変わってほしい

 私が通っていた大学はとても大きい大学だった。学部ごとにキャンパスが存在していて、私は法学部だったので、東京都心に存在するビル型キャンパスに通っていた。違う大学の友人を訪ねるためにほかの大学に行ったとき、所謂、大学らしいキャンパスを見てとても羨ましいと思ったものだ。

 私の母校ぐらい規模が大きくなってしまうと、学部間の相互交流もほとんどなかった。私が法学部から別の学部の授業やゼミに通うとき、違う大学に行っているような感覚がした。きっと法学部から来た私を別の学部のキャンパスで勉強していた学生たちは宇宙人とまで思っていたのかもしれない。

 この大学の自慢できるところがあるとすれば、いい先生といい学生がたくさん居たことだろうか。先生たちは大切なことをたくさん教えてくれたし、何から何までお世話になった。私が私のエッジに立ってものを考えるようになったのもこの大学の授業やゼミと出会ったおかげだったし、文章を書くことと出会ったのもこの大学の授業だった。私は当時、3つのゼミに通っていて、表現の方法を探していた時期だった。そんな時期に私は文章表現法の授業を受け、文章を書く方法を学んだ。今でもそのときの教科書や私が授業内で書いた文章は残っている。

 私を支えてくれた友人たちと出会ったのもこの大学だった。暴れん坊(だったらしい・・・・・。)だった私を何だかんだで受け容れてくれたし、友人たちと夜遅くまで喧々諤々の議論(ごめんなさい。今からしたら喧嘩寸前のやりとりでしたね。)をしていた。ありていな言い方をすれば個性のある人たちが結構、集まっていたと思う。でも、お互いに尊敬はあった。この大学でできた友人たちとは1年に数回ぐらい会う。

 今日、両親と母校について話をしていたが、「お前はこの大学に通って正解だったね。」と言われた。私も心の底からそう思う。

 私にとって大きな転機の場となった母校の名前は日本大学という。
 そんな大切な母校だけれども、私にとっては同時にとても嫌なことを教えてくれた場でもあった。かつて、ヘイトデマが書かれたビラが学内でまかれていた時、それに気づいた私はすぐに学生課へ話をしに行った。学生課の職員はその場では対応してくれたものの、そのあとに何の音沙汰もない。大学全体の人権センターに問い合わせても相手にしてくれなかった。私は言いようのないこの気持ちを卒業論文のはじめと終わりに書いたけれども、そのときの気持ちは「この人たち、学生を守る気なんて全くないんだな。」ということだった。そう思ってしまうと声を上げるのもバカバカしくなってしまう。大学の窓口に何か言う以上の具体的なアクションは起こさなかった。

 私には所謂、愛校心なんていうものはないと思う。大学の校歌なんて歌えないし、誰が理事長で誰が学長なのかもよく分からない。箱根駅伝で「日本大学」という名前を見ても何とも思わない。
 最初に日大アメフト部の事件をテレビで知ったとき、「ああ、起こるべくして起こったか。」という感想だった。この大学に学生を守る気がないことは知っていたからだ。しかし、テレビで放映されていた加害者側の選手の記者会見を観て、私はもし、あのとき、ヘイトビラの件でちゃんと声を上げていたら変わっていたのかもしれないと後悔した。学部は違うかもしれないし、ほんの少しの動きかもしれないが学生を犠牲にする体質は少しだけ変わったかもしれないと思ったからだ。

   もう私のできごとは昔のことになってしまった。黙ることをあのとき選んだ私は心の底からこう思う。

変わってほしい。
もう学生を犠牲にするようなことはしないでほしい。

光州は終わっていなかった

 私が釜山に留学していた頃、暇があれば寄宿舎を出て、韓国国内の名所を巡っていた。その中で最も印象的だった場所は光州だった。

 最寄りのバスセンターからバスで3時間半から4時間かかっただろうか。光州のバスターミナルに着いたとき、「あれっ?ここって本当に韓国なのか?」と思うぐらいに静かな街だった。私が住んでいた釜山の街はいつも活気が溢れていて、派手な色の服を着たアジュンマたちが大声で話している。だけれども、私が見た光州ではそんな光景はなく、どこかどんよりとしていた。

