終わらない戦争を語ろう

 68回目の6月25日はとても晴れている。あの戦争が起きたときもこんな青空だったのだろうかと思いながら私は朝ご飯を食べて、自転車で図書館に行く準備をしていた。きっとあのときも人々は普通に過ごしていたに違いない。そんな日常が失われてから今日で68回目になる。

 今日は朝鮮戦争の開戦日だ。韓国ではこの戦争を「韓国戦争」もしくは「ユギオ」(「6・25」の韓国語読み)と呼び、北朝鮮では「祖国解放戦争」と呼ぶ。突然、始まったこの戦争は朝鮮半島全土を戦場にし、様々な人を犠牲にして分断を確定的なものとした。一応、休戦協定締結以来、大規模は戦争は起こっていないものの、準戦時体制は続いている。

 釜山に留学していたとき、私は大学の寄宿舎からバスに乗って買い物に行こうとしていた。ある交差点に差し掛かった時、突然、バスが止まった。何事かと思って、運転手に話を聞いてみたところ「国民訓練だよ。」と言われた。韓国では北朝鮮の侵攻に備え、避難訓練が行われている。そんな出来事と遭遇したとき、私はまだ韓国と北朝鮮が戦争状態であることを実感した。ここ数年、南北が融和ムードになりつつあって、つい先日、文在寅大統領が朝鮮半島での冷戦終結をロシアの下院で宣言したことを知って、何かが変わろうとしていることを感じた。だが、戦争は政治指導者の鶴の一声で終わるものではないことを私は知っている。

 朝鮮戦争が起きたとき、ソウルに住んでいた私の祖母はまだ23歳だった。突然、起きた戦争に驚いたと言っていた。祖母の家族は植民地時代からのクリスチャンホームで牧師や宣教師を多く輩出していて、戦争中にクリスチャン狩りをしている噂があった朝鮮人民軍の手から逃れるためにソウルを脱出し、様々な場所を転々としていた。
 戦争が落ち着いたある日のこと、事件が起きた。一家でソウルに帰還するため、汽車に乗っていたとき、朝鮮人民軍と居合わせてしまった。逃げなければいけないと思った祖母たちはすぐに汽車から飛び降りその場を脱出した。しかし、後ろの車両に乗っていた祖母の姉の夫はそれに気づかず、そのまま捕まってしまった。有名な宣教師だった彼はその日以来、家族のもとに帰ることはなく、そのまま北朝鮮に連行されて殺されたという。戦後、祖母の姉は子どもを抱えて窮乏の中で亡くなった。

 それから何十年も時が経ち、祖母が亡くなる前にこんなことがあった。末期の大腸がんで、鎮痛剤を打っていた彼女は意識が朦朧となりながら介護をしていた私に「どうしよう。パルゲンイ(韓国語で「アカ」の意味)と憲兵が追いかけてくる。」と話していた。私は気丈だった祖母の怯えた顔に驚き、一晩寝ずに隣に居た。その話を母にしたところ、母は「昔からずっとそう。」と言った。祖母は戦争の悪夢にずっとうなされていたのだ。

 戦争が起きているときは明日死ぬかもしれないという恐怖と戦いながらどうやって生きていこうかということしか考えない。きっと朝鮮戦争中に様々なところを転々としていた祖母もそうだったと思う。しかし、戦後になってから戦争の悲惨さを様々な形で体験することになる。その悲惨さがあまりにも酷すぎて口にできない人たちも存在する。

 いくら政治指導者たちが「戦争は終結した。」と言っても、普通に生きている人たちの心の中では戦争が起こり続ける。きっとこうした心の動きは国境や人種を越えるのではないだろうか。日本でもアジア太平洋戦争で祖母と似たような体験をした人たちはたくさん居ただろうし、ベトナム戦争や中東で起きている戦争でもそうだろう。

 「戦争を知らない世代」と私たちは言われるが、きっとそんな私たちも戦争を見ている。それは戦争によってトラウマと生きなければいけない人たちの戦後のもがきという戦争だ。

