「綺麗ごとなんかいらないよ」と言う人たちへ

 あのトランプが当選した。

まさかの結果に唖然としていた。普通、トランプみたいな候補は予備選で振るい落とされるなんて思っていたけれど、そんなことはない。

トランプは確かに当選してしまった。

 様々な世論調査によればヒラリーが優勢ということだったし、まさか女性蔑視や外国人を蔑視する人間が当選することはないだろうとは思っていたけれど、最後までヒラリーに対して、優勢な投票傾向は変わらず、最後は大統領の椅子をゲットした。

  ヒラリーの支援者が昔からアメリカで言われている選挙人制度の欠陥を言い出しているがそれは余りにも悪手だ。

確かにポピュリストを選ばないために設けた選挙人制度でこんな結果になったのは皮肉だが、勝敗が決してしまった以上、後出しジャンケンのように言うのは何かずるい。

ただ、それだけヒラリーを支援した側にも危機感があったということだろう。

その気持ちは分からないではない。

 外国の選挙を観ていて、こんな陰惨な気持ちになったのは始めてだ。日本とアメリカの関係上、様々な言い方はあるかもしれないが、あのアメリカでもこういう人物が選ばれたのかというショックだった。

 トランプが最初から嫌いだったわけじゃない。

むしろ、昔からなんか良く出てくるおじさんだなぁと思っていた。

例えば、「ホーム・アローン2」

小さい頃からよく観ていた映画だったからちょっとだけ出ていたのを何故か憶えていた。

それと自分は読まないような自己啓発本にもトランプの名前は出ていた。

だから、出始めた当初はあの有名なアメリカ人のおじさんかと思っていたが、蓋を開けてみたらとんでもなかった。

次から次へとマイノリティーを餌食にした発言ばかりを話し、国際関係についても滅茶苦茶なことばかりを話す。

 ただ、どうやらアメリカの白人の貧困層からは人気で、かなり景気の良い経済政策を打ち出しているということは聴いたことがある。

今回の大統領選ではしっかりとした学問的な調査が必要なのだろうが、そのような一面があったことも間違いはないだろう。

 ヒラリーが良かったかと言われればそれもそれでなんだけれど、まだマイノリティーを餌食にしないヒラリーの方に希望はあった。

トランプが大統領選当選後、少しずつではあるが「本音」を話すことが良いという風潮になっているようだ。

それは日本でも同じで、トランプ当選後にポリティカル・コレクトネスに疑問を持っていた人々がやはり「本音」を話すのは良いことなんだ。矛盾を抱えているリベラルはクソなんだ。と言い始めている。

 これは民主党側にとって社会の漠然とした不安に対して、どうすることもできなかったことは確かに大きな敗因だったのだと思う。当然、その中にはどうやって「お腹が減った」人たちを取り込んでいくのか?ということも敗因の中にあるだろう。

そんな「お腹が減った」人たちと漠然とした不安を持った人たちは満足させてくれそうなトランプを選んだ。

これが結果的にどうなるかは分からないが、そんな満足を求めてお腹が減ってしまった今を満たしてくれそうなヒーローが魅力的だったということだ。ただ、そのヒーローはお腹は満たしてくれるかもしれないが、それだけで良いのだろうか?

 お腹を満足させることの前に「お腹が痛い」ということを聴いてくれるヒーローなのだろうか?

   お腹が減った状況で生きていくことはきつい。自分は貧困層の生まれでそういった苦労はしてこなかったが、不思議とそういう苦労をしていた友人たちがたくさん居た。

中でも大学時代の親友はバイトをいくつも掛け持ちして、妹の弁当まで作り、大学にも通っていた。

   ある時、ゼミの討論の場で当時あった国会前のデモに参加することの話になった。

ゼミの大半の人々が「デモに参加するべきだ」と言っていた中で、私の親友だけは「電車賃が無くてデモに参加できない人ってどうなるんだろう?」と言い始めた。

彼の切実さは私の心に深く刻まれた。

  彼との日々の中で心に刻まれた言葉は他にもある。

私も彼もお互いに妹が居た。

私はどちらかと言えば、妹と喧嘩をしながら、面倒をみてもらうタイプだが、彼は妹を可愛がり、妹の世話をよく見ていた。

お兄ちゃん同士が集まると不思議と妹の話になる。

どういう話の流れだかは分からないが、妹の話になった時、私の妹は専門学校に行くと話をした。そしたら、彼はどうしても妹を大学に行かせたいと話をした。

やっぱり凄いなぁと思いながら聴いていたが、特に彼のこんな言葉が私に突き刺さった。

「本当に自分は無気力な奴だったし、食べて行くために大学に入ったけど、こうやってゼミに入ってから本当に大学に入った意味が分かるようになったんだよね。妹にもそんな大学生活を送って欲しいよ。」

 実はこの私も大学でストレートで入れたわけじゃない。

高校3年の夏ぐらいに入学金が用意できないという理由で大学には行かず、浪人した。

翌年になりなんとか大学には入れたが、大学に入った後はそんなことを忘れて自由に好きなことばかりをしていた。

 なんだか彼の言葉を聴いて、私は恥ずかしくなってしまったくらいだ。

彼のように経済的な苦労をして、お腹が満たすことを自分の力でしている人にとって、教育はそれくらい大事なものだった。

 お腹が満たされるようになれば、教育だって受けられるし、チャンスがある。

それは事実だと思う。

お金は人を自由にするし、自分に選択肢を与えてくれる。

そんな選択肢を私は就職してから様々な形で味わっている。

だが、お腹が満たされれば良いというわけではない。

何故ならば「お腹が減った」ということすら言えない人もたくさん居るのだから。

  私の父母やその上の伯父の世代はそんな「お腹が減った」ということすら言えない世代だ。

伯父たちが普通の日本の学校に入れば、「外国籍」を理由に学校に入学も出来ず、民族学校に入るようなことが起きていた時代だった。

当然、そんな時代だから喧嘩もたくさんしたそうだ。

民族学校の校章をつけていたので、校章で喧嘩を売られたことがたくさんあった。

何故か毎日のように駅で喧嘩を売られては喧嘩し、家に帰る日々。

そんな日々を伯父は送っていたのだ。

伯父の話をするときに、弟である父は極めて誇っているかのように言う。

でも、そんな話を私自身は誇らしいという感情よりも情けないという感情とそうやってでしか生きられない時代のことだったのだなぁと思いながら聴いていた。

伯父はその後、夜間の大学を出て、祖国関係の金融機関に勤めた。

   そんな状況は父や母もそうだった。

特に母の話は強烈だ。母はその当時、韓国籍だったが、何故か公務員を勧められた。

母が高校生の頃から少しずつ、外国籍の地方公務員が認められるような時代になってきたのだ。しかし、母はその申し出を断った。

公務員になったとしても差別される立場は変わらないからだと思ったからだという。

母もまたそんな差別の中にあるので、様々なところを転々とし、今では2人の孫を持つおばあちゃんになった。

 父や母、そして、伯父たちはそんな事実の中で声を出さず、いや、出す方法が分からず、ひたすら耐え忍びながら生きていた。今であればそんなことは差別的なことであると言われただろうし、しっかりと法的な措置も取らなければいけないような事態になっていただろう。

 今の日本の首相は「昭和の良かったころ」が大好きなようだけど、あんな首相の大好きな昭和なんていうのはこんなもんなのだ。

差別が今とは違った形で転がっていて、それが当たり前のように受けとめなければいけない時代。

そんな時代は決して、遠い昔のことではない。

本当にひと世代前のことなのだ。

確かに高度経済成長の頃は良い時代だったかもしれない。

しかし、高度経済成長の頃にあったのは「お腹が減った人に対し、お腹を満たす」人々とそんな人々とは別に「お腹が痛い」と言っても、誰も相手にしてくれない、そんな空間こそが当たり前だった。

