

 日の丸や君が代が作られるはるか前の人たちはどんな人間が来たとしても「まぁ、いいや、そこにいろい。」と言っていたのかもしれない。

 落語の噺は中国やインドから由来したものが多いそうで、落語そのものが移民みたいなものだ。もし、「落語は日本人にしか分からない。」と言えば、サンスクリット語の「ア・バ・ラ・カ・キャ・ウン」から由来していると言われている「あばらかべっそん」が口癖の名人8代目桂文楽が「そんなことを言ったら天が許しませんよ!」と怒るだろう。

 同じ伝統だというのであれば、私は国旗や国歌よりも「まぁ、いいや、そこにいろい。」を誰かと生きていくための合言葉にしたい。

「統一された祖国」よりも

 韓国を旅して回っていたころ、貧乏留学生だった私はいつもチムジルバンに泊まっていた。

 チムジルバンとは24時間営業のサウナだ。

その昔、詩人の田村隆一さんが「平日昼間の銭湯の幸せを味わったらカタギに戻れない。」と書いていたが、チムジルバンもまったく一緒。平日昼間のチムジルバンの幸せを味わったら、普通の社会生活はできなくなる。

 韓国伝統式のサウナに30分ぐらい入って汗を流す。そのあと、シャワーを浴びて、水風呂に入る。これが気持ちいい。
「身体が冷めてきた。」と思ったら、ちょうどいい温度の温かい風呂に入って、体を温める。

 風呂上がりに待っているのは冷たいシッケだ。
キンキンに冷えてちょっとシャーベット状になっている昔ながらの優しい韓国の甘さを熱くなった身体に染み込ませるのは格別だ。

 これを味わったらきっと「カタギに戻れない。」

 あのチムジルバン体験から4年が経った。私が「大統領」と呼んでいた「お嬢様」はさまざまな人が戦って手に入れた憲政によって弾劾され、監獄行きになり、留学先の選挙区から選出されていた地元の弁護士出身の国会議員が大統領になった。こんな出来事に喜びを感じていたのもつかの間、次は3回も金正恩氏と会った。

 わずかな期間の目まぐるしい動きに戸惑いながら、さまざまな人から「今回の南北首脳会談についてどう思う?」と訊ねられる。

 こうしたとき、訊ねた相手が望んでいるのは「在日として南北関係が平和になって、統一の第一歩となるのは嬉しいです!」という熱い答えか、「文在寅は北が好きで、今の韓国は親北だ。」という冷たい答えのどちらかだ。

 どうやらこのパターンはほかの人たちもそうらしく、3回行われた南北首脳会談を赤ん坊が初めて歩き始めたときのように目を細めて喜ぶ「当事者たち」の熱気のこもった声が紹介されている一方で、今回の動きを「南が北にすり寄っている。」と冷たい視線を送る人たちもいる。

 南北朝鮮をめぐる言説はいつもこんな「熱い声」か「冷たい視線」によって分断される。どちらの意見でもない私はこんな言説を目の前にして、いつも「うーん。」とうなってしまう。
 ちょっと遠い親戚まで集めてみると、朝鮮籍韓国籍と日本籍を持つ人たちが顔を合わせる。このなかには済州島で統一を夢見ながら、「大統領閣下」を名乗る最後の李氏朝鮮の国王が率いる軍隊に殺された人もいるし、その影響からか、国家保安法という対共産主義者の法律があるゆえに、日本籍を持つ私のように韓国のチムジルバンでシッケを楽しめない人もいる。
 別の親戚に顔を向けてみると、かつてクリスチャンであるからという理由で「首領様」と呼ばれているソ連からやってきた革命青年の軍隊に追われ、大切な義兄を殺された人もいる。私はその影響で平壌に行くことはできない。クリスチャンである私も彼と同じようになってしまうかもしれないから。

 だから、集まったとしてもそれぞれが「本音」を話すことなんてできない。

 文在寅大統領が平壌で「私たち民族は優秀です。私たち民族は強靭です。」と語る声を聴いた。

 「民族」だの「国家」だのに振り回されている親戚たちを見ていると、この言葉がとても空虚に聴こえる。見えない38度線に生きている私は「70年間、南北に分断された民族が待ち望んだ統一された祖国」ではなくて、「さまざまな属性を超えて、切実な声をもった人たちの緩やかで誰も排除しないつながり」を望んでいるからだ。

