悲劇の先に絆を作る

  先日、とあるところでインタビューを受けた。そのときに聴かれたことは「若い人たちにどういうメッセージがありますか?」というだった。こういう質問のとき、私は「とりあえず本を読んで下さい。」と答えることにしている。
 最近、自信を持って、そのように答えられるような本に出逢った。

その本とは『あるデルスィムの物語―クルド人文学短編集―』だ。この本は1937年に起きたクルド人によるデルスィム反乱をテーマにしている。クルド人は国を持たない中東の民族として知られ、トルコのほかにイラクやシリアにも存在している。

 トルコ共和国を建国する際、クルド人への自治が約束されていたが、その約束は破られてしまい、クルド人たちは反乱を起こす。しかし、その反乱は失敗し、反乱に参加した人たちはトルコに虐殺され、生き残ったクルド人に対しては強烈な同化政策を行った。この状況は今でも変わっておらず、トルコ国外に逃亡するクルド人たちも数多く存在する。
 この作品を読んでいて感じたことは、トルコの中でデルスィムの出来事がいかに語りにくいかということだった。どこか奥歯に挟まったような言い方をしなければこの事件を語ることができない。私はそんな作品に思わず共感してしまった。

 2018年は済州島にルーツのある私にとってとても特別な年だ。1948年に起きた済州島4・3事件が発生して70周年を迎える。今年は済州島に文在寅大統領がやってきて、大きなセレモニーも開かれたそうだ。

 私はこの事件についてあまり聞いていない。父方の祖母の家系は済州島の中でもかなり良い家だったようだが、この事件のついて、祖母は何も語らなかった。彼女が昔話をするとすればたった2つだけだった。

1つは「本当に苦労したんだよ」。

もう1つは「兄弟は全員、戦争で死んじゃった」ということだけ。
 祖母は何も語らず死んでしまった。

 私がこの事件を知ったのは大学の授業でのことだった。その授業を受けながら私が韓国に留学するとき、父が「韓国で何があるのか分からないから気をつけろ。」と言われて飛び立ったことはここにあったのかもしれないと思った。
 悲劇の歴史を受け継いだ子孫たちということを自覚すると、どうしてだか自分の生き方も息苦しくなってくる。警戒しなければいけないことだって増えてくるし、語らなければいけないことだって多くなる。

そんな生活に疲れているとき、私はクルド人の虐殺事件をこの本を通して知った。
 その出来事を知った私が最初に思ったことは「なんだ。友達がここにも居たんじゃん。」ということだった。トルコと韓国はとても遠い国だが、同じような悲劇を経験した人たちが居る。そういう人たちが居ることを知れただけでなんだか嬉しい気持ちになった。それと同時に私が背負っている歴史はもしかしたら在日であることを確認するために語るだけではなくて、他の世界の誰かに「ひとりじゃない」と語れるメッセージになるのではないかとも思った。
 真っ暗闇な中に居るとそんなメッセージが何よりも嬉しい。
夜にお月様に出逢ったようなあの感覚だ。

 本を読むと自分とは違うところに居るはずなのに、同じ気持ちを分かちあえる人に出逢える。

 自分たちが背負っている悲劇の歴史を知ったとき、その悲劇に落ち込んでしまう。でも、背負っている歴史は違う世界に生きている友達に会うために存在していると思う。
 きっと文学とは語ることすらできない悲劇を数珠のようにつなげて、違う世界の友達を探すためにあるのかもしれない。

私は悲劇の先に絆を作ることができると信じている。

そうしてできた絆を「希望」と呼びたい。