 「お腹が満たされる」ということも確かに大事なのだが、「お腹が痛いと言える」ことも、とても大事なことなのだ。

確かにお腹が満たされなければ生活はできない。

それは当たり前の話だ。

資本主義社会で生きている限りは、お金を稼ぎ、そのお金で自分のやりたいことをする。

しかし、それと同時に「お腹が痛い」と言えなければとんでもない病気にかかっているかもしれないのに誰からも無視されて最悪、死んでしまうことになる。

  「お腹が満たされること」も「お腹が痛いと言えること」の両輪があって初めて生きていける。

   だが、今ある危機はそんな「お腹が痛いと言える」権利を自分のお腹を満たしたいが故に平気で「綺麗ごと」として無視することにある。

   皆が綺麗ごとを好まないことはもはや当たり前かもしれない。

綺麗事がまかり通って、言いたいことが言えなかったり、やりたいことができなかったりする。

さらに困ったことに今、この綺麗ごとを糾弾しているのは「お腹が空いてしまってどうしようもない人」ではなくて、自称腹が減った人を代弁する人々なのだ。

彼らの話には「お腹が空いてしまってどうしようもない人」は出て来ない。

出て来るのは驚くことに「自分だけが満たされたい」というだけ。

   そんな欲望が止まらないのも分からないではない。

  「お腹が減った」ということを経験していればその欲望が重要であると思うし、ひたすら食べていくしかないと思ってしまう。

世の中はよく分からない方向に進んでいるし、しかも、訳の分からないことを言っている人たちはたくさん居て、そいつらがやたら自己の欲望に入って来るからなんだか息苦しい。

その中で出て来たのが、「お腹が痛いと言える」権利を「綺麗ごと」として無視して、ひたすら欲望を優先することととりあえず、気に食わない連中は敵として処理することだった。

「お腹が痛いと言える権利」はこうやって無視されることになりつつある。

だが、そんな自称腹が減った人たちを代弁する側の声もかつては「腹が痛い」と叫ぶ人たちと同じ声として扱われ、ちょっとそういったことを主張すれば「アカ」として言われる時代があった。それもつい最近のことだ。

 そんな中で育まれてきたのが民主主義と立憲主義だった。

国家のよる統制ではなくて、自由にあらゆる人々が同じ声の大きさで喋るということをせめても実現させて、その声と皆で決めた憲法で国の政治を動かしていこう。

民主主義をやっていくのにあたってはルールを作った。それは多数決の原理に従う事、そして、少数者の存在は必ず尊重すること。このふたつのルールがあって初めて民主主義が成り立つ。

とても皮肉なことなんだけど自称腹が減った気持ちを代弁する人たちにとって、そんなこともどうでも良い存在らしい。しかし、彼らの発言の自由は「腹が減った人たち」や「お腹が痛いといっている人たち」の努力によって作られてきたものだ。

 そんな大事な原則が少しずつ手放されようとしている。

大事なはずの少数者の権利というやつがそれも「綺麗ごと」とされてしまって、困ったことに多数決の原理のみがまるでハンマーのように用いられようとしている。

    トランプはそんな民主主義のルールを綺麗ごととして、見事に喝破し、自称腹が減った気持ちを代弁する人たちに支持されている。

さすがビジネスマンだ。

どこにどういった欲望があるのかを良く分かっている。

そして、そんな綺麗ごとを喝破しようとしている人たちが次々と現れている。

   しかし、そんな綺麗ごとを喝破しようとしている人たちもまた綺麗ごとの上に乗ってものを言っていることだけは忘れてはいけない。

「お腹が減った」ことも対策しなければいけないし、それに対策できなかった人々にも責任はある、でも、「お腹が減った」から「お腹が痛いことを言う自由」まで壊すのはどうなんだろう?

   お腹が痛いと言う自由は綺麗ごとですか?いいえ、「私が人です」と示すためのものです。

 

彷徨い続けた画家

 

 先日、馬喰町で開かれているジミー・ミリキタニ展に行ってきた。ジミー・ミリキタニについては大学時代に受けていた文化人類学の授業で映画を通して知っている人だったけれども、こうやって、ジミー・ミリキタニという人の作品を観に行くのは初めてだった。

 このブログを読んで「ジミー・ミリキタニって一体誰?」と思った人が多いと思う。

ジミー・ミリキタニことジミー爺さんはニューヨークのストリートで絵を描き続けていたホームレスのおじいちゃんだ。

ホームレスのおじいちゃんなので誰かから貰った色鉛筆やマジックで絵を描いている。

その絵を見てみると一見可愛らしい絵に見えるのだけれど、何か圧倒するものが宿っていて、そんな圧倒する何かと色鉛筆で描いた綺麗な色彩に引き込まれていく。

そんな絵を描くジミー爺さんを追ったドキュメンタリー映画である「ミリキタニの猫」では、ジミー爺さんの知られざる人生を追っている。

 ジミー爺さんの絵で最も興味深かった絵は何と言っても猫の絵だ。

ミリキタニの猫」を意識したわけではなくて、この爺さんの描く猫は寂しそうな表情を浮かべたり、人に会いたくてしょうがないような表情をしている。その表情がたまらなく良い。

私の中で猫は自由で気まぐれな生き物というイメージだけど、ジミー爺さんの描く猫を見ていると思わず、絵の世界に自分が飛び込んで、頭を撫でて、抱きしめたくなっていくのだ。

でも、そんな愛らしい猫を描くようになる前のジミー爺さんの虎の絵(どっちもネコ科ですね)は誰をも寄せ付けないようなとても怖い絵だった。

まるで「ここに俺は立っている!」と言わんが如くのなんだか鬼気迫る絵。

映画の中でジミー爺さんの絵を描いているシーンを観た時にそんな鬼気迫るようなジミー爺さんをファインダーは写していた。

 実は私はジミー爺さんの生前を知っている人のトークショーに行ったことがある。

それは「ミリキタニの猫」の続編である「ミリキタニの記憶」の試写会で、試写の後にジミー爺さんと親交のあった人がトークショーを行なっていたのだ。

その親交のあった人の中にこんなことを言う人が居た。

「ジミー爺さんは映画になる遥か、昔、本当に殺気立った目をしていて、誰も近寄らせないんですよね。」

そんな言葉を私はジミー爺さんの描いた鬼気迫る虎の絵の前で思い出していた。

 私は数あるドキュメンタリー映画の中でも、「ミリキタニの猫」が大好きだ。

まず、主人公のジミー爺さんが可愛らしい。

ひたすら絵を描いている時もあると思えば、ニューヨークの日本庭園で勝手に植物を獲っちゃったり、監督のリンダさんの帰りが遅いと言う理由でまるでリンダさんの父親のように怒ってみたり、デタラメな空手の型を披露してみたり。

話す英語は滅茶苦茶なんだけど通じてしまう不思議なところもあったり(笑)

でも、そんな自由で可愛らしいジミー爺さんには悲しい歴史があった。

 ジミー爺さんはアメリカ生まれで、家族もアメリカに居たが、単身日本に渡り、日本で青春時代を過ごしていた。

 ジミー爺さんが青春時代を謳歌していた頃、今みたいに戦争の足音が聞こえる時代だった。

当時、日本で絵の勉強をしていたジミー青年は兵士になりたくないと言う理由で、大好きな絵を学ぶためにアメリカに行った。

(帰ったじゃないんだよね?ジミー爺さん。ごめん。どっちでも良かったかな。)