ロックンロールは生きている

  私は高校生の頃から忌野清志郎が好きだった。最初に清志郎を知ったのはタイマーズの曲がきっかけだった。今まで聴いていた曲に何か物足りなさを感じていた私は過激なスタイルで暴れまわる清志郎に魅了された。そんな私が次に好きになった曲は『君が代』だった。ミニアルバム『冬の十字架』に収録されているこの曲は君が代をカバーしながら、よーく聴いてみるとアメリカの国歌が流れていたりする名曲で、アルバムが出される際にはかなり問題になったらしい。私の知っているロックとはこんなことを平気でやってしまう音楽のことだ。

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 こないだ、話題になっているRADWIMPSの『HINOMARU』の歌詞を読んだ。歌詞はここでは書かないがかなり軍歌っぽい。どうやらボーカルの野田洋次郎氏に言われれば軍歌だと思って作ったわけではないらしいが、なんだか妙な違和感を感じるとともにこういうのは自分が聴いてきたロックではないと思った。
 私の身の回りだけなのか知らないが在日のおっさんの口癖で「民族のために、祖国のために」なんていう言葉をよく聞く。自分自身を元気づけるためなのか何なのか分からないが、私はこの言葉を聞きながら「何が民族とか祖国だよ。言葉も喋れないじゃんか。」なんていうことを思う。愛国心ではないけれども、それに近い感情をマイノリティー側も持っている人たちは少なくない。
 「民族」や「国家」という言葉はとても不思議だ。唱えれば唱えるほどなんだか自分がその一員のように感じてきていつの間にか強くなったような気になってしまう。しかし、民族や国家なんて所詮、近代の作り物でしかないし、その作り物に求愛することによって、自分自身の立ち位置を確認しているだけにしか過ぎない。

 そんな求愛の先にあるものは「死」だ。「民族」や「国家」を愛していると自ら表明する人ほど先に罪のない人間を殺していくし、最終的には自身も死に向かっていく。
 私の親族には「民族」や「国家」の間で死んでいった人間たちが数多く居た。ある親族は日本軍に家族を皆殺しにされ孤児として生き、ある親族は統一を望んだばかりに韓国軍に殺され、ある親族はクリスチャンであったばかりに朝鮮人民軍に殺された。殺した側はきっと「善良な人間」であったと思う。本気で民族や国家を考えた先に私の親族の生命を奪っていったのだ。殺した側は今頃何をしているだろうか。もしかしたら、国家の英雄として処遇されているかもしれないし、どこかで生命を落としたかもしれない。

 殺された側はこうしたことをいつまでも記憶している。ただ、声に出せないだけで、私と同じ立場の人々が「民族」や「国家」という言葉を使うと「もしかしたら次は私の番ではないか。」と思って、顔がこわばる。
 清志郎タイマーズを結成したり、『君が代』をリリースした理由は彼の母親が戦争で前夫を亡くしていることを知ったからだという。きっと前の大戦のときも「民族のために、国家のために」と大真面目に言っていた人間から人を殺し、死んでいったのだろう。偉大なロックンローラーである彼もまた私と同じで声に出せない何かを背負っていたのかもしれない。
 私は人を死に向かわせる言葉よりも人を生かす言葉の方が好きだ。清志郎の歌には人を生かす力があると思う。きっと「ロックンロール」とは人を生かす言葉を指すのだろう。
 RADWIMPSのボーカルは「自分の生まれた国を好きで何が悪い!」とライブ中に言ったそうだ。彼もまた「善良で無垢な人間」なのかもしれない。だが、善良で無垢な愛国心はどこへ向かうのか。私たちが今、立ち止まって考えなくてはいけないところはそんなことだと思う。

懐かしのチョコパイ

  「懐かしさを感じるお菓子は?」と誰かに尋ねられたら私は迷わず、「チョコパイ」と答えると思う。

   我が家は4代続くクリスチャンで、教会に行くことが日課だった。私が小学生のときは、韓国からやってきた牧師さんが牧会を担当する韓国系の教会に通っていた。

  韓国系の教会は日本の教会とは違った文化を持っている。特に違うのは礼拝が終わった後に牧師さんや信徒たちみんなでご飯を食べることだ。もちろん、この場に出てくる料理は韓国料理で、私が初めて在日の料理ではない韓国料理を食べたのはこの場だったと思う。

