焼いた魚は海から川を目指す

    先週、阿賀野川の旅へ出掛けていた。

   きっかけは『阿賀に生きる』という傑作ドキュメンタリー映画を通して知り合った、旗野さんという方に東京で阿賀行きを誘われ、その翌日にはすでに新潟行きの深夜バスのチケットを買っていた。

   旅の初日、新潟市内で旗野さんと待ち合わせだったのだが、実は旗野さんと会う前にボトナム通りという柳の木が街路樹の通り道に出掛けた。

以前、このブログで紹介したように新潟市在日朝鮮人の帰還事業の拠点になった。

1950年代から新潟港から北朝鮮の元山港へ総勢10万人の在日朝鮮人たちが出掛けていった。

私の祖父の弟一家もここから北朝鮮に渡り、祖父の一家は新潟まで来たが、民団の切り崩しにあい、日本に残ることになった。

新潟という一見関係のない地でまさか、私自身のルーツを辿るとは思わなかった。

   感慨にふけった後、旗野さんと新潟駅で会い、その後、昼酒ならぬ午前酒を楽しみ、2時間のインターバルを挟み(真面目な新潟水俣病の講演会を聴き)、その後は講演会の会場で知り合った冥土連の皆様と愉快な時間を送り、柳水園で宿泊した。

   2日目は映画「阿賀に生きる」のツアーに参加した。2日目からは坂東先生と坂東先生の学生さん2名が参加し、一緒に行動することになった。

今回のツアーで色々、お話をしてくださったのは平岩さんという方。

この方の説明がとても分かりやすい!

旗野さんと出会っているにも関わらず、私は新潟水俣病の話はまだ良く分からない。今まで疑問に思っていたことや歴史として知らなかったことは全て平岩さんの丁寧な話で理解するようになった。

それに加え、新潟水俣病だけではなく、新潟の近代史にまつわる話もたくさん話して下さった。

   ツアーの後は旗野さんと坂東先生と坂東先生の学生さんとカメラマンの伊藤さんと柳水園で大宴会!途中から記憶が無い(笑)