だが、アメリカもアメリカで日系アメリカ人を収容所に入れる法律を作り、日系アメリカ人を次々て収容所に入れていた時代だった。

絵を学びたいと思ったジミー青年も収容時に収容され、アメリカの市民権も奪われた。

やがて戦争が終わるが、市民権が回復されたことも知らず、また家族ともバラバラになり、絵を描きながら様々なところを転々とし、最後はニューヨークのホームレスになった。絵を描き続けることは止めなかったけど。

 彷徨い続けた人生の中で彼が忘れなかったことは収容所で亡くなった少年のことだった。

収容所で亡くなった少年はジミー青年に懐いていて、絵を教えたり、一緒に遊んだりしていたそうだ。

映画の中では語られなかったが、打ち捨てられたジミー青年にとって心を癒してくれるマブダチ存在だったのかもしれない。

 しかし、戦争はとても残酷なもので弱い奴から死んでいく。

そんな残酷な法則にジミー青年のマブダチは死んでしまった。

日本とアメリカの戦争の中で、ジミー青年には一生晴らせないかもしれないくらいの暗い影になってしまったのだ。

 そんな暗い影を救ったのはこの映画だった。彼はニューヨークの路上で絵を描いていた時にたまたま出会ったある女性ドキュメンタリストに出会い、最後には彼があの少年との思い出が詰まったかつて収容されていた収容所まで行くことができた。そして、唯一生き残っていたお姉さんに会うこともできた。

 ジミー・ミリキタニの奇跡の話を軽く説明するとそんな話だ。ジミー爺さんがかつてアメリカの地で苦労してきたこと。ジミー爺さんが受けた傷。ジミー爺さんが最後は癒されたこと。

そんな人として美しい奇跡の話。

映画批評としてあらすじを言ってしまうのは反則なんだけど、これを言わなければいけない。

この映画の角度を変えてみるとまたちょっと違う視点になってしまうこと。

それはジミー爺さんをかつてアメリカの迫害の中で苦労した、アメリカを代表する「日本人」画家としてしまう視点だ。

確かにジミー爺さんは「日本人」にこだわり続けていた。

ミリキタニ一族が元々、武士の家だったことをカメラの前で嬉々として話してみたり、映画を観るにも「日本」を代表する俳優三船敏郎のサムライ映画ばっかりみたがる。

このこだわりには自分がアメリカの市民権を奪われたという屈辱的なことがあったのだろう。彼はアメリカの社会保障制度も受けたがらず、日本人として生きていたい。日本の社会保障制度の中で生きていたい。と発言したこともあった。

 良く良く考えてみたら私たちはこんな「日本人として生きていく」なんていうことを言いがちだ。(私の場合はどっちつかずなんだけどねー笑)

海外の映画祭に行った時に日本人監督や俳優や女優が受賞した時に言う言葉は必ず「日本人として海外の賞を受賞したのは嬉しいです」という言葉。

「もう、自分の実力で取っちゃいました!」なんて明るく言えば良いじゃないとお茶の間の私は思うんだけど、やっぱりそんなことは言わない。

謙遜しているのか、それとも俺/私の演技は「日本人」だからこそ出来たからなのか。

そんなことは受賞した本人たちしか知らないことだ。

 ジミー爺さんの場合はこんなナチュラルな言葉とは違う。もっと深い深い傷になっているからこその「日本人」だ。

日本とアメリカの戦争に巻き込まれ、アメリカの中で差別を受け、祖国であった日本にも帰れず、戦争のせいで大事な親友まで喪った。

彼がこんなことを言いたくなることは本当に良く分かる。

私自身も明日、韓国と日本が戦争をしてしまったら国籍を奪われ、無国籍として生きなければいけないかもしれない。

街中で差別は蔓延り、大多数が無かったことにしていく中での絶望は計り知れない。

そんな時に頼るものは自分のアイデンティティを強化することだ。

韓国人として生きるとか日本人として生きるとか、どっちつかずな自分をひたすらに押し込めようとする。

そうでもしなければやってられない。

 自由の国アメリカの中で自由を得られず、戦争を理由に日本人だという理由で収容所に入れられ、親友を喪くした彼にとって、戦争はとても切実な問題で、ジミー爺さんにとって、怒りの原点だった。そして、「日本人」であることを示すことはそんな怒りを示すことだったし、ジミー爺さんの語り継ぐ表現の方法だった。

それだけジミー爺さんはギリギリの中で生きていた。

 だけど、自分の中に切実な問題を持っていればいるほど、「この問題は私にしか分からない」というなんだか訳の分からない独りよがりに陥ってしまう。でも、そんな独りよがりだけでは何も解決にはならない。「そうなんだ。」「そんな問題があるんだ。」で終わってしまう。

そんな経験何回もしたけれど、いつの間にか自分の中の怒りが優先してしまって、対話にはならない。

ジミー爺さんが描いて、私が観た虎の絵はそんなジミー爺さんの怒りと対話ではなくて、強烈なメッセージを発していたからこそのジミー爺さんの自画像だったのかもしれない。

 誰にでも噛み付く孤高の虎としてアメリカという敵国で生きていたのだ。 

  そんなジミー爺さんはリンダさんというドキュメンタリストに出会うことでまた変化していく、自分の中にあった怒りがリンダさんというかつてであれば敵同士だったかもしれない人と出会い、リンダさんも知らなかった収容所の話を話し、絵を描き続けた。