  皆でご飯を食べるときに私みたいな子どもたちには必ずおやつが与えられる。そのときにおやつとして牧師さんから渡されるお菓子が韓国から送られてきたチョコパイだった。

  初めてチョコパイを口にしたとき、頭の中で「甘っ!」という言葉が頭の中に広がった。のちに私が韓国へ留学することになり、現地で韓国の甘いお菓子を食べたが、あの時代に比べて甘さ控えめにはなっていたもののそれでも日本のお菓子に比べて甘みが強い。

  こうした甘いお菓子が多い理由は韓国が貧しかったからかもしれない。朝鮮戦争後、韓国は物資不足に悩んでいて、特に砂糖が貴重品だったという。韓国の初代大統領の李承晩が記者会見をした際、その場に居た外国人記者に「我が国ではコーヒーの中に砂糖を入れるのではなくて、砂糖の中にコーヒーを入れるのだ。」という自虐じみた冗談を言っていた逸話もあるぐらいだ。

   小さいころの私は韓国のお菓子があまり好きではなかった。甘すぎるし、何かちょっとしつこいと感じたからだ。しかし、今となってはちょっと懐かしいと思える。

   先日、とある人たちと会って、一緒に食事をした。彼女たちは私とは違って、北朝鮮を祖国だとする考え方を持つほぼ同じ年の在日コリアンで、お互いの違いや共感できることを色々話していた。

  ある女性に「朝鮮に是非、行ってみてください。」と言われた。心の中で私は「ごめん。私みたいなクリスチャンは北朝鮮では立派な敵対階層になるから行けない。」と答えておいた。あのとき、私は口籠っていたと思う。

  逆に私は「韓国に行ってみるのはどうですか?」と言ってみるとある子は「行きたいんですけど韓国に国家保安法があるのでちょっと怖いんですよね。」と答えた。

  そのとき、私は彼女たちに「なんだ一緒じゃん!」と言いたくなったけど、なんか嬉しくなかった。

  彼女たちは帰り際に私へ北朝鮮で作ったというイチゴ味のチョコパイをくれた。手渡されたときに「おおっ!懐かしい!」と思った。小さいころ、牧師さんが私に手渡してくれたチョコパイもそんなパッケージだったような気がする。そのチョコパイを帰りの電車の中で一口食べた。

そのとき、「うわっ!久しぶり!」という言葉が私の頭の中で広がった。あの独特の甘さに久しぶりに出会えたのだ。なんだか懐かしい気分になりながら、私は電車に乗って家に帰った。

  6月12日に米朝首脳会談が行われるらしい。それに先立って、トランプは朝鮮戦争終結させるつもりだと意思を表明した。70年間、ずっーと続いていた戦争が終わろうとしている。

   似たようなチョコパイを作る兄弟同士が再び仲良くなれる嬉しい気持ちとまだ自由にお互いの国に行くことが行けない現実がある。

未だに私の中では整理がついていない。

  とりあえずホワイトハウスに韓国と北朝鮮のチョコパイを送ってみようかな。

  いつか私が安心して北朝鮮に行って、彼女たちが自由に韓国に行ける日を願って。

名もなきサラダ

 

 

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 我が家には謎のサラダがある。キャベツやにんじん、きゅうりの千切りが酸っぱいドレッシングで和えられていて、最後に粗く挽かれた唐辛子の粉を振りかける。暑いこの時期にはさっぱりしていて美味しい。
 小さいころからこのサラダを食べているのだが、どうやらこのサラダは焼肉屋をやっていたうちのばあさんが作り始めたものらしく、この頃から店に通うお客さんから評判が良かったようだ。現在、その味を私の父と母が引き継いでいて、我が家の味となっている。

 ところでこのサラダなのだが両親に聞いても名前が分からない。どんなに調べてもこのサラダの名前が分からないのだ。なので、私はこのサラダをただ単純に「サラダ」と呼んでいた。
 ところで、私の趣味はSNSでの「飯テロ」である。皆がお腹を減らしている時間に家飯の写真をアップロードする。写真をアップロードしているとき、YouTubeルイ・アームストロングのWhat A Wounderful Worldを流す。こんなことをしているときは「グッドモーニング」と言う時間ではなくて、「こんばんはー。」と言う時間だ。(このネタの意味が分かった貴方は多分、映画ファン。)

