人柱を立てても災害は治まらない

  本題に入る前に私がこのブログを書く上で信条としていることを書く。まだひよっことは言ってもひとりの物書きとして、同じネタで同じようなことを書くのは嫌だと思うものだ。読者から「それしかネタがないの?」と思われてしまうし、書く側も同じネタだと飽きる。

 これから書く災害に乗じた差別的なデマについては何度もこのブログでテーマにした。これを書くたびに思い出すのは関東大震災のデマで地元の人に無残にも殺されてしまった朝鮮人ことだ。

 実は最近、私が住む街の近所の寺に関東大震災後のデマで虐殺された朝鮮人の墓の存在を知った。初めてそこに行ったとき、墓の前には妙な静寂と緊張があって、「何かを伝えたい」という念のようなものを感じ取った。私が何か書いたとしてもデマはなかなか消えない。こんな現実に押しつぶされそうになりながらも今日も災害とデマの件について書こうと思う。

 関西で記録的な大雨で大きな水害が起きていることをテレビやネットで知る。平成で最悪の犠牲者の数であるという話も聴いた。こうした災害に対しては腰が重いのか政権も動きが遅い。そんな現実を見ていてかなりイラっとしながらもネットでこの水害について情報を得ようとするとまたいつもの災害デマに出くわす。
「こうしたときには外国人窃盗団が強盗をしているそうなのでご注意を。」

「どうやら強盗は地元のナンバー以外の車で各地を回っているらしい。」

 これを読んでいて思うのは年々、デマの質が巧妙化していることだ。私が被災者であれば信じてしまいそうだし、妙なぼかし方がこの話に真実味を与える。3・11のときのデマはもっとくっきりとした輪郭をしていた。しかし、こんな伝え方をされれば信じてしまうのも当たり前かもしれない。かつて関東大震災後に朝鮮人を虐殺した人たちもこんな言葉を信じたのだろうか。

 ずっと言わないようにしようと決めた言葉がある。

それは「昔はよかった。」という言葉だ。昔を美化しても今は何も変わらない。私の中では現実逃避の言葉だと思っていた。

 『在日』というドキュメンタリー映画がある。1997年に公開されたこの映画は光復(解放)50周年を記念して作られ、50年に及ぶ在日の歴史を描いている。『在日』を観たとき、「様々な歴史があってもこれからの若者たちは明るい未来に向かって歩き出す。」ということを監督である呉徳洙氏が伝えたいことだ私は思った。この映画は希望に満ち溢れているし、「在日はやがて居なくなる。これからは韓国系日本人になっていくんだ。」とポジティブに言われたあの時代を表していると思う。

 しかし、現状を見ているとあの映画が想定した明るい未来とは違った。ネットを観ればヘイトに溢れているし、災害のときになると悪質なデマは流れ、災害と差別的なデマの両方に怯えながら生活しなくてはいけない。

 この作品を観たあと、この映画と今のギャップを感じた私は「昔はよかった。」と独り言ちた。
「あんな時代もあったねときっと笑って話せるわ」と中島みゆきは歌っているがまだ笑って話すことはできない。そんな時代が来て欲しいと願いながらも現実はなかなか難しいことをネット世界の言葉の濁流に飲み込まれて思い知った。
 とある地方に行ったとき、昔、大きな水害が起きてどっかから来たよそ者をいけにえにしてそれを治めたという「人柱伝説」を地元の人から聞いたことがある。その話を聞いたときには「そうなんですか。昔はむごいことをしますね。」と思ったがどうやらそれは昔から変わらない。「よそ者」だと見られている人たちを人柱の標的にするかデマの標的にするかの違いだ。今も昔も変わらない事実に気づくが喜ぶことはできない。