 ジミー爺さんの絵は威圧的な虎からだんだんと愛らしい猫を描くようになってきた。

その猫は歴史を超えて、ずっと描き続け、向き合い続けてきたジミー爺さん自身だったのだ。

 だからこそ、私はジミー爺さんを「日本人」だから素晴らしいのではなくて、「ジミー・ミリキタニ」だからこそ素晴らしいと言いたい。

彼はただ虎のように叫ぶのではなくて、誰かと繋がりたくて絵を描いていたのだから。

ジミー爺さんを「日本人」画家として国家や民族の中に回収するのではなくて、ジミー爺さんをひとりの偉大な画家として観ていくべきだ。

それを思うのと同時にジミー爺さんの絵画が本当に評価される日はいつになったら来るのだろうか?という疑問が出て来る。

安易な「日本人の代表」を語る芸術家が居る中でジミー爺さんの本当の素晴らしさは見逃されてしまう。

ただのアメリカで苦労し、活躍した「日本人」画家としてしか観られず、ジミー爺さんの絵を評価する人間は居ないだろう。

ジミー爺さんの絵が民族や国家の中に組み込まれていくのは大変口惜しい。

彼の彷徨い続けた生き方そのものにこそ、普遍性があるからだ。 

私は生き方として、ジミー爺さんの絵を観ていきたい。

 良く考えてみれば人間はずっと旅をしてきた動物だ。

 ヒトが生まれたのは150万年前だとすれば、定住を始めたのが1万年前と言われている。

149万年の間、ヒトは旅をし続け、美しい文化を咲かせていった。

面白いことにヒトの脳は旅をすることによって発達させていったそうだ。そして、人との繋がりを発展させていったのも旅だった。

だが、そんな歴史はあまり注目されない。

彷徨うことはヒトの本能なのに、彷徨うことよりもどこかに自分を求めたがる。

あたかもそれが自分自身の本質であるかのように。

でも、そんな本質と思っている場は様々な人間の繋がりと彷徨いの中で生まれてきたものだ。   だからこそ、私は場所よりも場所を作っている人の方が愛おしい。

この場所に行き着くためにどういった旅をしてきたのか、どんなものを見てきたのか、どんな風景があったのか。それを知りたくてしょうがない。

そして、不思議なことに様々な場所を作っている人たちの色が様々な混じり合う瞬間が素敵だ。それを文化と呼ぶのだと思う。

  昔、エドワード・サイードが残した言葉がある。

 サイードもジミー爺さんと並ぶ彷徨い人だ。パレスチナ人だが、パレスチナを追われ、エジプトに住み、さらにそこからアメリカに渡った。しかも、彼のお墓はレバノンにある。

 サイードは亡くなる前に友人のタリク・アリのインタビューであることを語っていた。

それは自分のアイデンティティを探ることなんかよりも自分のアフィリエーションを探すことが大事だということだった。

 つまり、サイードは血や場所なんかよりも人の繋がりを重視したのだ。

 彷徨い続けるからこそ人は人と繋がりたいと思いたいのかもしれない。

表現をしたいと思う根源にも誰かと対話したいというそこはかとない欲求があって成立すると思う。

自分の周りのことを誰かに表現したくてしょうがないんだから。

誰かに知ってほしい、違う痛みを持った誰かと話をしたい。

そう思った時に彷徨い続けることがスタートするのかもしれない。

それは自分を高めてくれるアフィリエーションを追うための彷徨いだ。

「歴史」の中で生きていく

 朴槿恵が辞めるか辞めないかの瀬戸際に居る。今日も韓国では大統領の辞任を求めるデモがあったようだ。最近、日本と同様にデモを起こしても意味は無いんじゃないかというような空気感があったのにかなり驚きだ。日本でも漂うような冷笑的な空気をぶっ飛ばしてしまうくらい韓国に住んでいる人々が怒っているということだと思う。

 そもそもこんな事態になってしまったのは、朴槿恵が親友である崔順実に頼って政治を行っていたばかりか、大統領が彼女に相当便宜を図っていたということが分かったことからだった。一部の報道では崔順実がムーダン(沖縄で言えばユタのようなもの)で、そんな崔順実のお告げを聞きながら政治を行っていたという話すら存在する。さらに面白いものでこの報道に対して韓国のムーダン全国協会が崔順実がムーダンではないということ、本来のムーダンとは神と人とを結ぶ役割であるということをわざわざ声明として発表した。確かにムーダンだったうちの父方の祖母もこんなことに怒ってしまうだろうなぁと思いながら私はムーダンたちの怒りの声明文を読んでいた。それくらい崔順実の事件は韓国社会に大きな衝撃を与えたのだ。

 思い返してみれば、こんなことは今までの韓国の政治では観られなかった。確かに韓国は1945年の独立から1988年まで43年間は李承晩と軍部政権による独裁政権という日本とは全く違う政治史を歩んできた。そんな中でも色々な人が尽力をして、民主化を勝ち取った。そんな国で朴正煕の娘が大統領になるのは皮肉なことなのかもしれないけれど、そんな紆余曲折があって今がある。でも、そんな独裁政権の中でもこんなことは起きなかった。まるでドラマのワンシーンのように感じてしまう。

 韓国はとても面白い国で、MBCという放送局で激動の韓国政治史を描いた第五共和国なんていう歴史ドラマがある。もし、韓国が第六共和国から第七共和国になれば、きっとこのこともドラマ化されるのだろう。もう朴槿恵が辞めるのも時間の問題だろうなぁというのが私の見立てた。

 どうでも良いかもしれないが、朴槿恵にはあんまし良いイメージは無い。それは私の実体験の中に居る朴槿恵のイメージがあるからだ。そのイメージは何もしない「大統領」というそんなイメージだ。

 2014年に私は釜山に留学していた。本当に些細なことがきっかけなんだけれども、全く韓国語が喋れず、まっさらな中で韓国に行くことになり、不安でいっぱいの韓国留学だった。言葉も喋れないからとりあえず飲むことだけは覚えた。そうでもしなければ人と接することができない。しかも、寮生活とは言え、親元から離れて生活するのも初めてのこと。初めてづくし、分からないこと尽くしの中でとりあえず慣れていくのに必死だったそんな中である事件が韓国で突然起きた。

釜山から近い、珍島というところで、なんとフェリー船が沈んだということだった。当時通っていた語学堂の先生が職員室でパソコンを通してフェリー船から逃げてくる人々を救助する様子を食い入るように見ていたことを覚えている。そんな大きなことがあったからとても大変。その時行われるはずだった運動会は中止になり、語学堂が主催の作文大会は開かれたものの開会式の中で黙とうを行った。街中では人々が黄色いリボンを胸につけ、沈没事故の追悼を行っていた。

 しかし、人々の追悼の中で政府の対応はかなり酷いものだった。まだ沈没してしまった船の中には遺体があるのに引き上げようともしなかったり、大統領が声明を出すにもかなりの時間がかかった。大統領が何かをしていたというイメージも無かった。

おりしもその当時、韓国国内では物価の上昇が始まっていた。お金のない留学生活だから正直、この物価上昇は様々な負担になった。それでも大統領は何もしない。

冬にソウルに旅をしたのだけれど、景福宮前の大きな広場でセウォル号事件の被害者たちの団体と物価上昇を食い止めるための対策を行ってほしいと主張する政治団体が隣同士で署名活動をしていた。

その光景を見て私は一体、この国の大統領は何をしているのだろうと思ってしまった。

 そして、現在、崔順実の「お告げ」によって政治をしていたことが分かり、あの時のグダグダな韓国政府の理由が分かったような気がした。そりゃあ、お友達に「助言」してもらわないと何もできないんですからね。

  私は帰国後、母親に夕食の席で韓国の様子を語った。母親は1970年代からちょくちょく韓国に里帰りしていたようだし、留学もしていた時期があったようだ。しかし、結婚後には韓国に行くこともなくなり、最後に母が韓国へ行ったのは1980年代後半。丁度、韓国が民主化運動の波で揺れていた頃である。そんな時代しか知らない母に今の韓国の様子を話すのはなんだか楽しい。韓国の様子を話す中で、母親に朴槿恵の悪口を言った。悪口というか生活の愚痴として大統領が何もしないということを話したという感じ。そうしたら、「お父さんは偉大なのにねぇ」と話し、朴正煕がいかに凄かったかを熱弁された。朴正煕が貧しかったころの韓国の経済を立て直した話、朴正煕の政治によって国民の生活が豊かになった話、朴正煕暗殺後には国民が皆、泣いていた話。話は朴正煕の話で終わるのかなぁと思った後、まだまだ話は続いた。朴正煕の後の全斗煥がいかにダメだったのかという話、民主化運動で大学の校舎から身を投げた学生の話・・・・・。

 挙げていけばキリがないのだけれども、私の韓国現状報告会から一気に母の韓国現代史を語る会になってしまったのだ。

 母の話を聴いていた私はこの人の中でそうか、朴正煕はこうやって語るのかと思った。一応、所属していたゼミの一つは韓国政治を専門としているところだったから、朴正煕の光と影のようなことは嫌でも勉強させられる。韓国を旅していた時に朴正煕が良いイメージではなくてむしろ、独裁者としてのイメージとして語られることが多く、朴正煕をここまで賛美する人も今どきいないと思う(笑)。でも、そんな語りを私の母はしたのだ。

 母の話を聞き終わった後に、母方の祖母が私に話をしてくれた現代韓国史の話をしていたのを思い出した。祖母の現代韓国史の話もかなり面白い。なにせソウルのど真ん中に住んでいて、植民地朝鮮だった頃を生きている。祖母からは色んな話を聞いた。植民地時代の話はもちろん、植民地時代にこっそり韓国語を使っていた話や植民地に住んでいた日本人の話、太平洋戦争が起きたときの話1945年8月15日の話、アメリカ軍政期の時のアメリカの軍人さんの話、李承晩大統領就任式に行った話、朝鮮戦争でお祖母ちゃんのお姉さんの旦那さんが拉北された話、4・19学生革命の話、5・18軍事クーデターの話。そんな話をたくさんしてくれた。