 この日も我が家のサラダの写真をTwitterにアップロードしてたけれども、「どうせだったらこのサラダの名前を知っている人が居たら教えて欲しいなぁ。」と思って、写真とともに「うちの父方のばあさん(済州島出身)がお店で出してたサラダなんだけど名前が分からない。」と言葉を添えた。
 やっぱりSNSは凄い。言葉の波に嫌になってしまうことがあるけれども、すぐにこのサラダがどうやら「チョレギサラダ」と呼ぶということを知った。

そうか、私が小さなころから食べ続けているこの「サラダ」はチョレギサラダと言うのか。

そんなことを思ったけれども、それでも私は今でもただ「サラダ」と呼んでいる。
 外から言葉を与えられていると、とても安心する。それは自分が何者なのかを誰かが決めてくれるからだ。私みたいな在日はそんなことが多いかもしれない。「民族」とか「国家」とかそうした言葉は最初から自分が持っているものではなくて、外の誰かが与えてくれる言葉だ。いつの間にか、そうした言葉が自分のものだと思い始めて、自分自身も外の誰かに「民族」とか「国家」といった言葉を教えてしまっている。
 でも、ときには外の誰かから与えてくれた言葉じゃなくて、自分の言葉で自分を示す言葉を作っても良いんじゃないだろうか。
 自分でそうした作業をするというのはとても孤独で苦しい作業になる。誰かから言葉を与えてくれるときの「分かってくれた」と思う瞬間は味わえなくなるし、そうした言葉を与えられたことによって何か社会的な地位を得たような気持ちも味わえなくなる。でも、そうした孤独で苦しい作業を経ている瞬間が一番、豊かな瞬間なのではないか。私がなんだか分からないもやもやをどこにぶつけて良いのか分からなかったころ、あのときの私はなんでこんなに苦しいことをしているんだろうと思っていたけれども、今から思い返したら、あのときは良かったと思っている。結果として、そうした瞬間があったからこそ、自分の言葉を今でも作ろうとすることになったんだから。そういうときがあったから私は私の言葉を大切にしようと思った。
 多分、私はこの「サラダ」を「チョレギサラダ」と名前を変えて呼ぶことはないだろう。それは「サラダ」と呼ぶからこそ私はこの料理を私のものだと感じることができるし、この「サラダ」を大切にしていきたい。

  今日も「サラダ」を食べてみる。

うん。私にしか知らないいい味だ。

我が愛しの日本代表に捧ぐ

 ふとスマホを覗くと画面には「代表メンバー23人が発表」というニュースの見出しが踊っていた。

 そうか。今日はロシアワールドカップの代表メンバー発表の日か。

そう思って、私はスマホをズボンのポケットにしまった。

以前だったら、その場で代表メンバーを確認して、Twitterに即書き込んでいただろう。しかし、そんなこともせず私は淡々としていた。日本代表への熱が以前よりも無くなっていることを感じた。
 「サッカーが好きです」と自己紹介するとこんな質問がしょっちゅう来る。

「日本代表と韓国代表、どちらを応援するの?」

 ここではっきりと言ってやろう。私は生まれてからの日本代表ファンだ。韓国代表や北朝鮮代表を応援する気になんかなれない。日本代表には特別な何かを感じる。

 私がここまで思うようになったのはサッカー少年だった父の影響だ。父は1974年の西ドイツ大会で活躍したゲルト・ミュラーに憧れるFWで、本人曰く「得点を決めるタイプのFW」だったらしい。そのせいか、決められないFWには大変、厳しい。そんな父が応援していたナショナルチームは日本代表だった。理由は住んでいる場所のチームだったから。そりゃそうだ。韓国籍とは言っても言葉が分からない父にとって、「祖国」のチームよりも自分に身近なチームを応援するのは当たり前だ。
 父はテレビでだらしないFWを観かけると実際にスタジアムで見たことがあるという釜本の話をする。そのときの父の顔はかつてのサッカー少年の顔だ。

 そうしたこともあってか、私は日本代表を応援するようになっていた。
 私の記憶を遡っていくと1998年フランス大会アジア最終予選から応援していただろうか。7歳だった私は応援している側の殺気を感じ取っていた。1993年10月28日の深夜、ドーハで味わったサッカーの残酷さを忘れなかったサポーターたちが「今度こそは。」と願って、ワールドカップ出場の夢を選手たちとボールに乗せていたからだと思う。