 デマを流す人たちにとって「よそ者」は人柱なのだろうか。もうそんなことで災害を治める時代ではないはずのだが。

「平成」という言葉を探して

   私は平成3年に生まれた。生まれたときの日本はすでにバブルが終わっており、混迷の時代が始まっていた。

   私が一番、古く記憶しているニュースは阪神淡路大震災だ。小さい頃からテレビっ子だった私はいつも観ていた教育チャンネル(3番)で眉毛の長いおじいさんが何かを喋っていたのを憶えている。

のちにこのおじいさんが村山富市首相だったことは小学生か中学生のときの社会科の授業で知った。

   そのときからテレビ画面で観る日本はいつも混乱していた。不況や就職難であったことに加え、残酷な殺人事件も起きたし、テロや戦争も起きた。政治の世界はと言うと、大人たち曰く「何かが変わった。」らしい。

   テレビ画面の向こうのできごとを観ながら、いつの間にかこれは私とは別の世界のできごとであり、全く関係のないことだと思うようになっていた。

ようやくディスプレイの向こうが自分のことであると認識したのは大学に入学する年に起きた3・11だ。あのとき、未曾有の大災害の前で普段、偉そうにしている大人たちが慌てふためいているのを見て、私は彼らの地のようなものを見せつけられたように思う。

   そんな平成を観てきた私にとって物凄く印象的な人が2人居る。

それは小泉純一郎元首相と麻原彰晃元死刑囚だ。

   「自民党をぶっ壊す!」

「聖域なき構造改革

そんなキャッチフレーズとともに出てきた小泉元首相は政治のことなんか分からない小学生の私ですら印象的だった。ニュースや政治の番組を観ているとまるでスポーツのようで、世間が小泉純一郎一色だったと思う。多分、私が大学時代、政治学を専攻していたのはこのときの印象が頭の中でこびりついて離れなかったからかもしれない。

  しかし、私が大学受験をするあたりから小泉元首相のやってきた政策の歪みが少しずつ見えるようになった。私は1年間浪人をしているのだがそれは経済的なことが原因だった。そんな事情を抱えていたのは私だけではない。周りを見渡してみるとそうした境遇の同級生が4、5人居ただろうか。彼の言った「改革」が生み出した格差社会を私はこうやって経験した。

   そして、もうひとりは麻原彰晃だ。彼がテレビで取り上げられていたとき、私は幼稚園ぐらいだったがはっきりと記憶している。

初めて彼の顔を見たとき「こいつ、なんだかヤバい。」と幼心に感じた。事実、彼は様々なテロ事件を起こし、本気で日本国を転覆しようとしていたのだ。テレビで観る彼の率いていた教団は奇妙だった。信者はヘッドギアをつけているし、胡座をかいて空を飛ぼうとしている。

「カルト」という言葉を私が知ったのはこの頃だ。クリスチャンである私が教会で牧師の説教を聴くたびにオウムの話が出ていたと思う。教会の外へ出てみると事件の影響からなのか「宗教」を持つ人間に対しての偏見が出来上がっていた。何かの弾みで「クリスチャンです。」みたいなことを言うと「えっ!オウムみたいな怪しい団体じゃないよね?」と言われたこともあった。教会は胡座で空を飛ぶところではないはずなのに(苦笑)

確かにあれだけマスコミに出て、インパクトのあることをし続けたからそう思うのも無理はないかもしれない。

私はテレビで流れていた尊師マーチは忘れられない。今でも歌うことができる。

  この2人を挙げた理由は両人ともにマスコミによって自らを作り上げていたと思うからだ。センセーショナルに報じれば報じるほど彼らは社会の中に深く浸透していった。私はマスコミ批判をしたいわけじゃない。彼らは私たちの欲望を敏感に察知しているだけなのだ。それを考えるとこの2人は私たちの欲望の塊なのかもしれない。

   今朝、麻原彰晃の死刑が執行されたというニュースを観た。テレビにあった「執行予定」という文字はやはり「平成」を象徴していると思った。私たちはまだ消費し続けるらしい。