中でも驚いたのは、私と祖母の二人で終戦記念日のテレビ番組を見ていた時に、独立運動家だった金九と同じ教会に通っていたという話をし始めたことだった。どんな人だったのと私が聴くと、「体が大きくて、とても人格的に立派な人で色々な人に慕われていた」という話をしていたのを覚えている。

こんな生活の中で母も祖母も子供である私に対して、あの時代の韓国に所属していた人間として語り継ぐプロジェクトをこのように行っていた。それはある面からすれば「韓国人」というアイデンティティーを高めるためだったのかもしれないが、その語り継ぐプロジェクトをどのように料理していくのかは私の仕事だと思っている。また面白いのがこのプロジェクトを行っている際の祖母と母の語り口だ。実は祖母と母は血のつながりがないのだけれども、その語り口が実の親子なのではないかと思うくらいにそっくりなのだ。これがもしかしたら語り継ぐ共同体の中での継承なのかもしれない。

 歴史とは史料の中に様々な事実があることは確かなんだけど、こうやって聴く、嘘か真か分からない家族の話が時に私に届いて来る。それは家族自慢をしたいわけではなくて、そんな歴史が日常にある光景は歴史の中に私が生きていることを伝えてくれる。それはアイデンティティーをただ高めるだけの話ではない、確かに遠くに居るからこそ高めたくなるアイデンティティーだけど、そこは踏み止まって、静かに話を聴いて、言葉に引き戻さなくちゃいけない。これがまた結構難しい。

 何かに留まりたい欲を抑えながら、留まれない私を受け容れること、そして、留まれないからこそ、美しい風景が観れるということ。そんな美しさが何かに繋がると思っている。

 なかなか難しいかもしれないけれど歴史が語りかけてくれる虎のような吐息のようなものであったり、そんな空気は日常のほんのちょっとしたところにあって、そんなちょっとしたクレバスのようなところから妙なものを見たりすることができる。そして、それを言葉に引きもどすのは何よりも大変だし、自分を試されるがそんな時にこそ自分が語り継ぐ立場として何を語るかということが大事になる。そんなチャレンジを人知れず今でもしている。

 息づく歴史はこんな感じで継承される。それは責任なのかなんなのかは分からないが、代々継承されていく語りで多分、文章ばっかり読んでいる人には相手にされない。でも、こんな大事なことがあるからこそ、私は歴史を歴史としてどこか他人事のようにしてしまうのではなくて、私がそんな歴史の延長線上に居るということを感じるためのものだ。でも、そんな歴史の延長線上に居る私に酔ってもいけない。御先祖様は凄かった。おじいちゃんは凄かったなんて、若い僕が言うのはダサいじゃない(笑)そもそも人の営みに凄いとか凄くないとかそんなことは関係無い。人の営みそのものが物凄い確率の中で行われているのだから、その確率の凄さを嚙みしめたいし、そんな昔あった人の営みのようなものを私は感じていたいのだ。

 そんな人の営みを伝える温度のある語りがあるからこそ、ときに身近に感じられない海の向こう側の話が私の手の中に温度を持って届けられる。きっとこの話はナショナリストの考えで行けば、韓国語でされなければいけない話かもしれない。そんなことは意地でもお断りなのだが(笑)、実際に私や母、祖母が語っている時に使う言語は日本語なのだ。よくよく考えてみればこれも凄い話だ。同じ帝国だったとは言え、遙か遠くで起きた帝国と植民地の歴史の話がこれまた歴史のいたずらと人の営みによって海を越え、帝国の言葉であるはずの日本語で時代を超えて話をしている。たまにこの語り継ぎのプロジェクトは韓国語では出来ないのではないかと思う。そう、この語り継ぎのプロジェクトは日本語だからこそ成立している話なのだ。

 歴史であるからこそ時に史料に頼らなければいけない。この視点を忘れてはいけないのと同時に人の営みを語る語り口や方法も考えなければいけない。歴史や文化とは語られるものを受け取るだけではなくて自分がどうやって語るのかという視点があって初めて成立する他者のための物語なのだ。これを共同体の原理を強化するために利用するのではなくて、むしろ私自身が所属している共同体の外の他者に出会う為にどのように語っていくのかは常に問われるところだろう。私が誰かに私の歴史を話す時、どんな言葉を用いれば良いのか?どんな語り口であれば全く違う人と繋がることができるのか?どんな声の大きさであれば美しい対話になるのか?そんな言葉の知恵こそが私の共同体の問題を時に助けてくれるし、他の共同体の問題を出すけることもあるかもしれない。そう考えれば、言葉の力って本当に鍛えれば鍛える程、新しいものを生み出す可能性を与えてくれる。大事なのはこの語り継ぎのプロジェクトは現在だけではなくて、未来の誰かとも対話ができる素晴らしいプロジェクトであることも

 そして、より大事なのはこの語り継ぎのプロジェクトは現在だけではなくて、未来のだけかとも対話ができる素晴らしいプロジェクトであるということだ。祖母や母は未来を託すために私に過去を話した。過去を話すことは未来に自分を投げ出すということでもある。そう、言葉という形でかつて自分が居た空間や体験を永遠のものにしていくということだ。

人は肉体があるので朽ちていくが、不思議なことに言葉だけは生き残る。

その形式は様々だ。口伝として残されていたり、文字として残されていたり、はたまた、絵画や漫画、映画や様々なものに化けながら言葉のバトンが続いていく。

そんなバトンを受けたときには次にどうやってバトンを渡していくのかということを考えるようになった瞬間に人は「大人」になったのだと思う。

 一体、私の歴史の中で崔順実のできごとはどう語るのだろう。それは私が未来に身を投げ出すとても大事なプロジェクトなのかもしれない。

「何かのため」に生きなきゃいけない時代に

 季節の変わり目はとりあえずヘコみやすくなる。こんな性格は高校の時からそうだったからお付き合いしなくちゃいけないなぁと思いながら、日々、生活しているけどなかなか治るものじゃない。まぁ、大学に居た頃よりかはまだマシか。

大学に居た頃はサッカーの勝ち負けでヘコみ、自分の中のどーしようもない感情でヘコみ、自分の言葉の至らなさでヘコみ、伝わってないなぁと思ってさらにヘコんでいた。

大学を卒業してからだとヘコむことが減るかなぁと思ったけどむしろ増えつつある(笑)

こんなもんなのかなぁと思いながら、今日もヘコんでいたらヘコむ内容が自分だけのことじゃなくて、同級生が病気になったり、同じ年齢に近い人が死んじゃうことみたいな他者のことであることに気づく。

いや、ヘコんでいるというか、これは恐怖に近いのかな?

