先週、阿賀野川の旅へ出掛けていた。
きっかけは『阿賀に生きる』という傑作ドキュメンタリー映画を通して知り合った、旗野さんという方に東京で阿賀行きを誘われ、その翌日にはすでに新潟行きの深夜バスのチケットを買っていた。
旅の初日、新潟市内で旗野さんと待ち合わせだったのだが、実は旗野さんと会う前にボトナム通りという柳の木が街路樹の通り道に出掛けた。
以前、このブログで紹介したように新潟市は在日朝鮮人の帰還事業の拠点になった。
1950年代から新潟港から北朝鮮の元山港へ総勢10万人の在日朝鮮人たちが出掛けていった。
私の祖父の弟一家もここから北朝鮮に渡り、祖父の一家は新潟まで来たが、民団の切り崩しにあい、日本に残ることになった。
新潟という一見関係のない地でまさか、私自身のルーツを辿るとは思わなかった。
感慨にふけった後、旗野さんと新潟駅で会い、その後、昼酒ならぬ午前酒を楽しみ、2時間のインターバルを挟み(真面目な新潟水俣病の講演会を聴き)、その後は講演会の会場で知り合った冥土連の皆様と愉快な時間を送り、柳水園で宿泊した。
2日目は映画「阿賀に生きる」のツアーに参加した。2日目からは坂東先生と坂東先生の学生さん2名が参加し、一緒に行動することになった。
今回のツアーで色々、お話をしてくださったのは平岩さんという方。
この方の説明がとても分かりやすい!
旗野さんと出会っているにも関わらず、私は新潟水俣病の話はまだ良く分からない。今まで疑問に思っていたことや歴史として知らなかったことは全て平岩さんの丁寧な話で理解するようになった。
それに加え、新潟水俣病だけではなく、新潟の近代史にまつわる話もたくさん話して下さった。
ツアーの後は旗野さんと坂東先生と坂東先生の学生さんとカメラマンの伊藤さんと柳水園で大宴会!途中から記憶が無い(笑)
3日目は伊藤さんのご厚意によって、途中まで自動車で送って頂き、そこから新幹線で地元に帰っていった。
実はこの旅の中でずっと引っ掛かっていたことがある。
それは初日の2時間のインターバル、こと、新潟水俣病の講演会だった。
若松さんという方が講演をされていて、とても勉強になったのだけれども、なんだか新潟の話をされた気がしなかった。
これは旗野さんから聴いた話だが、新潟水俣病は長らく、熊本の水俣病と比較される対象であり続けたという。
『阿賀に生きる』が完成する前まで、マスコミや有名な表現者たちは水俣を追い続けた。
それは新潟に比べて、画になるということが理由だったらしい。
だけれども 「新潟」水俣病だからこそできることは何なんだろうということは問われないままだ。
新潟という土地は実は戦後日本の舞台となった土地だ。
私の祖父や祖父の弟が関わった帰還事業の中心地であったし、戦後民主主義と金権政治の象徴である田中角栄が出たのも新潟だ。
そして、新潟は新潟水俣病が起きた土地でもあり、原発をいくつも抱えている地方自治体でもある。
つまり、新潟は他の土地よりも戦後日本の切実な問題を抱え込んだ土地でもあるということだ。
そんな土地にはどんな可能性があるのだろう。
水俣病のみならず、ある社会問題を語ろうとするとその社会問題がどういった問題であるということしか語られない傾向にある。
「在日」を例に挙げてみると、「在日」の問題を外に向かって語ろうとすればするほど、「在日」以外の問題を語れなくなってしまうということだ。
私がまだ在日コリアンに関する卒論を書いていた頃、友人のシェアハウスで、卒論の中間発表会を開いてくれた。
中間発表会自体は「上手く」いき、懇親会になって、友人と深夜まで話していた。
そこにある女性が現れた。
友人に紹介してもらい、私の中間発表会の内容にについて話した。
それを聴いた彼女は滔々と彼女の話をし始めた。
彼女自身のセクシャリティーの話。
彼女自身の身内の話。
彼女の言葉から滲み出る切実さに言葉が出なかった。
そして、彼女が話を終える時、私に問いかけた。
「私は生きていて良いんでしょうか?」
私は中間発表会が失敗したと気付いた。
「そうか、在日しか語っていなかった」と。
そこから私とは違う切実さを持った人とどうやって繋がれるかを考え始めたと思う。
新潟には様々な問題があって、その問題から様々な切実さを抱えた人たちが居る。
そんな様々な切実さを抱えた人たちが語り始めた時、切実なところから繋がれる大きな可能性がある。
近代の知恵とは個が個で応答することだという。
そんな個の切実さに個の切実さで応答した時、どんな新しい言葉ができるだろう。
それが新潟だからこそできる語りだと思った。
映画によって焼かれた私はまるで鮭みたいな旅をしていたのかもしれない。
1日目も2日目も柳水園の楓の間で食事をしたけれども、誰かもうひとり居るような気がした。
ああ、あの人か。
あの人はここに居るのか。
1日目は旗野さんへの乾杯で、2日目はあの人への乾杯だった。
どうやらずっと私たちを追いかけていたらしい。
そっかぁ。
私は焼いた魚として海から川を目指していたところをあの人に撮られていたのか。