終わらない戦争を語ろう

 68回目の6月25日はとても晴れている。あの戦争が起きたときもこんな青空だったのだろうかと思いながら私は朝ご飯を食べて、自転車で図書館に行く準備をしていた。きっとあのときも人々は普通に過ごしていたに違いない。そんな日常が失われてから今日で68回目になる。

 今日は朝鮮戦争の開戦日だ。韓国ではこの戦争を「韓国戦争」もしくは「ユギオ」(「6・25」の韓国語読み)と呼び、北朝鮮では「祖国解放戦争」と呼ぶ。突然、始まったこの戦争は朝鮮半島全土を戦場にし、様々な人を犠牲にして分断を確定的なものとした。一応、休戦協定締結以来、大規模は戦争は起こっていないものの、準戦時体制は続いている。

 釜山に留学していたとき、私は大学の寄宿舎からバスに乗って買い物に行こうとしていた。ある交差点に差し掛かった時、突然、バスが止まった。何事かと思って、運転手に話を聞いてみたところ「国民訓練だよ。」と言われた。韓国では北朝鮮の侵攻に備え、避難訓練が行われている。そんな出来事と遭遇したとき、私はまだ韓国と北朝鮮が戦争状態であることを実感した。ここ数年、南北が融和ムードになりつつあって、つい先日、文在寅大統領が朝鮮半島での冷戦終結をロシアの下院で宣言したことを知って、何かが変わろうとしていることを感じた。だが、戦争は政治指導者の鶴の一声で終わるものではないことを私は知っている。

 朝鮮戦争が起きたとき、ソウルに住んでいた私の祖母はまだ23歳だった。突然、起きた戦争に驚いたと言っていた。祖母の家族は植民地時代からのクリスチャンホームで牧師や宣教師を多く輩出していて、戦争中にクリスチャン狩りをしている噂があった朝鮮人民軍の手から逃れるためにソウルを脱出し、様々な場所を転々としていた。
 戦争が落ち着いたある日のこと、事件が起きた。一家でソウルに帰還するため、汽車に乗っていたとき、朝鮮人民軍と居合わせてしまった。逃げなければいけないと思った祖母たちはすぐに汽車から飛び降りその場を脱出した。しかし、後ろの車両に乗っていた祖母の姉の夫はそれに気づかず、そのまま捕まってしまった。有名な宣教師だった彼はその日以来、家族のもとに帰ることはなく、そのまま北朝鮮に連行されて殺されたという。戦後、祖母の姉は子どもを抱えて窮乏の中で亡くなった。

 それから何十年も時が経ち、祖母が亡くなる前にこんなことがあった。末期の大腸がんで、鎮痛剤を打っていた彼女は意識が朦朧となりながら介護をしていた私に「どうしよう。パルゲンイ(韓国語で「アカ」の意味)と憲兵が追いかけてくる。」と話していた。私は気丈だった祖母の怯えた顔に驚き、一晩寝ずに隣に居た。その話を母にしたところ、母は「昔からずっとそう。」と言った。祖母は戦争の悪夢にずっとうなされていたのだ。

 戦争が起きているときは明日死ぬかもしれないという恐怖と戦いながらどうやって生きていこうかということしか考えない。きっと朝鮮戦争中に様々なところを転々としていた祖母もそうだったと思う。しかし、戦後になってから戦争の悲惨さを様々な形で体験することになる。その悲惨さがあまりにも酷すぎて口にできない人たちも存在する。

 いくら政治指導者たちが「戦争は終結した。」と言っても、普通に生きている人たちの心の中では戦争が起こり続ける。きっとこうした心の動きは国境や人種を越えるのではないだろうか。日本でもアジア太平洋戦争で祖母と似たような体験をした人たちはたくさん居ただろうし、ベトナム戦争や中東で起きている戦争でもそうだろう。

 「戦争を知らない世代」と私たちは言われるが、きっとそんな私たちも戦争を見ている。それは戦争によってトラウマと生きなければいけない人たちの戦後のもがきという戦争だ。