 このときの最終予選は苦難の連続で、出だしが不調なままトンネルを抜けきれず、加茂周監督が更迭され、岡田武史コーチが監督になり、どうにかしてイラン戦でワールドカップ出場を決めた。

 ジョホールバルの試合を観ていた父が泣きながら「やっとあの舞台に立てるのか。」とテレビ画面の前でつぶやいていたのを憶えている。

 98年のフランス大会では、誰よりも代表を愛し、ワールドカップの舞台に立ちたいと願うカズが代表から外れた。「魂みたいなのは向こうに置いてきた。」と金髪のカズが報道陣に向かって言っていた。スターを外したせいなのか、それとも勝ち星がなかったからなのか、ゴンのゴールがあったにもかかわらず、負けて帰ってきた代表チームに待ち受けていたのは非難の嵐で、空港で代表メンバーだった城はサポーターから水を掛けられた。

 4年後の2002年日韓ワールドカップのとき、私は小学5年生になっていた。2000年のアジアカップで優勝した日本代表が地元で開かれるワールドカップに出る。ということで大変はしゃいでいた。私だけではない。教室に居る男子たちはこぞってベッカムヘアーをして、休み時間になると皆でサッカーをしていたし、放課後になると、教室のテレビをつけてその時間帯にやっている試合をこっそりと観ていた。
 代表戦になると盛り上がりはピークに達した。ロシア戦での稲本のゴールと代表のワールドカップ初勝利の翌日は教室が大騒ぎだったし、ベスト16のトルコ戦で惜しくも敗れたときはお葬式ムードになった。あのとき、全てがサッカー一色になっていたのだ。
 それから2年後のアジアカップ中国大会。そのとき、私は初めて神を見た。当時、政治的な状況が原因で反日ムードになっていた中国で、代表はヨルダン相手に延長のPK戦で奇跡を起こして、決勝まで勝ち上がり、そのまま優勝してしまった。

 良かった!これで次のワールドカップはベスト8にまで行ける!

2006年のドイツ大会は誰もがそう期待した。しかし、オーストラリアには逆転負けし、クロアチアには「急にボールが来た」せいで決めきれず、引き分け、その次のブラジル戦では圧倒的な力の差を見せつけられ、そのまま予選敗退になった。子どもたちが「天才」と思っていた選手たちが世界の壁の前で挫折した瞬間だった。
 これからどうなるだろうと思っていたとき、躍進していた千葉のチームからオシムがやってきた。知性にあふれるコメントと攻撃的な戦術で日本代表を再出発させて、さらに日本サッカー全体を変えようとしていたが、オシムは病気で倒れてしまった。私はそのとき、初めて人が死なないように真剣に祈った。
 この後に来たのは98年のときの岡田監督だった。ワールドカップに出られることは決まったものの、そのあとの試合では全く上手くいかない。誰もが岡田監督に「辞めろ。」と言っていたとき、俊輔から本田を柱にして、キャプテンも中澤から長谷部に変えるギャンブルに出て、見事、奇跡を起こした。
「岡ちゃんごめんね。」とTwitterで、皆でつぶやいていたっけ。
 岡田監督の後はザッケローニがやってきて、2011年のアジアカップを戦った。今でもあの決勝を忘れることができない。延長戦で李忠成が見事なボレーを決めて優勝したのだ。ラモス以来、帰化した人たちが活躍していた代表チームに在日が入り、そこで英雄になったのがとても嬉しかった。
 さらにハイレベルで活躍する日本人選手が増えてきた。香川はドルトムントの主力選手として優勝し、本田はACミランに行き、長友はインテルで活躍した。
 これはキャプテン翼の世界だ!次は2006年のときとは違って、上手くいく!