   今日、このニュースを観ながら平成生まれが平成を語る番が来たと感じた。昭和生まれから昭和天皇崩御のときを聞いたことがあるがどこか他人事だった。それは時代が終わるという感覚を想像できなかったからだ。

だが、今、ひとつの時代の終わりを生きる人間としてこの常軌を逸した「平成」という時代をどう語るべきなのかを試されている。

だが、この雰囲気をどう伝えればいいのかまだ言葉が見つからない。まだこの空気は生きているんだから。

靴を脱いで、お辞儀をして

   最近、寄稿したHAFU TALKや蕨で作っている途中のココシバなど、私の周りではクラウドファウンディングに挑戦する人たちが多い。

   とある人からあるクラウドファウンディングページを教えてもらった。そのページとは『スラム街の暮らしを肌で感じたい』と題されたフィリピンのスラム街に行くためのクラウドファウンディングだ。

   それによると1週間、フィリピンのマニラに住み、そこにあるスラム街に住みながら、映像に撮ることを目的として、お金を集めていた。

   そのページに書いている文章から醸し出されている変なテンションであったり、大学生特有の「意識の高い」言葉(と言ったって、これを書いている私はまだひよっこの26歳。こんなこと言うようになったか。嫌だ。嫌だ。)に苦笑いしながらも、私が経験したことを思い出した。

 今年の4月、鶴橋に行ってきた。鶴橋と言えば西日本の中で一番大きなコリアンタウンとして知られている。以前から大阪出身の在日の人たちに「一度は行ってみた方がいいよ。」と勧められたこともあって、いつかこの街に行きたいと思っていた。

 実際に鶴橋に行ってみると確かに私が小さなころから通っていた東上野よりも大きな街だった。だけれども、私の中で鶴橋への対抗心があったのか「東上野のあの雰囲気の方が好きだ。」なんてこと思いながら街を歩いていた。せっかく、鶴橋まで来たのに、結局、思うことが「どんないいところに行っても我が家が最高。」みたいなことを思っていては旅になっていない(笑)
 街を散策しているとある内臓肉を売っているお店を通りかかった。その店に置かれているお肉の値段を見てびっくり。かなりいい肉が東上野ではありえないような安い値段で置かれてあったのだ。驚いた私は記録用にスマホの写メで撮ろうとしたときに、お店の人にこんなことを言われた。
「お兄ちゃん、撮らないでやー。」

そう言われた私はふと我に返った。

「ああ、そうか!ここは生活の場だった!」
私はすぐにスマホをしまって、「すみませんでした。」とお店の人に言ってその場から立ち去った。
 生活の場に土足で踏み込まれたら不愉快な気持ちになるのは当たり前だ。とあるサイトで東上野を面白半分に紹介するサイトを読んだが、とても不愉快だった記憶がある。だが、自分が旅行者であったり、観察者という立場になってしまうとそんな気持ちがどこかに行ってしまう。
もしかしたら、私の中に同胞だからという甘えがあったのかもしれないが私はその街の住人ではない。敷居を跨ぐとはどういうことなのか、そして、立場が変わってしまったら自分が嫌だと思っていたことをしてしまうことを学んだ。

 私は彼らに旅をするなと言いたいのではない。鶴橋で失敗したからこそ私は生活の空間を改めて考えるきっかけを得た。旅はこうやって人に新しい思考を与えると思う。だが、生活の空間に踏み込むのであれば靴を脱いで、お辞儀をしながら「失礼します。」と一言言ってからにしてほしい。そこに住んでいる人たちは見世物じゃないし、そこに行ったからと言って、すぐに分かる生易しいものじゃないことだって分かると思う。