 妙だなぁと思いながら、市内バスに乗り換えて、光州民主化抗争で亡くなった人たちの墓地へと向かった。

 5月18日は韓国にとって悲劇的な日として記憶されている。この日は光州民主化抗争が起きた日だ。全斗煥によるクーデターとそれに伴う光州出身で民主活動家だった金大中の逮捕に抗議する学生デモを契機に光州は市民たちと韓国軍の内戦状態になった。最終的に市民たちが敗北し、数多くの死傷者が出た。
 1980年5月18日からしばらく、真夜中に韓国へ国際電話を掛ける人たちが多かった。まだ中央情報部による国際電話の盗聴があった時代で、盗聴されていない時間帯を狙って、人々は光州の様子や家族の安否を聞くために寝不足になりながら電話をかけていた。

 私の祖母も例外ではなかった。光州で事件が起こったことを知り、すぐさまソウルに居る家族へと電話をかけた。そのとき、彼らから伝えられたことは「どうやらパルゲンイである金大中の一味が光州で反乱を起こしたという噂が流れている。」という話だった。

 同じ時期、とある韓国人留学生も韓国に電話をかけていた。かつて民主化を求める学生運動を行っていた彼は祖国で起きた凄惨な出来事をソウルに居る同志たちに伝えるためだった。のちに彼は私の恩師となり、まだ民主化されていない頃の韓国を教えてくれた。
 ほぼ同じ時間、違う人たちが違う立場で国境を越えて、光州で起きた悲劇的な出来事をそれぞれのやり方で知ろうとしていたし、韓国国内に伝えようとしていた。今からすれば何でもないことなのだが、軍人たちが権力を握っている頃はそれすら許されなかった。

 光州がどんよりとした街なのはそうしたできごとがあったからだとずっと思っていた。

 市内バスで民主化抗争で亡くなった人たちを葬った国立5.18民主墓地に着いた。そこで最も目立つのは参拝広場にそびえ立つ5.18民主抗戦追慕塔だ。その塔の両脇には決起した市民たちが結成した市民軍の銅像とそれを支援する人々の銅像がある。その後ろの壁画には当時の様子が描かれている。

 私が壁画を観ているとあることに気づいた。市民たちを決起に追い込んだ軍人2人の顔が描かれていない。明らかに民主化抗争の原因となった軍人出身のあの2人の元大統領のことなのだが・・・・・。

 あとになって知ったことだが、市民たちに発砲の命令を下した人物ははっきりとわかっていないそうだ。状況証拠は数多くあるものの、最終的に命令を下した人間は誰なのか分かっていない。だけれども、人々は誰が命令したかを知っている。そうでなければ壁画には描かないだろう。

 もしかしたら、光州がどんよりした街だったのは光州民主化抗争が起きたからではなくて、いまだに光州民主化抗争が終わっていなかったからだったかもしれない。数多くの謎は今でも存在し、被害者たちはまだ全てを語ることができていない。だが、それは加害者である人間たちも同じだった。被害を受けたからではない。加害した事実を認めたくないからだ。
 顔の描かれていない壁画を観ながら私はこんなことをつぶやいた。

「そろそろ、その顔で観てきたことを言ったらどうだ。」

 

阿賀のお地蔵さん

   私は日本テレビで放映されている「Another Sky」という番組が好きだ。ゲストとして呼ばれた人が人生の転機を迎えた場所を紹介する。この番組を観ていると私にとっての「Another Sky」はどこだろうと考え、ある場所が思いつく。

その場所とは新潟県阿賀野川流域だ。

   今からちょうど1年前、私はとある病気になってしまい、身体も動かず、ただ寝て過ごしていた。そんな私に家族は優しい言葉をかけてくれず、私は居場所を失おうとしていた。そうした時期に以前からお世話になっていた方から「阿賀(阿賀野川流域のことを地元の人はこう呼ぶ。)に来ないか?」と連絡があった。このまま家に居てもしょうがないし、外に出るいい機会だと思い、私は阿賀に向かった。