 24歳で電通に勤めていた女性が自殺したことを知った時のヘコみはこんなヘコみだった。

どうやら去年のクリスマスに自殺したとのことだったから、私が卒論とか就活していないからどうしようとかそんなことを考えている時に別のところではこんな悲しいことがあったのかと思うと他人事なんて思えない。

でも、報道は段々と過労死で亡くなった悲劇の女性から電通叩きになっていった。

鬼十則」と呼ばれる誰が決めたのだか分からないような原則の奇妙さやいつまでも社屋の電灯が消えないこと、労働基準局が電通にまで捜査をしに行ったこと。

なんか妙な違和感だけが私の中に残る。

ふと、大学生だった5年前を思い出してみた。

 私が大学生だった頃と大袈裟に言ってみたけど、5年前からやたら「意識の高い学生」がもてはやされた頃だった。

社会人と対等に付き合い、世のため、人のために行動していく学生はなんだか世の大人にウケたのだろう。

そんな学生たちを見ていて、私みたいな人間は「クソッタレ」としか思わなかった。

はっきり言えば嫉妬というやつだ。

臆病な自分に対して、正々堂々と世のため、人のために働いている彼らになんだか抜かされたような気がした。

でも、世の中はとても残酷なもので、そんな「意識の高い学生」たちを叩き始めた。

不思議なことに彼らが叩かれ始めた瞬間になんか変な違和感を私は感じた。

「いや、お前らに叩く資格はないだろ」と言った感じで。

「意識の高い学生」も最初から意識が高かったわけじゃない。

今の就活のシステムの中でどうしても必要とされたから意識が高くなったのだと思う。

自己実現」だとか「社会貢献」だとかそんな言葉ばかりが先走ってしまって、なんだか分かんなくなったのかもしれない。

そんな姿を見ている大人たちは「ゆとり」という自分たちが生み出したはずの制度のせいにして、そんな意識の高い学生たちに同じ格好をさせ、同じ就活の教本を買わせ、同じことを面接で話させ、ちょっとしたことがあれば「ゆとりだから」と言って、飲み屋の肴にするだけだった。

誰かのためでなければいけないという強迫観念を植え付けて、いらなくなったら若者で遊び始める世界に生きているんだなと思うと就活なんて私にはできないと思った。

 どうやら自殺してしまった24歳の女の子は弱者には辛いツイートをしていたようだ。

そのツイートが良いかどうかは別として、少し頷ける自分が居る。

ひたすら「何かのため」に頑張っているのに、「何かのため」にならないものが存在するのは腹が立つ。

「なんで私だけ?」

「なんでこいつらは楽をしているの?」

人に聖人君子なんてそうそう居ないものだから、そんなことを思いながら生活していたのは事実かもしれない。

  こんな「何かのため」にということから私は相模原の殺傷事件を思い出した。

この事件も「何かのため」にならないと目した人々をターゲットにした事件だった。

24歳の女の子が自殺した話と相模原の殺傷事件から見えていく「何かのためになる人間」と「何かのためにならない人間」という線引き。

私たちは恐ろしい峻別をしている。

本来、人はそこに居るだけで尊いものなのに、そんな尊さを忘れてしまって、いつの間にやら「何かのためになるかならないか」という軸で人の価値を判断していたのだ。

そんな判断は日常生活の中にも存在する。

 この国では人身事故が頻繁に起きている。人身事故は大ごとなのに電車の中では舌打ちをする人、ため息をする人、会社に電話して、出社が遅れることを謝る人…この中には誰も人身事故で死んでしまった人を悼むことを考えない。

ただひたすら「自分のため」にならない人物の死には興味がないということを言いたいかのように電車の中では様々な動きをしている。

一体、こんな世の中で「命とはなんだろう?」と考えさせられる瞬間だ。

「何かのため」に生きなきゃいけない時代に、行われているのは「何かのためになるかならないか」という命の選別だった。

24歳の女の子がクリスマスに自ら身を投げたこともひたすら「何かのため」になろうと頑張り、相模原で凄惨な事件を起こした彼は「何かのため」にならないと目した人々を次々と刺した。「何かのため」とする世の中はとうとう人の命を侵すようになった。

 こんな時だからこそ、「何かのため」じゃなくて、「これでいいのだ」と私は言いたい。

別に理由なんてなくても良いし、なんだって構わない。

ただ、そこに存在する尊さを分かち合えるようになりたい。

相手に何かを求めてしまうけれど、そんな求めることよりもただ、そこに居る大切さだけを私は感じたい。

「これでいいのだ」にはそんな魔法があると思う。

そして、そんな魔法の言葉を言うことこそが自殺してしまった電通の社員だった彼女や相模原の事件で亡くなってしまった彼らへの何よりの追悼だと信じているから。

あの凄惨な事件を生き抜いた人たちを癒す言葉だと信じているから。

言葉ならばきっとどこにでも届くよね?

 

 

 

日常の中にある問題と路上に出る問題

 今日は何の変哲もない休日だった。風邪気味だし、今日はゆっくりと寝ながら過ごそうかなと思っていたけれども、Twitter上であることが話題になっていたので、思わずこのブログを書こうと思い、今、パソコンの画面と向き合っている。

その話題は早稲田大学の人物研究会が桜井誠を学園祭のゲストに呼んで、色々と話を聴くというものだった。この話は瞬く間にTwitter上に広がり、結局、桜井は呼ばれないことになった。

 最初、この話題を観ていた時に、なんで桜井みたいな奴を呼ぶのか不思議でならなかった。なぜ口を開けばヘイトスピーチしか言わないような不気味な存在であるにも関わらず、呼んで話を聴くというのがまず最初に理解できなかった。確かに学園祭の中では東京都知事選挙に関してのことを色々と聴くようだったけれどもこんなこと本当に信用できるのかとも思うし、もしかしたら、別に目的があって呼ぶのかもしれないなぁとも考えていた。

正直、桜井から「出て行け」と言われるような立場になるとどうせヘイトをまき散らすに決まっているだろとしか思わない。

こんな感じで私の中では様々な逡巡があった。

 この話題で面白かったのは「学問の自由」という言葉で人物研究会を擁護する人たちの多さだった。

確かに今から数年前はこの「学問の自由」という言葉を私は享受していた。

「学問の自由」は本当に素晴らしい。好きなだけ自分の好きなことを研究ができる。当時、学者になりたかった自分としてはこの「学問の自由」という言葉自体が好きだったし、その「学問の自由」をできるだけ謳歌していってやろうと思いながら大学に通っていた。

 しかし、「学問の自由」って一体何かな?もっと言えば「大学」って何かな?ということを私は1年前からずっと考えるようになっていった。それは今の私にとってとても大きな衝撃だった。

 1年前のある日、私は大学の食堂で友達と喋りながら、お昼ご飯を食べていた。本当に他愛もない、所謂、「日常」と呼ばれるような時間。

隣の席に座っていた学生が何かビラのようなものを置いて、どこかへ消えてしまった。一体このビラは何だろう?と思ってそのビラを読んでいると明らかにヘイトスピーチが書かれている文章だった。その文章が一体どこにあったのかを私は探し出し、大学の職員に提出した。

職員はその文章を受け取ると「ご協力、有難う。ちょっと学内で検討するから」と言って、その日は終わった。私は大学当局から何らかのレスポンスがあるものだと思って期待していた。

 しかし、なかなか大学当局から返事が来ない。一体、この件に対してどのようになっていたのか?どのようなことを学内で話し合いをしたのか?全く返事もなければ何かしている様子も無かった。何度か私は大学当局に話をしに行ったけれども反応が宜しくない。最終的には大学全体の相談室のような所に相談するために電話までしたけれども、結局、「それは学部で相談してください」と言われてそのままこの話は終わってしまった。

 この大学当局との静かなやり取りの間、私は本当に悩んでいた。自分の身の周りにもとうとうヘイトスピーチが来てしまったこと、ヘイトスピーチが来たのにも拘らず、何もできない私に愕然としたこと、そして、大事にするべきなのに大事にしたくないという私の中の訳の分からない気持ち。

あの日々は今から考えてみたら、自分にとって言葉を生み出したいと思った原体験のひとつだったと思う。韓国留学から帰ってきて、「国境なんか関係ないんだなぁ」と漠然と考えていた日常の中であのビラはもう一度、この国で私はディアスポラであると感じさせられた事件だったのだから。

私は散々、悩んだ挙句、就活だとか進学のことを考えるよりも血の通った卒業論文を書こうと思った。そうすることによってでしか自分が動けなかった情けなさとか、無かったことにされてしまった悔しさとかそんなものをぶつけることができなかったからだ。

この卒業論文のお陰で私は現在、勤めている会社の社長に拾ってもらうことが出来た。私は幸運だったかもしれないが、今でもどうにかして言葉を伝えたい、言葉を拾いたいと思って生きている。

 多くの人がヘイトスピーチが起きている現場を「路上」であると思っている。確かに最近、「路上」で桜井みたいな連中による酷いデモが公然と行われていて、そのデモの様子を見ているだけで憤りを通り越して、呆れてしまう。そんなデモの中でカウンターに出かける人も多い。でも、こんな構造だけがヘイトスピーチなのだろうか?