 そして、私がこの件で一番怖いと思っていることは旅先での失敗ではなくて、大人からの意見に対して、このプロジェクトを考えた学生たちが何も考えず、ただ謝って終わらせることだ。それではどうしてこういう意見がたくさん出たのかを深く考えることがなくなってしまう。大人にとって重要なことは謝らせることではなくて、考えさせる言葉を学生側に対して真摯に伝えることだし、学生にとって重要なことは大人の言葉を真摯に受け取って、何がいけなかったかを考えて自分の言葉で語ることだ。
 インターネットの世界の中だからこそお互いに靴を脱いで、お辞儀をして言葉を交わす姿勢が大切なんだと思う。

終わらない戦争を語ろう

 68回目の6月25日はとても晴れている。あの戦争が起きたときもこんな青空だったのだろうかと思いながら私は朝ご飯を食べて、自転車で図書館に行く準備をしていた。きっとあのときも人々は普通に過ごしていたに違いない。そんな日常が失われてから今日で68回目になる。

 今日は朝鮮戦争の開戦日だ。韓国ではこの戦争を「韓国戦争」もしくは「ユギオ」(「6・25」の韓国語読み)と呼び、北朝鮮では「祖国解放戦争」と呼ぶ。突然、始まったこの戦争は朝鮮半島全土を戦場にし、様々な人を犠牲にして分断を確定的なものとした。一応、休戦協定締結以来、大規模は戦争は起こっていないものの、準戦時体制は続いている。

 釜山に留学していたとき、私は大学の寄宿舎からバスに乗って買い物に行こうとしていた。ある交差点に差し掛かった時、突然、バスが止まった。何事かと思って、運転手に話を聞いてみたところ「国民訓練だよ。」と言われた。韓国では北朝鮮の侵攻に備え、避難訓練が行われている。そんな出来事と遭遇したとき、私はまだ韓国と北朝鮮が戦争状態であることを実感した。ここ数年、南北が融和ムードになりつつあって、つい先日、文在寅大統領が朝鮮半島での冷戦終結をロシアの下院で宣言したことを知って、何かが変わろうとしていることを感じた。だが、戦争は政治指導者の鶴の一声で終わるものではないことを私は知っている。

 朝鮮戦争が起きたとき、ソウルに住んでいた私の祖母はまだ23歳だった。突然、起きた戦争に驚いたと言っていた。祖母の家族は植民地時代からのクリスチャンホームで牧師や宣教師を多く輩出していて、戦争中にクリスチャン狩りをしている噂があった朝鮮人民軍の手から逃れるためにソウルを脱出し、様々な場所を転々としていた。
 戦争が落ち着いたある日のこと、事件が起きた。一家でソウルに帰還するため、汽車に乗っていたとき、朝鮮人民軍と居合わせてしまった。逃げなければいけないと思った祖母たちはすぐに汽車から飛び降りその場を脱出した。しかし、後ろの車両に乗っていた祖母の姉の夫はそれに気づかず、そのまま捕まってしまった。有名な宣教師だった彼はその日以来、家族のもとに帰ることはなく、そのまま北朝鮮に連行されて殺されたという。戦後、祖母の姉は子どもを抱えて窮乏の中で亡くなった。

 それから何十年も時が経ち、祖母が亡くなる前にこんなことがあった。末期の大腸がんで、鎮痛剤を打っていた彼女は意識が朦朧となりながら介護をしていた私に「どうしよう。パルゲンイ(韓国語で「アカ」の意味)と憲兵が追いかけてくる。」と話していた。私は気丈だった祖母の怯えた顔に驚き、一晩寝ずに隣に居た。その話を母にしたところ、母は「昔からずっとそう。」と言った。祖母は戦争の悪夢にずっとうなされていたのだ。

 戦争が起きているときは明日死ぬかもしれないという恐怖と戦いながらどうやって生きていこうかということしか考えない。きっと朝鮮戦争中に様々なところを転々としていた祖母もそうだったと思う。しかし、戦後になってから戦争の悲惨さを様々な形で体験することになる。その悲惨さがあまりにも酷すぎて口にできない人たちも存在する。