   初めて行った阿賀の地は最高だった。人は優しいし、酒は美味いし、ご飯も申し分ない。私にとって初めて「故郷」と呼んでいいと感じられる場所に出会ったと感じた。

   そんな阿賀の地の中で、特に好きな場所がある。それはとある集落の中に鎮座しているお地蔵さんだ。この地域は1965年に発覚した新潟水俣病の舞台になった。

   新潟水俣病の運動は長い間行われ、今でも認定問題をめぐる裁判が行われている。そのおかげであることが起きた。

それは運動の長期化で、運動内部の対立が集落に持ち込まれてしまったのだ。

その対立に苦しんだ人々はかつての集落を取り戻すために、集落の中に新しいお地蔵さんを置いた。

どんな人でもお地蔵さんに手を合わせて、大切にするからと思ったからだ。

お地蔵さんのおかげで、バラバラになった集落はまたひとつになり始めた。毎年、ある時期になると新潟水俣病で犠牲になった人たちのためにお地蔵さんの前で念仏をあげるという。

  クリスチャンである私がお地蔵さんに手を合わせることはない。だが、粗末に扱いたくない。このお地蔵さんを色々な人が大切にして、手を合わせることで仲良くできているんだから。

どんなにバラバラになってもひとつになる方法はあるのだ。

   先日、南北首脳会談があった。38度線で南北の指導者が握手した光景に私は言葉にならないくらい感激した。だが、どこかで素直に喜べない私も居た。

   在日の友人と会ったとき、彼女は韓国に行きたくても行けないと話していた。南にはまだ国家保安法があり、北朝鮮に近いと見なされる彼女は逮捕される対象になりかねない。一方、韓国に近い私は北朝鮮に行くことはできない。日本籍に帰化したとしても、朝鮮戦争でクリスチャンであったことを理由に親族を朝鮮人民軍に殺された反動分子であるレッテルが消えることがないからだ。

   南北の分断で様々な人が犠牲になり、今でも分断を身近に感じながら生きている。

   もちろん、私たちのような存在だけではない。かつての独裁体制を変革するために民主化運動に身を投じ、命からがら漁船に乗って、隣の島国に逃れた人も居たし、食料と自由を求めて、凍てつく豆満江を渡った人も居た。

また、ある人は南北の間でスパイと見なされ処刑されてしまった。

こうした事例を挙げていけばキリがない。

   在日は「国家」や「民族」や「統一」という言葉が大好きだ。だが、そうした言葉に最も苦しめられてきた。

祖国のために

民族のために

統一のために

どれだけの人々が生命を落としてきたのか、どれだけの犠牲が無かったことにされてきたのか計り知れない。

   だから私はそんな言葉を使いたくない。「国家」や「民族」という言葉で人を殺してきた南北両国の国旗に染みついた血を「統一」という言葉で漂白したくないのだ。

私は政治指導者たちの握手を見て、どんちゃん騒ぎするのではなくて、静かに犠牲なった人々を想いたい。

  ふと、阿賀のお地蔵さんのようなものが38度線にあったらいいのにと思った。この前であらゆる人々が南北の間で犠牲なった人々を想いながら手を合わせることができるようになったとき、初めて「統一」という言葉を使いたいと思う。

そんな日を心待ちにしている。

デジクッパを食べていた弁護人

 釜山からの留学から帰ってきて、もう何年も経つがどうしても食べたくなるものがある。

それはテジクッパだ。

日本ではあまり知られていないが、私にとっては思い出の味なのだ。
 テジクッパとは釜山の名物料理で、豚骨スープのクッパと言えば良いだろうか。スープの具には豚肉や豚の内臓が入っている。