 ヘイトスピーチという言葉が巷の人々の中で広まっていく中で、「ごく一部の変な人たちによる変なことを大声で言いまくっていて、それに対抗している怖そうなお兄さんたちと喧嘩している」というだけのステレオタイプだけが広まってしまって、なかなか日常の中にある差別の構造を説明するのに、ヘイトスピーチを受けている側からすると本当にやりきれない。差別は日常の中に存在して、そんな中でアクションを起こそうとする人々が居れば、そうではなく、私みたいに他の手法で何とか向き合っていこうとする人たちも居るし、中には私が通っていた大学当局の人たちと同じように黙り込んで、無かったことにしまう人たちも居る。それもまた現実なのだ。

 小さなヘイトスピーチは本当に人から声を奪う。小さければ小さいほど、そして、それが身近な誰かから発せられればられるほど、如何して良いのか分からず、いつの間にかなかったことになってしまう。本来は行われるべきではないことが日常の中で行われていく不気味なことが今、少しずつ起こっているのが現状なのだ。ヘイトスピーチは決して、遠い路上のできごとではなくて、ごく隣にあるとても切実な問題なのだから。

 だからこそ、私は言葉を信じていきたい。ヘイトスピーカーに私の言葉が届くかは置いといて、これからのためにどうにかして言葉を紡いでいきたい。こんなクソったれな時代の中ででも希望はあるということ、生きるための手段はあるということこそが本当に次の苦難の時になった時に役に立つと思っているからだ。現にこの私を支えているのは苦難の時代を過ごした人々が必死な想いをして紡いできた言葉だ。

 自分の民族的なアイデンティティーに悩んだり、性的指向に悩んだり、その他の様々な抑圧の中でなんとかして言葉を紡ぎ出していこうと思って、大学に通う人も居る。そういう悩みを抱えながら生きている人はそんな日常を過ごしながら生きている。

「学問の自由」はそんな人たちにこそ微笑むべき大事な大事な女神様のようなものだと信じている。

 じゃあ、この「学問の自由」というやつは一体誰が守らなければいけないのだろうか?

私の後輩で面白い奴が居た。普段は本当に勉強もしている様子もないし、おちゃらけているのだけれども、学費の免除の署名活動をしていた。お陰で私はその後輩には頭が上がらない(笑)

でも、そんな個人の一人一人の小さな動きや言葉の発信が何かを変えていく可能性だってある。私は何かアクションを起こせる学生ではなかったけれども、そんな小さなことが積み重なるときは観てきた。

 「学問の自由」は時に手入れをしなければいけない。そんな手入れを突然、任されることに抵抗があるかもしれないけれども、そんなことは突然起きてくる。

ビラを見た時に何もできなかったことを思い返してみるとそんな重大なことを突然任されたことに対して、なんだか変な責任感とその責任から逃げていきたいという感情があったからかもしれない。でも、そんな責任から逃げることは出来ないんだっていうことがあの日々から思い出される。

逡巡の中にこそ私は可能性があると思っている。

ただ単に、外野が叫んだから桜井を呼ばないみたいなそんなツマラナイことにしちゃいけないと思う。

 桜井誠をどうして呼んだのかは釈然としないし、納得できない。

きっと内部の人間だったら必死になって止めに行っているだろう。

でも、僕はあえて言いたい。

「で、君達はどういう選択をするの?」

当事者の聲の形

 私はTwitterをやっているけど、いつも不思議なSNSだなぁと思いながらやっている。

色々不思議なところを挙げていけばキリが無いんだけど、不思議だなぁと思うことは個人によって違う時系列が目の前にたくさん出てくるところだ。

こんなことはSNSをやっていたらあんまり味わえない。

 例えていうならこういうことかもしれない。

今日は三笠宮が亡くなった。

ニュースを見ていたら8時半ぐらいに亡くなったようなのだけれども、私はその時間、いつものように会社に着いて、仕事の準備をしていた時間だ。

三笠宮が亡くなった瞬間と私が仕事の準備をしていた瞬間が同時並行で起きていた。

言葉にすれば簡単な話だが、言葉にしてしまうとなんだか奇妙な時間軸になっていく。

1つの世界の中で複数のことが同時に起きている事実。

この事実は当たり前の話なんだけれども、考えれば考えるほどなんだか触れてはいけない何かに触れてしまっているような気がしてならない。

だけど、そんな触れていけない何かを可視化して、伝えてくれるのがTwitterだ。そして、そんなTwitterが時にとても面白い時系列を僕にプレゼントしてくれる。

 昼休みにTwitterを見ていたら、あるツイートとあるツイートが同時並行で流されていた。

一方は震災で被害を受けた大川小学校の裁判で原告側の弁護士が出した垂れ幕に対して、勝手に亡くなった子供達を用いたことに違和感を覚えるツイートもうは高江の基地反対運動に高江に住む住民たちが「迷惑」しているツイート。

こんな何の関係もない話が並ぶんだなぁと思ったが、こんなタイムラインを見て、このふたつの出来事はクロスしているのではないかと思った。

それは「当事者」という視点だ。

 「当事者」が何かを喋るのは本当に難しい。当事者であるが故に喋りたいことがたくさんあるし、当事者であるが故に喋れないこともある。

 私は在日コリアンの当事者として何かを語ることが多くなった。それは自分が在日であることをアピールしたいわけじゃなくて、社会的な排除の論理が少しずつ私の日常にも迫ってきているからだ。

そんな日常の中で喋ることによって、何とか今の悪い状況を変えていきたいという気持ちがあって、そんな気持ちが今の私を支えていると思う。

私たちが考えている常識とは違う軸がそこにあるだけで、何かが変わることに期待しているのだ。

 しかし、期待とは裏腹に何か当事者として語るのを止めてしまおうかなと思うことがある。

私が在日を語る時、もう「日本籍なのだから日本人として生きていきなさい」という反応が来た時は特にキツイ。

確かに私は日本籍なのだけれど、常に排除された可能性を持っている。

アイデンティティーの迷子として話しているのではなくて、私として話をしているのにと思い、黙って、言葉が足りなかったと思って、とりあえずアイデンティティーの迷子としての地位を甘んじてしまう。

 それなら、在日という存在を理解していて、支援している人に話をするならそれで良いの?となる。確かに在日に興味を持っている人に在日の話を話すのは正直楽しい。

ただ、その楽しさは本当に良いのか?

私という人間を在日という枠に当てはめて、その中で生きている「可哀想な人」というショーケースの中に入れてしまう。

日本という共同体の中で生きづらさを感じているのも事実だけど、同時に何気ない生活の中に幸せを感じる自分も居るし、下らないことを言ったり、頭の悪いことを考えていたりする自分だって居る。

在日という小さなショーケースに居る私はいつの間にかショーケースのものになってしまって、なんだか私には分からない異形のものになって、私を襲う。

SNSで世界は決して1つではないことを目で見ているはずなのに。

 「当事者」であればあるほど、当事者として生きている面とそうではなくて普通の人として生きている面が線引きできない世界の中でその中を行ったり来たりしながら生きている。

そんな複雑な世界に生きていれば言葉で語ることが難しい。

一体、「当事者」はどう語れば良いのだろう?