 「統一」という言葉は「民族」や「国家」の名のもとに血を流した人たちの記憶を忘却するものではなく、そんなつながりを作る第一歩として、南北双方が自己の問題に向き合うための「合言葉」となってほしい。

 チムジルバンで冷たい水風呂に入ったあと、温かいお風呂に入る瞬間が一番、気持ちい。もし、チムジルバンに熱いサウナと冷たい水風呂しかなかったら体調を崩すだろう。
シッケもあの温かい風呂があるからこそ美味しい。

 今、私の目の前に広がる南北関係をめぐる言葉はサウナのように熱いものか水風呂のように冷たいものだ。しかも、率先して、そのどちらかを「代表」しなければいけない。

 こんなとき、私はあの温かいお風呂を懐かしく想う。

サウナで汗をかいた身体をさっぱりさせるためにも、冷たい水風呂で凍えた身体を温めるためにも必要だし、あのちょうどいい温度の温かいお風呂のような感じだからこそ言えることがあると思う。

 それにそのあとのシッケの味も美味しくなるんじゃないかなぁ。

私がこの人と本を出そうと思った理由

  去年の今ごろだっただろうか。

私のTwitterアカウントにある人からダイレクトメールが届いた。読んでみると送り主は埼玉にある小さな出版社の編集者で、ブログに書いた文章をその人が出しているコミュニティー雑誌に掲載したいので会いたいとあった。
 私はとても嬉しく思って、自転車で片道20キロもある彼女が店主をしていた蕨のブックカフェに向かった。

 彼女とはじめて会ったとき「本当に25歳なんですね。良かったー。」と言われた。Twitterですっかり年齢詐称キャラが定着してしまったと思って苦笑した。

 私は彼女に私の来歴を含めて、このブログにまつわる様々な話をした。彼女は私の話をじっくりと聞くと「長い間、在日の本を出したかったんです。もしよければうちで本を出しませんか?」と言い出した。

私は「是非ともよろしくお願いします。」と答えたと思う。

その日から私と彼女の冒険が始まった。

 私は毎日、自転車で編集者のいるブックカフェに通った。編集者と頭を突き合わせて、ブログをひとつの作品にするためだ。彼女は私の文章に容赦なく、ダメ出しをした。ゲラはみるみるうちに、真っ赤になっていく。

第1稿、第2稿とこれでもかというぐらい文章をともに研いでいった。ときには深夜3時ぐらいまで作業していたこともあった。そんなとき、私は近くの銭湯に行き、編集者の家に泊まらせてもらった。

 こんな日々が1ヶ月ほど続いただろうか。

 ここまで出来た理由は彼女の情熱だったと思う。彼女のまた私と同様、文章という形でヘイトスピーチに対抗できる方法はないのか模索していたのだろう。在日と長い付き合いがあった彼女は私以上に在日のことをよく知っていたし、文章のことも私に教えてくれた。だが、不思議と私に対して威圧感はない。下手をすれば親子ぐらい年齢が違うのにもかかわらず、どこぞの馬の骨だか分からない私を対等な立場として作品を作るパートナーとして完成までともに走り続けた。

 今でも彼女には私のブログを厳しく批評してもらう。それが何よりも嬉しい。あのとき、2人で本を作った日々はまだまだ続いているし、また彼女と一緒に本を作りたいと思っているからだ。

 そんなときのことを思い出しながら、私は新潮45のあの記事を読んでいた。

本を作っている人間であれば、あの記事を読んで思わないことはないはずだ。

 私たちはなんのために本を作っているのだろう。

それは読者というまだ会ったことのない私の友人たちとともにさまざまなことを分かち合うためだ。

 「手に取っているアイツには金がないかもしれない。」

と思って、粋がった25歳の兄ちゃんの文章をいくらで買ってくれるのかということにビビりながら、値段の相談をした。

  「会ったことのないアイツが少しでも読みやすいように。」

と祈って、読みやすいフォントにしてもらった。

「本はアイツの一生を左右するかもしれない。」

と考えて、編集者とゲラに向かい、文章を研ぎ澄ましていた。

これが書く人間のプライドだ。

こんなへっぽこで生意気な新人ライターでも分かってる。

 そんな私の本だが恥ずかしいことに売れているとは言い難い。正直、生活だって苦しい。「理念だけじゃ、メシは食えない。」という現実を噛み締めながら、それでも業界の片隅で生きている。「こうした生き方も長くはないかもしれない」と、ときに思いながら、それでも本を作ることが大好きだ。