日本の豚骨ラーメンの濃厚なスープとは違って、ちょっと薄い。なのでそこにキムチやニンニク、セウジョをぶち込み、「お前、花の慶次を読み過ぎたんじゃないか?」というぐらいに豪快に食べる。

 釜山っ子には必ずお気に入りのテジクッパ屋があって、そこで釜山の名物焼酎チョウンデイをあおりながら、一緒に食べるのが流儀だ。
 私が初めて、テジクッパに出逢ったのは釜山に来たて頃だっただろうか。初めて食べた時の感動は忘れられない。感動のあまり「この味が良いねと君が言ったから4月6日はテジクッパ記念日」という短歌を読んだぐらいだ。留学して楽しいときも、辛いときも、私はずっとテジクッパを食べていた。
 実は私が通っていた大学の近くに釜山で一番美味しいテジクッパ屋のお店があった。値段は5500ウォンでなんとご飯お代わり無料。キムチ食べ放題。という店だ。

私はここを「天国」と呼んでいた。

その気になれば永久にテジクッパを食べられるのである。
 今、これを書いていて思い出したのだが、競艇場に行ったときに、甲類のでっかい焼酎のプラスティックボトルを持ってきていたおっさん2人組が無料で使えるポットを使って、半永久的にお湯割りを楽しんでいた。

それを見た私は「ああ、スティーブ・ジョブズの言っていたThink Different」ってこういうことかと思ったものだ。

 そう!Think Differentは釜山にもあったということだ。

イノベーションはこうやって起きていく。

日本のジョブズこと競艇場のおっさんたちは釜山に来たら新しい技術革新を起こすことだろう。

 ちなみに日本でテジクッパを食べられるお店を見たことがない。テジクッパを置いている店を見たことがあるのだけれども、私個人としてはテジクッパを煮詰めるための大きな鍋が店の前になくてはいけないと思っているのだ。あれで豚骨が煮られるのをじっくりと見るのが好きだった。

 釜山の口の悪いおっさんたちはその鍋を見て、「おい!北の3代目もこれで煮るか?」なんて言う。私が釜山に行ったときはちょうど、南北が少しずつ緊張し始めたころだったが、そう言ったのは時期だけの問題じゃないことを私は知っている。
 留学から帰ってきて3年が経つ今日、私は朝早く起きて、南北首脳会談の実況中継を観ていた。

金正恩国務委員長が自らの足で38度線を越えて、文在寅大統領に握手した。

戦争がようやく終わる。

心の底からそう思った。
 テジクッパ朝鮮戦争北朝鮮から逃げてきた避難民たちが作り出した料理だ。当時、釜山には朝鮮半島全土から避難民がたくさん集まっていて、物資不足に悩まされていた。北朝鮮出身のとある料理人が故郷の味を作ろうとしたが、材料だった鶏がなく、たまたまあった豚肉の切れ端や豚骨をじっくり煮込んでクッパとして出したそうだ。するとたちどころに釜山で大人気になり、やがて、名物になっていった。

 文在寅大統領は釜山から近い巨済島の出身で、彼の父母は朝鮮戦争の避難民だ。6歳のときに釜山に引っ越してきて、貧しい幼少時代を過ごしていた。青年になった彼は民主化運動をしながら司法試験に合格して、故郷の釜山にあった弁護士事務所に入り、そこから同僚弁護士の政界進出を陰で支え、やがては大統領にまでなった。

 彼は北朝鮮から逃げてきた避難民たちが戦争で全部を失い、どんな生活をしていたのかを見てきている。つまり、テジクッパの味を本当の意味で分かっているということだ。
 どうやら平壌から冷麺が来ているらしいが、テジクッパも持って来れば良かったのに。

本当の意味で統一するというのはそういった歴史にも向き合って、二度とそんなことが起きないようにすることだし、人々の自由と権利が認められるような社会にすることだからね。

こんなときだからこそ板門店で食べたいものだ。

もし在日コリアンである私がビビンバについて語ったら

   こないだ初めて知ったのだが、李明博大統領の時代に「韓国料理の世界化」政策という韓国料理を世界5大料理の1つに入ることを目指し、さらに韓国料理を高級化することをしていたそうだ。