  私は「当事者」を隠すようなことをする必要もないと思うし、かと言って「当事者」というショーケースに入ってしまうのにも違和感がある。それは問題を隠すことによって問題は解決しないし、当事者性の快楽に身を委ねたって、「当事者」の枠にはめられて、ショーケースのものになってしまうからだ。

実は「当事者」を隠させることも「ショーケース」に入れることも表裏一体の作業なのではないかと思った。

どちらも「当事者」という存在をどこか遠くのものにしてしまって、いつの間にやら、身の周りにはそんなことが無かったかのようにしてしまう。

そんな無かったかのようにしてしまう構造自体が「当事者」から言葉を奪ってしまう根源なのだ。

だからこそ、「当事者」には時に寄り添いながら、「当事者」が立っている立場を一括りにするのではなく、丁寧に見て、聴いて、触れて欲しい。

そんなことが寄り添うということなのだと思う。

 これは聴き手だけの問題じゃない。「当事者」も語ることを求められた時にどう語るのかが常に求められている。ショーケースの中の自分で「共同体の私として語る」のか、それとも何も語らず、無かったかとにする共犯になるのか。

常に私が居る立場を疑いながら、言葉を紡がなければいけない。それこそが「当事者ではない」人々と繋がっていくための大切な何かだと信じている。

ある意味だとそんなことが求められている側にこそ希望があるのかもしれない。

私が居る立場を疑い続け、言葉を紡ぐ立場は確かにキツいがそんな中だからこそ、言葉の中に未来を宿すことができる。

私はそんな可能性を信じているからこそ、言葉に向き合い続ける。

私の言葉がいつか届くことを祈りながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

「土人」はいつも猿轡をされる

 ここに何かを書こうとしながらじっくりと言葉が溜まるのを待っていた。私が言葉を溜めている時に今、居る世界では様々なことがあった。どの事もあまりにも酷くて言葉が出ない。

 大手企業の私と同じ年の社員が過労死した話、沖縄の高江の話、今も止むことはないヘイトスピーチの話、盛り土があるはずのところに盛り土が無い東京オリンピックの話…なんだかこんな世界に居ることが嫌になってしまうようなニュースばかりが画面を通して、私の目に飛び込んでくる。

 当然、ネットだと動画も配信できるようになっているし、誰も修正しようとしないからテレビでは流せないようなエゲツないリアルを見ることもできる。

そんなモノばかり見ていたら、精神的に参ってしまうだろう。

現にこの私はインターネットが無い世界こそが良いんじゃないかと思ったりすることもある。

中にはもう外の世界で起きている酷いことを「あー、またこのニュースか…」なんて言って、外で起きていることに慣れてしまう人たちも居る。

そうやってひとつひとつ言葉が奪われてしまうと何も対処できない。そして、いつの間にか変な方向にいってしまう。

そんな恐ろしい時に私は言葉を言える人間になりたい。それでしか伝わらないと思うから。

 今日は沖縄の高江で嫌な事件があった。

高江のヘリパッド反対運動をしている人に対して、大阪府警の機動隊員が「土人」と言い放った。

このニュースを知った時に何も言えない気持ちで支配された。

その気持ちは呆れてしまった気持ちと公権力に居る人が「土人」という言葉を使ったことへの恐怖感からだった。

今時「土人」なんていう言葉は「北海道旧土人保護法」みたいな高校で習った日本史の中でしか聴いたことがない。

 勇気を振り絞って、時間が空いた時に「土人」と言い放った瞬間の動画を観たが、自分の年齢(24歳)とさして変わらなさそうなどこにでも普通に居る警察官のお兄さんがそんなことを言っていた。

多分、彼が私の住んでいる地域に居れば、道交法違反で自転車切符を切られている私と会うことができたかもしれない。

そんなことを思えば思うほど、何かを語るということよりもただ黙ってしまうことを選んでしまう。

その沈黙はニュースに慣らされた沈黙ではない。私自身にとってとても身近に感じるからこその沈黙だった。

  私は日本籍の在日コリアンだ。言ってしまって良いのか分からないが、沖縄の人たちと立場は似ている。

植民地の体制の中で、今でも生きている存在だ。

そんな植民地の体制の中では本当にどうしようもない不条理が多い。挙げていったらキリがないくらい(笑)

そんなキリがないことを外で言うことも多くなった。

何せキリがないたくさんのことが私を襲うようになったから。

そんなことを言う度に言われることがある。それは「あなたは少数派だからしょうがない」とか「そういう中で生きているんだからしょうがない」、「君が少数派であることを隠せば良い。そうすれば気にしなくなる。」「あんまりそういうことを言っていると利益にならない」という言葉だ。こんな言葉を聞く度に呆れてものが言えなくなってしまう。

少数派だろうが多数派だろうがその人の権利を奪ってはいけないのが民主主義のもう1つのルールだ。そんな当たり前のことを無かったことにしてあたかも自分が常識人のように語ろうとする姿勢は何よりも醜い。

クラスのいじめを見ているようだ。

「あいつは〇〇だからいじめてやろう」

なんだか小学校の教室に居るような感覚にもなる。

マイノリティーはマジョリティーのために存在するのだろうか?歴史的な経緯からマイノリティーになった立場からすればそんなマジョリティーの利益のためには生きていないと言いたくなる。ただ単純に普通の生活をしたいだけなんだからその普通の生活をするために猿轡をかませられなければいけないのか?そして、マジョリティーの利益になるためだけの存在にならなければいけないのか?

よく考えてみたらこれも教室の理屈と同じだ。

いじめられっ子がクラス全体のためにピエロになって全体のサンドバッグになっていく。

なんか教室の理屈だけは変わらないという虚しさだけが残る。

そうやって猿轡をされたまま都合の良い存在で居なきゃいけないのか?

 あの「土人」という言葉には沖縄に猿轡をしている言葉だ。

「土人だから経済を潤す私たちに感謝しろ」「土人だから基地を作っても良い」「土人だからいざとなったら見捨てたって構わない」

そんな理屈が沖縄の話でも罷り通っていたのだろう。

沖縄には基地に関して様々な意見があるのは知っている。

そのどれもが当事者として悩み、様々な葛藤がある中で出した各個人の結論だ。そんな結論を「土人が近代も理解しないで話し合った戯言」とでも言いたいのだろうか。

「土人」だから猿轡をさせて、何も喋れなくしてしまう。

いざ、声を出そうとすれば「やっぱり土人だから」と言う。

そして、都合の良い時は「俺様が育て上げた立派な近代人」

そんなことが一体いつまで続くのだろう。

あの若い機動隊員はふと言ったにしか過ぎなかったと思う。上司からの命令でやらなければいけない仕事をやっていた。それだけにしか過ぎないのかもしれない。

私も彼と似たような年齢なのでどこか同情してしまう。

ただ、言われた側としてはその言葉ひとつで固まってしまう。私が「チョーセン人」とか「チョン」とか言われるのと同様に。

あの「土人」という言葉は目取真俊さんに向けて言った言葉だという話がある。

目取真さんは言葉のプロだ。

そんな言葉のプロでもあの言葉の前では様々なことが逡巡したと思う。

そんな彼が選んだ方法は映像で今ある瞬間を残したことだった。

その映像はインターネットを通して、私の下にも届けられた。

なんだインターネットにも希望はあるじゃん。

 いや、インターネットじゃない。

希望は人にあるかもしれないな。