日常の中にある問題と路上に出る問題

 今日は何の変哲もない休日だった。風邪気味だし、今日はゆっくりと寝ながら過ごそうかなと思っていたけれども、Twitter上であることが話題になっていたので、思わずこのブログを書こうと思い、今、パソコンの画面と向き合っている。

その話題は早稲田大学の人物研究会が桜井誠を学園祭のゲストに呼んで、色々と話を聴くというものだった。この話は瞬く間にTwitter上に広がり、結局、桜井は呼ばれないことになった。

 最初、この話題を観ていた時に、なんで桜井みたいな奴を呼ぶのか不思議でならなかった。なぜ口を開けばヘイトスピーチしか言わないような不気味な存在であるにも関わらず、呼んで話を聴くというのがまず最初に理解できなかった。確かに学園祭の中では東京都知事選挙に関してのことを色々と聴くようだったけれどもこんなこと本当に信用できるのかとも思うし、もしかしたら、別に目的があって呼ぶのかもしれないなぁとも考えていた。

正直、桜井から「出て行け」と言われるような立場になるとどうせヘイトをまき散らすに決まっているだろとしか思わない。

こんな感じで私の中では様々な逡巡があった。

 この話題で面白かったのは「学問の自由」という言葉で人物研究会を擁護する人たちの多さだった。

確かに今から数年前はこの「学問の自由」という言葉を私は享受していた。

「学問の自由」は本当に素晴らしい。好きなだけ自分の好きなことを研究ができる。当時、学者になりたかった自分としてはこの「学問の自由」という言葉自体が好きだったし、その「学問の自由」をできるだけ謳歌していってやろうと思いながら大学に通っていた。

 しかし、「学問の自由」って一体何かな?もっと言えば「大学」って何かな?ということを私は1年前からずっと考えるようになっていった。それは今の私にとってとても大きな衝撃だった。

 1年前のある日、私は大学の食堂で友達と喋りながら、お昼ご飯を食べていた。本当に他愛もない、所謂、「日常」と呼ばれるような時間。

隣の席に座っていた学生が何かビラのようなものを置いて、どこかへ消えてしまった。一体このビラは何だろう?と思ってそのビラを読んでいると明らかにヘイトスピーチが書かれている文章だった。その文章が一体どこにあったのかを私は探し出し、大学の職員に提出した。

職員はその文章を受け取ると「ご協力、有難う。ちょっと学内で検討するから」と言って、その日は終わった。私は大学当局から何らかのレスポンスがあるものだと思って期待していた。

 しかし、なかなか大学当局から返事が来ない。一体、この件に対してどのようになっていたのか?どのようなことを学内で話し合いをしたのか?全く返事もなければ何かしている様子も無かった。何度か私は大学当局に話をしに行ったけれども反応が宜しくない。最終的には大学全体の相談室のような所に相談するために電話までしたけれども、結局、「それは学部で相談してください」と言われてそのままこの話は終わってしまった。

 この大学当局との静かなやり取りの間、私は本当に悩んでいた。自分の身の周りにもとうとうヘイトスピーチが来てしまったこと、ヘイトスピーチが来たのにも拘らず、何もできない私に愕然としたこと、そして、大事にするべきなのに大事にしたくないという私の中の訳の分からない気持ち。

あの日々は今から考えてみたら、自分にとって言葉を生み出したいと思った原体験のひとつだったと思う。韓国留学から帰ってきて、「国境なんか関係ないんだなぁ」と漠然と考えていた日常の中であのビラはもう一度、この国で私はディアスポラであると感じさせられた事件だったのだから。

私は散々、悩んだ挙句、就活だとか進学のことを考えるよりも血の通った卒業論文を書こうと思った。そうすることによってでしか自分が動けなかった情けなさとか、無かったことにされてしまった悔しさとかそんなものをぶつけることができなかったからだ。

この卒業論文のお陰で私は現在、勤めている会社の社長に拾ってもらうことが出来た。私は幸運だったかもしれないが、今でもどうにかして言葉を伝えたい、言葉を拾いたいと思って生きている。

 多くの人がヘイトスピーチが起きている現場を「路上」であると思っている。確かに最近、「路上」で桜井みたいな連中による酷いデモが公然と行われていて、そのデモの様子を見ているだけで憤りを通り越して、呆れてしまう。そんなデモの中でカウンターに出かける人も多い。でも、こんな構造だけがヘイトスピーチなのだろうか?