 きっとそれは私自身が本によって、助けられた読者であるからだろう。悩んだときには本を開いたし、言葉が見つからないときには本で言葉を探した。そういう気持ちで読んだ坂口安吾の『堕落論』も、中上健次の『日輪の翼』も、フォークナーの『サンクチュアリ』もすべて新潮社から出された本だった。

 新潮社という大手の出版社のなかにも「本作りの職人」としてプライドを持った人たちが何人も居るだろう。私は抗議のためのデモへ出ることはない。「文でやられたら文で返す。」のが信条だし、私よりもキャリアを積み重ねている本作りの先輩たちが持つ矜持を信じたい。

だからこうして書いている。

 親愛なる新潮社の本作りの先輩たちへ

本を作っているとき、Yondaのトートバッグにゲラを入れていました。
図書館で本を借りるとき、可愛いパンダのトートバッグに本を入れています。

これから本を買うとき、古くなった新潮社のトートバッグを使うでしょう。

 あのパンダをこれ以上、泣かせないでください。

そういう「日本人らしさ」はもういらない

    今年のサッカーワールドカップ日本代表は「訳の分からない」チームだった。

「訳の分からない」ままハリルホジッチが解任され、西野が新監督になり、

「訳の分からない」ままワールドカップでベスト16に残り、

「訳の分からない」まま森保が代表監督として、先日、初采配を振った。

   ワールドカップでの反省はこれといってなく、ただ、なんとなーく「ベスト16でよかった!感動をありがとう!」という空気だけがあった。

   こんな日本代表がベスト16まで行ったのは同じグループのチームにとって「訳が分からなかった。」からだろう。直前で監督を変えて、プレーモデルがあるのかないのかハッキリしないサッカーを展開したおかげで、真面目に対策をしてきた相手チームのコーチたちは「訳が分からない」渦に巻き込まれた。

 そんな「訳の分からない」チームをテレビでは「日本人らしいサッカー」として称賛した。確かにあれは日本人らしい。作戦があるのかないのか「曖昧」で、何をやりたかったのか分からない。

 唯一、曖昧じゃなかったのはベスト16になりたいからポーランド戦で途中無気力プレーになったことぐらいか。

  日本人にとってどうやら「曖昧さ」は美徳なようで、日本の文化や日本語の特徴として「曖昧さ」が強調される。

 どうやらその影響は政治の世界にも及ぼしているらしい。大学時代、日本政治を学ぶ講座で講師は「55年体制の日本政治の特徴は曖昧なところにある。」と語っていた。

 そんな政治のあり方を改革するためなのか、今の政治家たちは「日本人」であることをこの国に住む人たちに求めながら、「曖昧さ」からは程遠い、断言口調で政治を語る。

 そんな新しい政治家が何を考えたのかTwitterで「ノーベル賞、オリンピック等で快挙を成し遂げた日本国民には、二重国籍の特例を認めたらどうかな。」と言い出した。これもまた「日本人らしい」と苦笑しながら私はとある「在日あるある」を思い出していた。

 いろいろな在日から話を聞いていると、1度は日本への帰化を考えたことのある人が割と多く存在することに気づく。

 帝国植民地の臣民で、戦後に何の選択肢も与えられず、国籍を奪われた人たちが戦後、ふたたび帰化をするなんて変な話なのだが、日本国籍を取っていれば何かと便利だ。
 だが、それと同じくらいに帰化に「挫折」したという話も聞く。

 ある人が帰化するために膨大な書類を作った。普通は行政書士に頼るが、なかには学んだこともない「祖国」の言葉と格闘したり、韓国語のできる日本人に頼んで書類を用意する。その人はお金があったので行政書士に頼んだらしい。多額のお金と膨大な時間を使って、自分の半生を語りながら行政書士に本当に帰化できるかを訊ねる。

 行政書士はじっくりとその人の話を聞いたあと「○○さんは、帰化が難しいかもしれないですね。昔、やんちゃされていたんで警察に記録されているかもしれないです。」と言った。