   祖母が焼肉屋だった立場からはっきり言おう。

韓国料理の世界化なんて必要ない。

釜山に行って、一番美味い店は市場の中の小汚いデジクッパ屋だったし、美味しいティッコギ屋も小汚かった。

ついでに言えば、美味い焼肉屋ほど小汚い。

もちろん、インスタ映えなんかするわけがない。

   李明博政権は韓国料理屋をインスタ映えさせたかったのか?いくらなんでもそんな韓国料理の世界化なんて韓国料理に対しての侮辱だと思うので、それもひっくるめて、検察にはじっくりと取り調べして欲しい。検察がやらないなら私がやりたい。

   ふと、韓国料理の象徴とは何だろうと考えた。韓国料理には庶民的な料理が多い。だが、キングオブ庶民の料理を決めるとしたらそれはビビンバで決まりだ。きっと青島幸男だって、国会でそう決めると思う。

   あるとき、韓国料理屋に入った。メニューを見てみるとビビンバがある。値段に目をやると850円と書いてあるではないか。

おいおい、いつから日本はハイパーインフレになったんだ。

世界史の教科書で見た、ワイマール・ドイツのときに子供たちが札束を積み上げて遊んでいるような状況になったのか。

ビビンバって言ったって、ひょうきん族に出てた方じゃないぞ。(これでクスっとした貴方はきっとテレビっ子。)

   そもそもビビンバというものは、給料日前に野菜が安いときに作り置きしたナムルを3日かけて消費するときに食べたり、チェサの残り物を消費するために食べる。具材はほうれん草のナムルと大根と人参のなますともやしのナムルとぜんまいのナムルとされているが、あくまでも最低限のの具材でしかない。予算次第では具材をたくさん入れることも可能だ。

つまり、ビビンバとはソシャゲなのだ。課金次第で良くなってくる。だが、私たちはそんな軟弱な真似はしない。いかに金をかけないかで勝負する。

私がオススメなのはてきとーなキムチを入れ、さらに生卵かけることだ。

「牛丼に生卵をかけるときの贅沢を忘れることを傲慢と言う」という名言があったと思うが(あるということにして欲しい。)ビビンバに生卵を投入すると一気に金持ち気分が味わえる。まぁ、ビル・ゲイツがビビンバを食べるときはどうせ生卵2つを投入するだろうがそんな無粋なことはしない。生卵は1つで十分なのだ。それ以上やったら生卵がメインになる。

   キムチについてだが、これは別になんでもいい。味は問わない。どうせコチュジャンの味で分からなくなるんだから。

  そして、仕上げに胡麻油を垂らす。これはほんのちょっとでいい。

肴は炙ったイカでいい。(書きたくなった。)

  次は簡単だ。完璧に仕上がったビビンバにコチュジャンをまぶし、米粒が潰れて、餅になるんじゃないかってぐらいに豪快に混ぜる。別に礼儀作法なんてない。

あとは自由に食べればいい。アメリカ映画に出てくる口の周りにチョコレートまみれのデブみたいに口の周りはコチュジャンだらけだ!

   上品とは程遠いビビンバ万歳!

礼儀作法なんて糞食らえ!

これが韓国料理だ!

   最近、様々な人が存在する社会のあり方を流行りの言葉で「ダイバーシティ」や「共生社会」と言っている。

   在日の社会に目をやると色んな人たちと生きてきたことが分かる。在日の部落の隣も差別されていた人たちの部落で、その人たちと差別し合ったり、協力したりして生きてきた。私は『三丁目の夕日』的なノスタルジー溢れる昭和の幻影が好きではない。あんなに綺麗なものではなくて、もっと意地汚かったし、生きるのに必死だった。生きていくためにはときに、暴力も振るった。