 いくら政治指導者たちが「戦争は終結した。」と言っても、普通に生きている人たちの心の中では戦争が起こり続ける。きっとこうした心の動きは国境や人種を越えるのではないだろうか。日本でもアジア太平洋戦争で祖母と似たような体験をした人たちはたくさん居ただろうし、ベトナム戦争や中東で起きている戦争でもそうだろう。

 「戦争を知らない世代」と私たちは言われるが、きっとそんな私たちも戦争を見ている。それは戦争によってトラウマと生きなければいけない人たちの戦後のもがきという戦争だ。

ロックンロールは生きている

  私は高校生の頃から忌野清志郎が好きだった。最初に清志郎を知ったのはタイマーズの曲がきっかけだった。今まで聴いていた曲に何か物足りなさを感じていた私は過激なスタイルで暴れまわる清志郎に魅了された。そんな私が次に好きになった曲は『君が代』だった。ミニアルバム『冬の十字架』に収録されているこの曲は君が代をカバーしながら、よーく聴いてみるとアメリカの国歌が流れていたりする名曲で、アルバムが出される際にはかなり問題になったらしい。私の知っているロックとはこんなことを平気でやってしまう音楽のことだ。

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 こないだ、話題になっているRADWIMPSの『HINOMARU』の歌詞を読んだ。歌詞はここでは書かないがかなり軍歌っぽい。どうやらボーカルの野田洋次郎氏に言われれば軍歌だと思って作ったわけではないらしいが、なんだか妙な違和感を感じるとともにこういうのは自分が聴いてきたロックではないと思った。
 私の身の回りだけなのか知らないが在日のおっさんの口癖で「民族のために、祖国のために」なんていう言葉をよく聞く。自分自身を元気づけるためなのか何なのか分からないが、私はこの言葉を聞きながら「何が民族とか祖国だよ。言葉も喋れないじゃんか。」なんていうことを思う。愛国心ではないけれども、それに近い感情をマイノリティー側も持っている人たちは少なくない。
 「民族」や「国家」という言葉はとても不思議だ。唱えれば唱えるほどなんだか自分がその一員のように感じてきていつの間にか強くなったような気になってしまう。しかし、民族や国家なんて所詮、近代の作り物でしかないし、その作り物に求愛することによって、自分自身の立ち位置を確認しているだけにしか過ぎない。

 そんな求愛の先にあるものは「死」だ。「民族」や「国家」を愛していると自ら表明する人ほど先に罪のない人間を殺していくし、最終的には自身も死に向かっていく。
 私の親族には「民族」や「国家」の間で死んでいった人間たちが数多く居た。ある親族は日本軍に家族を皆殺しにされ孤児として生き、ある親族は統一を望んだばかりに韓国軍に殺され、ある親族はクリスチャンであったばかりに朝鮮人民軍に殺された。殺した側はきっと「善良な人間」であったと思う。本気で民族や国家を考えた先に私の親族の生命を奪っていったのだ。殺した側は今頃何をしているだろうか。もしかしたら、国家の英雄として処遇されているかもしれないし、どこかで生命を落としたかもしれない。

 殺された側はこうしたことをいつまでも記憶している。ただ、声に出せないだけで、私と同じ立場の人々が「民族」や「国家」という言葉を使うと「もしかしたら次は私の番ではないか。」と思って、顔がこわばる。
 清志郎タイマーズを結成したり、『君が代』をリリースした理由は彼の母親が戦争で前夫を亡くしていることを知ったからだという。きっと前の大戦のときも「民族のために、国家のために」と大真面目に言っていた人間から人を殺し、死んでいったのだろう。偉大なロックンローラーである彼もまた私と同じで声に出せない何かを背負っていたのかもしれない。
 私は人を死に向かわせる言葉よりも人を生かす言葉の方が好きだ。清志郎の歌には人を生かす力があると思う。きっと「ロックンロール」とは人を生かす言葉を指すのだろう。
 RADWIMPSのボーカルは「自分の生まれた国を好きで何が悪い!」とライブ中に言ったそうだ。彼もまた「善良で無垢な人間」なのかもしれない。だが、善良で無垢な愛国心はどこへ向かうのか。私たちが今、立ち止まって考えなくてはいけないところはそんなことだと思う。