と思ったとき、2014年のワールドカップで見せつけられたものは、世界がまだ遠いということだった。ここからまた始めなければいけないと思い、途中、監督に就任したハリルホジッチが少しずつ着実に仕事をしていた。
 そして、2018年。不可解なハリルホジッチの解任に首を傾げた私が感じたことは私たちの代表はもはや、私たちのものではないということだった。一部では主力選手によるクーデターがあったのではないかと言われていたし、スポンサーへの忖度があったとも話す人たちも居た。どちらにしろ、協会は監督という個よりも「組織」を優先した形を取った。なんとも「日本」らしいスタイルだ。
 昨日、ある人と会っていたとき、ハリル解任の話になった。その人はハリルのスタイルや文化と協会の人たちのスタイルを埋めきれなかったのではないかと話していた。確かにそうかもしれない。しかし、かつての代表はそんなんじゃなかった。トルシエのような個性が強烈な監督でも切ることはなかったし、海外のサッカーから学ぼうとする姿勢を常に見せていた。決して、今みたいに「日本化」という言葉で誤魔化さず、不可解な理由で監督を解任するなんて考えられなかった。

 そう思えば思うほど、今の代表には嫌気がさしてくる。きっと私はサッカーが嫌いになったのではなくて、日本代表に希望を抱けなくなったのだろう。
 改めて選ばれた選手たちの名前を見る。

「ほう。こういう奴らが選ばれたのか。」と独り言ちながら私は西野監督に向かって、いや、協会の人たちに向かってこんなことを言いたくなった。

お前たちは一体、どこに向かっているんだ?

変わってほしい

 私が通っていた大学はとても大きい大学だった。学部ごとにキャンパスが存在していて、私は法学部だったので、東京都心に存在するビル型キャンパスに通っていた。違う大学の友人を訪ねるためにほかの大学に行ったとき、所謂、大学らしいキャンパスを見てとても羨ましいと思ったものだ。

 私の母校ぐらい規模が大きくなってしまうと、学部間の相互交流もほとんどなかった。私が法学部から別の学部の授業やゼミに通うとき、違う大学に行っているような感覚がした。きっと法学部から来た私を別の学部のキャンパスで勉強していた学生たちは宇宙人とまで思っていたのかもしれない。

 この大学の自慢できるところがあるとすれば、いい先生といい学生がたくさん居たことだろうか。先生たちは大切なことをたくさん教えてくれたし、何から何までお世話になった。私が私のエッジに立ってものを考えるようになったのもこの大学の授業やゼミと出会ったおかげだったし、文章を書くことと出会ったのもこの大学の授業だった。私は当時、3つのゼミに通っていて、表現の方法を探していた時期だった。そんな時期に私は文章表現法の授業を受け、文章を書く方法を学んだ。今でもそのときの教科書や私が授業内で書いた文章は残っている。

 私を支えてくれた友人たちと出会ったのもこの大学だった。暴れん坊(だったらしい・・・・・。)だった私を何だかんだで受け容れてくれたし、友人たちと夜遅くまで喧々諤々の議論(ごめんなさい。今からしたら喧嘩寸前のやりとりでしたね。)をしていた。ありていな言い方をすれば個性のある人たちが結構、集まっていたと思う。でも、お互いに尊敬はあった。この大学でできた友人たちとは1年に数回ぐらい会う。

 今日、両親と母校について話をしていたが、「お前はこの大学に通って正解だったね。」と言われた。私も心の底からそう思う。

 私にとって大きな転機の場となった母校の名前は日本大学という。
 そんな大切な母校だけれども、私にとっては同時にとても嫌なことを教えてくれた場でもあった。かつて、ヘイトデマが書かれたビラが学内でまかれていた時、それに気づいた私はすぐに学生課へ話をしに行った。学生課の職員はその場では対応してくれたものの、そのあとに何の音沙汰もない。大学全体の人権センターに問い合わせても相手にしてくれなかった。私は言いようのないこの気持ちを卒業論文のはじめと終わりに書いたけれども、そのときの気持ちは「この人たち、学生を守る気なんて全くないんだな。」ということだった。そう思ってしまうと声を上げるのもバカバカしくなってしまう。大学の窓口に何か言う以上の具体的なアクションは起こさなかった。

 私には所謂、愛校心なんていうものはないと思う。大学の校歌なんて歌えないし、誰が理事長で誰が学長なのかもよく分からない。箱根駅伝で「日本大学」という名前を見ても何とも思わない。
 最初に日大アメフト部の事件をテレビで知ったとき、「ああ、起こるべくして起こったか。」という感想だった。この大学に学生を守る気がないことは知っていたからだ。しかし、テレビで放映されていた加害者側の選手の記者会見を観て、私はもし、あのとき、ヘイトビラの件でちゃんと声を上げていたら変わっていたのかもしれないと後悔した。学部は違うかもしれないし、ほんの少しの動きかもしれないが学生を犠牲にする体質は少しだけ変わったかもしれないと思ったからだ。