ビビンバを混ぜるとき、汚く混ぜると言うが本当にそんな混沌の中で生きてきた。もしかしたら、ビビンバは在日の生き方そのものだったのかもしれない。

   私は幸い、そんな時代を生きてきた人たちと生活してきた。だから、「ダイバーシティ」という言葉や「共生社会」なんていう言葉がとても洒落臭く聞こえてくる。

何故、雑多に生きている当たり前の事実に名前をつけて、主張しなくてはいけなくなったのだろう。

「みんな、仲良く暮らしてます。」で良いじゃないか。

民主主義とは逡巡である

 今日は全国で安倍内閣退陣を求めるデモがあるそうだ。私はやらなければいけないこともあり、ネットの動画でデモの様子を観ることにした。
 どうやら韓国から文書改竄のデモを応援する声も上がっているらしい。かつて軍事政権だった韓国の民主化を日本人が応援していたなんて隔世の感がある。

  韓国では前大統領の不祥事が発覚し、弾劾に追い込み、新大統領を誕生させた。この行動に対して「韓国の人たちは凄い!それに引き換え日本は・・・・・。」という声を見かけた。私は少し複雑な気分になったしまった。
 私の母は1980年代にソウルへ留学したことがある。当時のソウルは今のような華やかなソウルとは違って、軍人が大統領を務めていて、自由で民主的な生活とは程遠い。手紙は検閲されているし、電話が盗聴されていることも当たり前だ。なので人々は政府から監視されない時間を選んで、様々な方法で海外に居る友人や家族たちに韓国の実情を伝えていた。
 そんな夜が当たり前だった韓国の昼は民主化を求める若者たちがデモを起こす時間だ。ソウルの街中を歩いているとデモに巻き込まれてしまい、うっかり催涙ガスを浴びることもあったという。そんな話を笑い話として母からされると私はどういう顔をしていいのか分からない。だけれども、そんな「笑い話」だけではない。
 母が大学構内にたまたま居たとき、目の前で学生が校舎から飛び降りた。どうやら民主化を訴えるために自ら身を投げたらしい。彼女は酒を飲んで、韓国の話をするといつもこの話をして、最後にこんなことを語る。

「あんなに頭の良い学生たちがなんでこんなことをするのか。勉強して議員になればよかったじゃないか。あの民主化運動とは一体何だったのか、まったく分からない。」
 かつての独裁政権と戦って何らかの犠牲にならなかった人を探すのはとても難しい。日本に居るはずの私ですら、親戚や友人を辿っていくと犠牲者がそこに居る。
 よく民主化運動を牽引した386世代(1960年代に生まれて、1980年代に民主化運動をした世代の総称)は「真理が勝つと思っている」と言われているが、それは表だけの話だ。彼らは真理が勝つのではなく、真理によってときに残酷なことが起き、その中で悩んでいる。私の母同様、近しい人が生命を落とすのを散々、見ているのだから。

 そんな生命のやりとりの果てに、1987年にようやく民主化を成し遂げた。だけれども、軍事政権時代に起きたような権力者による事件は起き続けた。ようやく権力者の犯罪を起こした大統領を罷免することができたのは2017年のことだ。ここまで来るのに30年もかかった。その間に韓国では発展もあれば、国が潰れかけたこともあった。だけれども、ずっと逡巡し続けたことは間違いない。
 きっと私が複雑な気分になったのは、民主化運動で亡くなった人たちとこの30年ずっと逡巡し続けた今を生きている人たちが忘れられていると感じたからだろう。国境を越えて、留学生としてたまたま生命のやり取りの現場に居合わせてしまった母がいまだに答えを見つけられず、日本で行っている韓国の報道を観ていると何も語らなくなる。彼女の中ではいまだに民主化運動は終わっていないのかもしれない。
  『光州5・18』という映画がある。光州民主化抗争をテーマにした映画だが、ラストシーンでヒロインがトラックに乗って「この事件があったことを忘れないでください。」と拡声器で叫ぶ。
私は日本のデモが良いとか悪いとかそんな話をしたいんじゃない。ただ、韓国の民主化の中で様々な犠牲があったことや民主化した中で様々な逡巡があったことを忘れて欲しくないだけだ。きっと、今、日本でデモが起きているのもそんな逡巡があるということなんだと思うから。