 ここで心が折れて、その人は帰化を諦めたという。

しばらくして、若いころ、一緒にやんちゃをしていた仲間の在日が帰化したという噂が出た。

 そのとき「どうして俺以上にやんちゃだったあいつはOKなのに俺がダメなのか?」と思ったらしい。

 帰化のハードルは高いというが帰化できてしまった私にはよく分からない。ただ、そんな経験をした人たちにとって、ものすごいハードルがあると感じるのは当たり前だろう。

 在日の中には帰化した「同胞」を「特権階級」だと言う人やなかには「裏切り者」だと言ってしまう人も居る。かつて、朝鮮籍から日本籍に帰化した山村政明という青年は日本籍であったことを理由に在日から差別を受けて、自ら生命を絶った。

 曖昧な帰化制度と在日が心のよりどころとしていた民族精神がぶつかったときの音はとても不気味だ。

 「それなら、そんな閉鎖的な在日の社会から逃げて日本社会に溶け込めばいいじゃないか」と言う人も居るかもしれない。

ところが現実はそんなに甘くないのだ。

 ハローワークで名前を書いて職員に見せれば、一言目に言われるのは「帰化されていますか?」だ。そんなことを言われなくてもとっくに帰化してるって(苦笑)   

 選挙権や被選挙権はどうか?

 たしかに私のような日本国籍を持っている在日は、ほかの在日とは違って、参政権を持っている。その権利を信じて、選挙活動を手伝おうものなら「なんで帰化した人がそんなことをやってるの?」と言われ、議員になろうとしたら次は選挙期間中に「1966年に北朝鮮から帰化。」と黒シールを貼られるか(朝鮮籍朝鮮民主主義人民共和国国籍ではないことぐらい勉強してほしい)、法律や行政の瑕疵なのに「二重国籍だ。」と言われて、党の役職まで辞任しなければいけなくなる。

 まぁ、後者のほうはバカ真面目に帰化した「証拠」として、見せなくてもいい戸籍謄本を公開し、「公職に就いた帰化者は帰化した証として戸籍を見せなければいけない」という前例になりかねないことをしたわけだからより始末が悪い。

 帰化した在日が特権階級なんて嘘だ。

日本の人たちは旧植民地の子孫だろうが元外国籍の人が日本の政治にタッチすることはお嫌いなようだ。

 あれだけ「曖昧さ」を美徳としているのにこれだけはハッキリしている。

 こんな愚痴を「生粋の日本人」だという友人に漏らすと「そんなことで悩まない方がいいよ。心まで日本人になれば良いじゃないか」と言う。

 出た!

日本人の美徳 The 曖昧!

Simple2000シリーズで見かけた(ような気がする)ゲームをここでやるのか!

「心まで日本人になる」って一体、なんだ?

もう国籍を取ったから日本人じゃないのか?

あれか、「心まで日本人になる」って「『おふくろの味は?』と訊かれたら『肉じゃが!』」って答えることか?

 だいたい、肉じゃがはそこまで好きじゃないし、私にとっておふくろの味と言えば、夏の暑い日に食べるやっすい素麺に、刻んだきゅうりと卵焼きと市販の自称キムチを入れて、そこにてっきとうな量のコチュジャンと砂糖と酢とごま油をまぜまぜした「自称冷麺」のことだ。

   私が帰化したとき、法務局の偉い人にそんなことを言われた記憶はないのだが、「日本人になる」ためにはその「自称冷麺」とおさらばして、「肉じゃが」愛好家にならなくちゃいけないらしい。

 グッバイ!自称冷麺!

こんにちは!肉じゃが!

 ところで肉じゃがって、「ビーフシチューの失敗作」じゃなかった?

どうやらこの話も「曖昧」らしい。

 西野が指揮した代表を「日本人らしい」というのには辟易としながら、納得してしまったのは曖昧でよく分からない日本人の基準を日々の生活で感じているからだ。

 二重国籍を認めることが大切だという人も居る。確かにそうかもしれないが、曖昧な基準で帰化できる人とできない人を選別し、帰化したとしても「心まで日本人になること」を求めている限り、制度論的な話をしても希望は見えない。ましてや、「国籍を与えてやる」という国会議員様にとっては「いいことやってるのになぜ?」と思っていることだろう。

 私が求めたいことはそういう「日本人らしさ」はもういらないということだ。