   もう私のできごとは昔のことになってしまった。黙ることをあのとき選んだ私は心の底からこう思う。

変わってほしい。
もう学生を犠牲にするようなことはしないでほしい。

光州は終わっていなかった

 私が釜山に留学していた頃、暇があれば寄宿舎を出て、韓国国内の名所を巡っていた。その中で最も印象的だった場所は光州だった。

 最寄りのバスセンターからバスで3時間半から4時間かかっただろうか。光州のバスターミナルに着いたとき、「あれっ?ここって本当に韓国なのか?」と思うぐらいに静かな街だった。私が住んでいた釜山の街はいつも活気が溢れていて、派手な色の服を着たアジュンマたちが大声で話している。だけれども、私が見た光州ではそんな光景はなく、どこかどんよりとしていた。

 妙だなぁと思いながら、市内バスに乗り換えて、光州民主化抗争で亡くなった人たちの墓地へと向かった。

 5月18日は韓国にとって悲劇的な日として記憶されている。この日は光州民主化抗争が起きた日だ。全斗煥によるクーデターとそれに伴う光州出身で民主活動家だった金大中の逮捕に抗議する学生デモを契機に光州は市民たちと韓国軍の内戦状態になった。最終的に市民たちが敗北し、数多くの死傷者が出た。
 1980年5月18日からしばらく、真夜中に韓国へ国際電話を掛ける人たちが多かった。まだ中央情報部による国際電話の盗聴があった時代で、盗聴されていない時間帯を狙って、人々は光州の様子や家族の安否を聞くために寝不足になりながら電話をかけていた。

 私の祖母も例外ではなかった。光州で事件が起こったことを知り、すぐさまソウルに居る家族へと電話をかけた。そのとき、彼らから伝えられたことは「どうやらパルゲンイである金大中の一味が光州で反乱を起こしたという噂が流れている。」という話だった。

 同じ時期、とある韓国人留学生も韓国に電話をかけていた。かつて民主化を求める学生運動を行っていた彼は祖国で起きた凄惨な出来事をソウルに居る同志たちに伝えるためだった。のちに彼は私の恩師となり、まだ民主化されていない頃の韓国を教えてくれた。
 ほぼ同じ時間、違う人たちが違う立場で国境を越えて、光州で起きた悲劇的な出来事をそれぞれのやり方で知ろうとしていたし、韓国国内に伝えようとしていた。今からすれば何でもないことなのだが、軍人たちが権力を握っている頃はそれすら許されなかった。

 光州がどんよりとした街なのはそうしたできごとがあったからだとずっと思っていた。

 市内バスで民主化抗争で亡くなった人たちを葬った国立5.18民主墓地に着いた。そこで最も目立つのは参拝広場にそびえ立つ5.18民主抗戦追慕塔だ。その塔の両脇には決起した市民たちが結成した市民軍の銅像とそれを支援する人々の銅像がある。その後ろの壁画には当時の様子が描かれている。

 私が壁画を観ているとあることに気づいた。市民たちを決起に追い込んだ軍人2人の顔が描かれていない。明らかに民主化抗争の原因となった軍人出身のあの2人の元大統領のことなのだが・・・・・。

 あとになって知ったことだが、市民たちに発砲の命令を下した人物ははっきりとわかっていないそうだ。状況証拠は数多くあるものの、最終的に命令を下した人間は誰なのか分かっていない。だけれども、人々は誰が命令したかを知っている。そうでなければ壁画には描かないだろう。

 もしかしたら、光州がどんよりした街だったのは光州民主化抗争が起きたからではなくて、いまだに光州民主化抗争が終わっていなかったからだったかもしれない。数多くの謎は今でも存在し、被害者たちはまだ全てを語ることができていない。だが、それは加害者である人間たちも同じだった。被害を受けたからではない。加害した事実を認めたくないからだ。
 顔の描かれていない壁画を観ながら私はこんなことをつぶやいた。

「そろそろ、その顔で観てきたことを言ったらどうだ。」