 あの時代を知っている人たちは死というリアルな感触をろうそくを持っている手で触りながら常に死者とともにグルグル回り続けていた。もし、彼らに「民主主義とはなんだ。」と訊いたらこのように言うだろう。

 民主主義とは逡巡である。

悲劇の先に絆を作る

  先日、とあるところでインタビューを受けた。そのときに聴かれたことは「若い人たちにどういうメッセージがありますか?」というだった。こういう質問のとき、私は「とりあえず本を読んで下さい。」と答えることにしている。
 最近、自信を持って、そのように答えられるような本に出逢った。

その本とは『あるデルスィムの物語―クルド人文学短編集―』だ。この本は1937年に起きたクルド人によるデルスィム反乱をテーマにしている。クルド人は国を持たない中東の民族として知られ、トルコのほかにイラクやシリアにも存在している。

 トルコ共和国を建国する際、クルド人への自治が約束されていたが、その約束は破られてしまい、クルド人たちは反乱を起こす。しかし、その反乱は失敗し、反乱に参加した人たちはトルコに虐殺され、生き残ったクルド人に対しては強烈な同化政策を行った。この状況は今でも変わっておらず、トルコ国外に逃亡するクルド人たちも数多く存在する。
 この作品を読んでいて感じたことは、トルコの中でデルスィムの出来事がいかに語りにくいかということだった。どこか奥歯に挟まったような言い方をしなければこの事件を語ることができない。私はそんな作品に思わず共感してしまった。

 2018年は済州島にルーツのある私にとってとても特別な年だ。1948年に起きた済州島4・3事件が発生して70周年を迎える。今年は済州島に文在寅大統領がやってきて、大きなセレモニーも開かれたそうだ。

 私はこの事件についてあまり聞いていない。父方の祖母の家系は済州島の中でもかなり良い家だったようだが、この事件のついて、祖母は何も語らなかった。彼女が昔話をするとすればたった2つだけだった。

1つは「本当に苦労したんだよ」。

もう1つは「兄弟は全員、戦争で死んじゃった」ということだけ。
 祖母は何も語らず死んでしまった。

 私がこの事件を知ったのは大学の授業でのことだった。その授業を受けながら私が韓国に留学するとき、父が「韓国で何があるのか分からないから気をつけろ。」と言われて飛び立ったことはここにあったのかもしれないと思った。
 悲劇の歴史を受け継いだ子孫たちということを自覚すると、どうしてだか自分の生き方も息苦しくなってくる。警戒しなければいけないことだって増えてくるし、語らなければいけないことだって多くなる。

そんな生活に疲れているとき、私はクルド人の虐殺事件をこの本を通して知った。
 その出来事を知った私が最初に思ったことは「なんだ。友達がここにも居たんじゃん。」ということだった。トルコと韓国はとても遠い国だが、同じような悲劇を経験した人たちが居る。そういう人たちが居ることを知れただけでなんだか嬉しい気持ちになった。それと同時に私が背負っている歴史はもしかしたら在日であることを確認するために語るだけではなくて、他の世界の誰かに「ひとりじゃない」と語れるメッセージになるのではないかとも思った。
 真っ暗闇な中に居るとそんなメッセージが何よりも嬉しい。
夜にお月様に出逢ったようなあの感覚だ。

 本を読むと自分とは違うところに居るはずなのに、同じ気持ちを分かちあえる人に出逢える。

 自分たちが背負っている悲劇の歴史を知ったとき、その悲劇に落ち込んでしまう。でも、背負っている歴史は違う世界に生きている友達に会うために存在していると思う。
 きっと文学とは語ることすらできない悲劇を数珠のようにつなげて、違う世界の友達を探すためにあるのかもしれない。

私は悲劇の先に絆を作ることができると信じている。

そうしてできた絆を「希望」と呼びたい。