文化は境界線を超えて

  昨日、ノーベル文学賞の受賞者が発表された。

日本国内では、長年、村上春樹が受賞候補とされていたが、今年は、日系イギリス人のカズオ・イシグロが受賞した。

 実のところ、私はカズオ・イシグロのファンだったので、受賞されたとネットで観た時に思わず、「やったぁー!」と叫んでしまった(笑)

多分、誰かが栄誉を獲得して、叫んだのは2010年のワールドカップでサッカー日本代表デンマークを下した時、以来である。

 カズオ・イシグロノーベル文学賞を受賞したと発表されるや否や、彼の経歴が話題になった。

 彼は長崎生まれの日系イギリス人で、5歳の時にイギリスに渡って、イギリスで教育を受けた。その為、日本語は話せないらしい。

喜びの声の中には彼のノーベル文学賞受賞を日本人による受賞(彼のエスニシティ―的な意味での「日本人」)だと言って、喜んでいる人も居た。

 だが、私はこんな喜び方に違和感があった。

それはカズオ・イシグロの言葉が、「日本人」だからこそ得られた言葉ではないと思っているからだ。

 私の家族は元々、焼肉屋を経営していたので、我が家の食卓には当たり前に「韓国料理」が並んでいた。

私は今まで、家庭で食べる「韓国料理」こそが「韓国料理」であると思い込んでいた。

なので、大学時代、釜山に留学することが決まった時、食には困らないだろうと思っていた。

 だが、その考えは釜山で生活を始めてから、すぐに違うと気づいた。

我が家で出ている「韓国料理」と釜山で食べられている「韓国料理」が全く違うのだ。

確かに、我が家で出ている「韓国料理」に近い、「韓国料理」は釜山にも存在する。

だけれども、釜山で食べられている「韓国料理」とは何かが違う。

 実は釜山で食べられている「韓国料理」は韓国の中でも味が濃く、辛いと言われているらしい。

私のゼミの指導教官は湖西地域の出身だが、釜山料理は味が濃いと言っていたし、朝鮮戦争の影響で、北朝鮮から来た避難民による釜山独特の食文化も存在する。

 まず、食から馴れなければいけないと思い、私は我が家の「韓国料理」との違いを克服するため、一年間、釜山の「韓国料理」しか食べないと誓って、実際に韓国料理しか食べなかった。

 そのお陰で、今では韓国の「韓国料理」が、いや、釜山の「韓国料理」が大好きになった。

釜山留学中は釜山の「韓国料理」のみならず、あらゆる地方の「韓国料理」を食べた。
韓国では全羅南道の料理が美味しいと言われているし、それは認めるが、やっぱり、私の舌に合っているのは、釜山の「韓国料理」である。

 とは言っても、やはり、我が家の在日コリアンの家庭料理も大好きだ。

やっぱり、我が家の焼き肉のタレや我が家のキムチは美味しい。

余所行きじゃない「韓国料理」が食卓に並んでいるとホッとする。

釜山の「韓国料理」を食べている時とは違う安心感だ。

 カズオ・イシグロの話をしていたのに、何で、韓国料理の話をしているのかと思われた方も居るかもしれない。

 だが、考えて欲しい。

カズオ・イシグロは5歳で日本を出て、イギリスで育ってきた。

言わば、多文化な世界で育ち、多文化な中であらゆる言葉や文学に出会って、素晴らしい文学を紡ぎだしてきた人だ。

 カズオ・イシグロの言葉は我が家の韓国料理にもダブってくる。

我が家の韓国料理は父方の済州島の味、母方の祖父の忠清南道の味、ソウルの味、そして、日本の味が混ざって、今の安心感のある「韓国料理」になった。

 文学も食もどちらも人が作り出しているという意味では「文化」という枠に入るだろう。

 「文化」とはそんな人と人との交流やあらゆる文化との「出会い」の中で生まれてくるものだと思っている。

 韓国の韓国料理ではスパムが良く出て来る。

どうやらアメリカの基地があった影響らしいが、これは我が家では出て来ない。

 一方、我が家ではキムチを漬けるのに昆布や魚醤を使う。

韓国で食べているキムチとは違って、出汁が味の決め手になってくる。

実は韓国で出汁を味の決め手にしているキムチを食べたことがない。

 これから異なる文化と出会ったおかげでできた素晴らしいものだ。

 カズオ・イシグロの紡ぎだしてきた文学も同じものだと思っている。

彼は日本映画からも影響を受けながらも、イギリス文学の伝統の最先端に居ると言われてる。

そして、何より食事は身体を癒すための食事であり、文学は精神を癒すための食事みたいなものだ。

 私たちは「言葉」を食べて生きている。

その「言葉」は境界線が無いと示しながらも、境界線と向き合い、あらゆる文化と向き合い、作り上げられたものだ。

 境界線が無いと証明している文化に、一体、誰が境界線を引こうとしているのだろうか?

 境界線を引くことは時に、残酷なことを引き起こす。

そんな境界線を、誰かが引く行為に対抗する時に、境界線を越えた、境界線の存在を否定する文化が光ってくる。

もしかしたら、カズオ・イシグロノーベル文学賞を受賞したのは境界線を引くことを厭わない現代だからなのかもしれない。