ブログを始めてから

 新年明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願い致します。

 1月1日は午前中に礼拝へ行き、新年の方針を立て、午後はお世話になっている方々への年賀メッセージを書きながら、伯父の家に行き、伯父の昔話に耳を傾けていました。正月は過去と現在と未来の3つの時制の前で言葉にならない言葉と過ごす豊かな時間になりました。本当にこんな時間が1年の中であることは重要なことです。そういうわけで1月1日に記事を掲載しようと思いましたが、1日ばかし遅れてしまいました。書くという時間とは違って、3つの時間の中から生み出される言葉の海に浸かっていようと思ったからです。

  今日はこのブログが開設されたきっかけについて書きたいと思います。

私はもともと、このブログを書く前にFacebookに長文を書いていました。日常の中でやりきれないなと思ったことやこの世の中の動きが酷くなっていく怒りを書いていたんですね。まだ当時はブログをやるなんていうことは一切考えもしていませんでした。

ある日、私はある用事で友人に会った時、友人から「ブログを始めてみなよ」と言われたんです。私のFacebookの記事をずっと読んでくれて、せっかくだから様々な人に読んで欲しいと思ったそうです。Facebookのみで文章を公開するよりも、様々な人に読んで欲しいと思っていた時期でしたし、働き始めて考える空間が欲しいと思い始めてもいたので、このブログを書くことになりました。

 最初ブログを書くにあたっては良く分からないまま書いていたので、どんな文体が良いのかなと思いながら書いたり、たくさんの人に読んで欲しいと思って、Twitterで流してみたりと試行錯誤を繰り替えす日々でした。

 そんな試行錯誤をしている時から私は本当に「伝わる言葉を書いているかな」と不安に思うことがあります。私のブログは「私のエッジから観ている風景」としているようにあくまでも私という人間の観点を大事にしながら書いています。その中には私のエスニック・マイノリティーとしての点を強調して書くことがありますが、それはマイノリティーがどのような日常を送っているのかを発信していきたいと思っているからです。しかし、このような記述をしてしまうと、「マイノリティーとしての私」を強化するだけに留まってしまい、マイノリティーの日常が「向こうのこと」として消費されてしまうのではないかと考えています。本来、マイノリティー問題は日本だけではなく様々な共同体にある問題です。その普遍的な問題が「向こうの問題」として考えられがちで、いつも「う~ん」となってしまいます。そんな「向こうの問題」として考えることに抗うことがこのブログを続けている意味だと思っています。

 本当に考えるべき面がたくさんあります。マイノリティーの共同体に居る私をただ強化するだけではなくて、様々な私が私の中に居るということ、マイノリティーの問題を「向こう」の問題にしていかないこと、そして、「無かったこと」にしないこと。そんなことを考えながら今年もブログを書きつづけたいと思っております。

今年もどうぞ皆様宜しくお願い致します。