 ヘイトスピーチという言葉が巷の人々の中で広まっていく中で、「ごく一部の変な人たちによる変なことを大声で言いまくっていて、それに対抗している怖そうなお兄さんたちと喧嘩している」というだけのステレオタイプだけが広まってしまって、なかなか日常の中にある差別の構造を説明するのに、ヘイトスピーチを受けている側からすると本当にやりきれない。差別は日常の中に存在して、そんな中でアクションを起こそうとする人々が居れば、そうではなく、私みたいに他の手法で何とか向き合っていこうとする人たちも居るし、中には私が通っていた大学当局の人たちと同じように黙り込んで、無かったことにしまう人たちも居る。それもまた現実なのだ。

 小さなヘイトスピーチは本当に人から声を奪う。小さければ小さいほど、そして、それが身近な誰かから発せられればられるほど、如何して良いのか分からず、いつの間にかなかったことになってしまう。本来は行われるべきではないことが日常の中で行われていく不気味なことが今、少しずつ起こっているのが現状なのだ。ヘイトスピーチは決して、遠い路上のできごとではなくて、ごく隣にあるとても切実な問題なのだから。

 だからこそ、私は言葉を信じていきたい。ヘイトスピーカーに私の言葉が届くかは置いといて、これからのためにどうにかして言葉を紡いでいきたい。こんなクソったれな時代の中ででも希望はあるということ、生きるための手段はあるということこそが本当に次の苦難の時になった時に役に立つと思っているからだ。現にこの私を支えているのは苦難の時代を過ごした人々が必死な想いをして紡いできた言葉だ。

 自分の民族的なアイデンティティーに悩んだり、性的指向に悩んだり、その他の様々な抑圧の中でなんとかして言葉を紡ぎ出していこうと思って、大学に通う人も居る。そういう悩みを抱えながら生きている人はそんな日常を過ごしながら生きている。

「学問の自由」はそんな人たちにこそ微笑むべき大事な大事な女神様のようなものだと信じている。

 じゃあ、この「学問の自由」というやつは一体誰が守らなければいけないのだろうか?

私の後輩で面白い奴が居た。普段は本当に勉強もしている様子もないし、おちゃらけているのだけれども、学費の免除の署名活動をしていた。お陰で私はその後輩には頭が上がらない(笑)

でも、そんな個人の一人一人の小さな動きや言葉の発信が何かを変えていく可能性だってある。私は何かアクションを起こせる学生ではなかったけれども、そんな小さなことが積み重なるときは観てきた。

 「学問の自由」は時に手入れをしなければいけない。そんな手入れを突然、任されることに抵抗があるかもしれないけれども、そんなことは突然起きてくる。

ビラを見た時に何もできなかったことを思い返してみるとそんな重大なことを突然任されたことに対して、なんだか変な責任感とその責任から逃げていきたいという感情があったからかもしれない。でも、そんな責任から逃げることは出来ないんだっていうことがあの日々から思い出される。

逡巡の中にこそ私は可能性があると思っている。

ただ単に、外野が叫んだから桜井を呼ばないみたいなそんなツマラナイことにしちゃいけないと思う。

 桜井誠をどうして呼んだのかは釈然としないし、納得できない。

きっと内部の人間だったら必死になって止めに行っているだろう。

でも、僕はあえて言いたい。

「で、君達はどういう選択をするの?」