懐かしのチョコパイ

  「懐かしさを感じるお菓子は?」と誰かに尋ねられたら私は迷わず、「チョコパイ」と答えると思う。

   我が家は4代続くクリスチャンで、教会に行くことが日課だった。私が小学生のときは、韓国からやってきた牧師さんが牧会を担当する韓国系の教会に通っていた。

  韓国系の教会は日本の教会とは違った文化を持っている。特に違うのは礼拝が終わった後に牧師さんや信徒たちみんなでご飯を食べることだ。もちろん、この場に出てくる料理は韓国料理で、私が初めて在日の料理ではない韓国料理を食べたのはこの場だったと思う。

  皆でご飯を食べるときに私みたいな子どもたちには必ずおやつが与えられる。そのときにおやつとして牧師さんから渡されるお菓子が韓国から送られてきたチョコパイだった。

  初めてチョコパイを口にしたとき、頭の中で「甘っ!」という言葉が頭の中に広がった。のちに私が韓国へ留学することになり、現地で韓国の甘いお菓子を食べたが、あの時代に比べて甘さ控えめにはなっていたもののそれでも日本のお菓子に比べて甘みが強い。

  こうした甘いお菓子が多い理由は韓国が貧しかったからかもしれない。朝鮮戦争後、韓国は物資不足に悩んでいて、特に砂糖が貴重品だったという。韓国の初代大統領の李承晩が記者会見をした際、その場に居た外国人記者に「我が国ではコーヒーの中に砂糖を入れるのではなくて、砂糖の中にコーヒーを入れるのだ。」という自虐じみた冗談を言っていた逸話もあるぐらいだ。

   小さいころの私は韓国のお菓子があまり好きではなかった。甘すぎるし、何かちょっとしつこいと感じたからだ。しかし、今となってはちょっと懐かしいと思える。

   先日、とある人たちと会って、一緒に食事をした。彼女たちは私とは違って、北朝鮮を祖国だとする考え方を持つほぼ同じ年の在日コリアンで、お互いの違いや共感できることを色々話していた。

  ある女性に「朝鮮に是非、行ってみてください。」と言われた。心の中で私は「ごめん。私みたいなクリスチャンは北朝鮮では立派な敵対階層になるから行けない。」と答えておいた。あのとき、私は口籠っていたと思う。

  逆に私は「韓国に行ってみるのはどうですか?」と言ってみるとある子は「行きたいんですけど韓国に国家保安法があるのでちょっと怖いんですよね。」と答えた。

  そのとき、私は彼女たちに「なんだ一緒じゃん!」と言いたくなったけど、なんか嬉しくなかった。

  彼女たちは帰り際に私へ北朝鮮で作ったというイチゴ味のチョコパイをくれた。手渡されたときに「おおっ!懐かしい!」と思った。小さいころ、牧師さんが私に手渡してくれたチョコパイもそんなパッケージだったような気がする。そのチョコパイを帰りの電車の中で一口食べた。

そのとき、「うわっ!久しぶり!」という言葉が私の頭の中で広がった。あの独特の甘さに久しぶりに出会えたのだ。なんだか懐かしい気分になりながら、私は電車に乗って家に帰った。

  6月12日に米朝首脳会談が行われるらしい。それに先立って、トランプは朝鮮戦争終結させるつもりだと意思を表明した。70年間、ずっーと続いていた戦争が終わろうとしている。

   似たようなチョコパイを作る兄弟同士が再び仲良くなれる嬉しい気持ちとまだ自由にお互いの国に行くことが行けない現実がある。

未だに私の中では整理がついていない。

  とりあえずホワイトハウスに韓国と北朝鮮のチョコパイを送ってみようかな。

  いつか私が安心して北朝鮮に行って、彼女たちが自由に韓国に行ける日を願って。

名もなきサラダ

 

 

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 我が家には謎のサラダがある。キャベツやにんじん、きゅうりの千切りが酸っぱいドレッシングで和えられていて、最後に粗く挽かれた唐辛子の粉を振りかける。暑いこの時期にはさっぱりしていて美味しい。
 小さいころからこのサラダを食べているのだが、どうやらこのサラダは焼肉屋をやっていたうちのばあさんが作り始めたものらしく、この頃から店に通うお客さんから評判が良かったようだ。現在、その味を私の父と母が引き継いでいて、我が家の味となっている。

 ところでこのサラダなのだが両親に聞いても名前が分からない。どんなに調べてもこのサラダの名前が分からないのだ。なので、私はこのサラダをただ単純に「サラダ」と呼んでいた。
 ところで、私の趣味はSNSでの「飯テロ」である。皆がお腹を減らしている時間に家飯の写真をアップロードする。写真をアップロードしているとき、YouTubeルイ・アームストロングのWhat A Wounderful Worldを流す。こんなことをしているときは「グッドモーニング」と言う時間ではなくて、「こんばんはー。」と言う時間だ。(このネタの意味が分かった貴方は多分、映画ファン。)

 この日も我が家のサラダの写真をTwitterにアップロードしてたけれども、「どうせだったらこのサラダの名前を知っている人が居たら教えて欲しいなぁ。」と思って、写真とともに「うちの父方のばあさん(済州島出身)がお店で出してたサラダなんだけど名前が分からない。」と言葉を添えた。
 やっぱりSNSは凄い。言葉の波に嫌になってしまうことがあるけれども、すぐにこのサラダがどうやら「チョレギサラダ」と呼ぶということを知った。

そうか、私が小さなころから食べ続けているこの「サラダ」はチョレギサラダと言うのか。

そんなことを思ったけれども、それでも私は今でもただ「サラダ」と呼んでいる。
 外から言葉を与えられていると、とても安心する。それは自分が何者なのかを誰かが決めてくれるからだ。私みたいな在日はそんなことが多いかもしれない。「民族」とか「国家」とかそうした言葉は最初から自分が持っているものではなくて、外の誰かが与えてくれる言葉だ。いつの間にか、そうした言葉が自分のものだと思い始めて、自分自身も外の誰かに「民族」とか「国家」といった言葉を教えてしまっている。
 でも、ときには外の誰かから与えてくれた言葉じゃなくて、自分の言葉で自分を示す言葉を作っても良いんじゃないだろうか。
 自分でそうした作業をするというのはとても孤独で苦しい作業になる。誰かから言葉を与えてくれるときの「分かってくれた」と思う瞬間は味わえなくなるし、そうした言葉を与えられたことによって何か社会的な地位を得たような気持ちも味わえなくなる。でも、そうした孤独で苦しい作業を経ている瞬間が一番、豊かな瞬間なのではないか。私がなんだか分からないもやもやをどこにぶつけて良いのか分からなかったころ、あのときの私はなんでこんなに苦しいことをしているんだろうと思っていたけれども、今から思い返したら、あのときは良かったと思っている。結果として、そうした瞬間があったからこそ、自分の言葉を今でも作ろうとすることになったんだから。そういうときがあったから私は私の言葉を大切にしようと思った。
 多分、私はこの「サラダ」を「チョレギサラダ」と名前を変えて呼ぶことはないだろう。それは「サラダ」と呼ぶからこそ私はこの料理を私のものだと感じることができるし、この「サラダ」を大切にしていきたい。

  今日も「サラダ」を食べてみる。

うん。私にしか知らないいい味だ。