   3日目は伊藤さんのご厚意によって、途中まで自動車で送って頂き、そこから新幹線で地元に帰っていった。

    実はこの旅の中でずっと引っ掛かっていたことがある。

それは初日の2時間のインターバル、こと、新潟水俣病の講演会だった。

若松さんという方が講演をされていて、とても勉強になったのだけれども、なんだか新潟の話をされた気がしなかった。

   これは旗野さんから聴いた話だが、新潟水俣病は長らく、熊本の水俣病と比較される対象であり続けたという。

阿賀に生きる』が完成する前まで、マスコミや有名な表現者たちは水俣を追い続けた。

それは新潟に比べて、画になるということが理由だったらしい。

  だけれども 「新潟」水俣病だからこそできることは何なんだろうということは問われないままだ。

   新潟という土地は実は戦後日本の舞台となった土地だ。

私の祖父や祖父の弟が関わった帰還事業の中心地であったし、戦後民主主義と金権政治の象徴である田中角栄が出たのも新潟だ。

   そして、新潟は新潟水俣病が起きた土地でもあり、原発をいくつも抱えている地方自治体でもある。

   つまり、新潟は他の土地よりも戦後日本の切実な問題を抱え込んだ土地でもあるということだ。

そんな土地にはどんな可能性があるのだろう。

   水俣病のみならず、ある社会問題を語ろうとするとその社会問題がどういった問題であるということしか語られない傾向にある。

「在日」を例に挙げてみると、「在日」の問題を外に向かって語ろうとすればするほど、「在日」以外の問題を語れなくなってしまうということだ。

   私がまだ在日コリアンに関する卒論を書いていた頃、友人のシェアハウスで、卒論の中間発表会を開いてくれた。

中間発表会自体は「上手く」いき、懇親会になって、友人と深夜まで話していた。

そこにある女性が現れた。

友人に紹介してもらい、私の中間発表会の内容にについて話した。

それを聴いた彼女は滔々と彼女の話をし始めた。

彼女自身のセクシャリティーの話。

彼女自身の身内の話。

彼女の言葉から滲み出る切実さに言葉が出なかった。

そして、彼女が話を終える時、私に問いかけた。

「私は生きていて良いんでしょうか?」

私は中間発表会が失敗したと気付いた。

「そうか、在日しか語っていなかった」と。

そこから私とは違う切実さを持った人とどうやって繋がれるかを考え始めたと思う。

  新潟には様々な問題があって、その問題から様々な切実さを抱えた人たちが居る。

そんな様々な切実さを抱えた人たちが語り始めた時、切実なところから繋がれる大きな可能性がある。

   近代の知恵とは個が個で応答することだという。

そんな個の切実さに個の切実さで応答した時、どんな新しい言葉ができるだろう。

それが新潟だからこそできる語りだと思った。

   新潟市から阿賀野川流域に行ったのはまるで鮭の遡上のようだ。

映画によって焼かれた私はまるで鮭みたいな旅をしていたのかもしれない。

   1日目も2日目も柳水園の楓の間で食事をしたけれども、誰かもうひとり居るような気がした。

ああ、あの人か。

あの人はここに居るのか。

1日目は旗野さんへの乾杯で、2日目はあの人への乾杯だった。

どうやらずっと私たちを追いかけていたらしい。

そっかぁ。

私は焼いた魚として海から川を目指していたところをあの人に撮られていたのか。

蓮舫よ。ここで戦わなくてどうする?

 蓮舫議員がどうやら戸籍謄本を開示するというニュースを知った。代表選の時の二重国籍疑惑に答えるという意味で、自身の戸籍謄本を公開するそうだ。

 蓮舫氏のやることは今後、この国で公職者になった帰化人は全て戸籍謄本を公の公開することを先例化してしまう可能性が大きくなる。自民党内のモデル・マイノリティーである小野田議員を同じ立場として助けることが出来たのも関わらず、党内の事情を優先させて、差別構造を固定化する行為をしてしまったのだ。これが立憲政治家のやることなのか?

 私自身、帰化した立場として、彼女の行為は差別行為を固定化するものだと受け取った。私は政治家になるつもりもないし、そういった公職者につけるぐらい人格も素晴らしいものではない。だけれども、彼女の行為ひとつで私の可能性が閉ざされてしまうそうなことが許せない。私の能力が足りなかったというのであれば諦めはつく。だが、そうではなくて、愚かしい誰かのせいでその可能性が無くなるという事実に腹が立つ。

 彼女がもし、公職に就いていない立場だとしたら、「差別と抗え!」とか「差別と闘え!」なんていうことを言うつもりはない。声を上げることは何よりも大変なことであることは私が良く知っている。だけれども、彼女は公職者であり、日本国憲法の理念を尊重する義務を持っている。ましてや野党第一党の党首という首相候補者の立場として、やってはいけないことをやってしまったのだ。そして、この問題を結局、党の利益としてしか考えられないことに私は腹が立つ。これは党の利益云々という話ではない。日本国憲法の理念を守るための生命線の中でどのようなことをしなければいけないのかということを問われているのだ。

  中にはこの問題を蓮舫氏も被害者ではないかという声もある。確かにそうだ。蓮舫氏は常にミソジニストやレイシストに罵声を浴びせられ続けてきたことは間違いない。だが、今回、「蓮舫さん可哀想」という問題で済ませることはできない。攻撃されていた蓮舫がその攻撃に対して、感化されてしまい、最終的には差別構造を固定化することをしてしまった。

 差別に反対する側として、その事実を言及しないでどうする?

これは「攻撃されてしまった蓮舫可哀想。」という話ではない。

この国に住む人々の人種差別の話をしているんだ。私からしたら蓮舫の被害者性云々の話をしている人たちが差別されている人間が加害に回ることを無視しているようにしか感じない。差別している側も差別されている側も常に行ったり来たりの構造をしている。今回のケースは差別をされている側が差別する側に回り、差別構造を固定化してしまったのだ。私は帰化した人間だからこそこれを告発しなければいけない。

差別されている側であろうともそれを理由に誰かを差別してはいけないからだ。

  この国に私が帰化したのは小学校1年生の頃だ。それは私が当時、警察官になりたくてしょうがなかったことをきっかけにして、両親が帰化を決めてくれた。あの時代は「在日は皆、帰化していくんだ」と言われたことを憶えている。

今では考えられないかもしれないが、今よりも少なくとも帰化することは良いことだと思われていた。

名前を日本名にしてしまうなど、同化してしまう危険性をある程度ではあるものの、この国で権利を得て、民族としての「韓国人」のアイデンティティーを守って生きていくためにはこの方法が私は一番だと思っていた。

 だけれども、蓋を開けてみればこんな現実だった。帰化をしても日本国民とは認められず、私の目の前で行われている現実は、日本人ではないということを理由に排除する理論だった。日本国籍を取得した時に幼い私が少しだけ感じた希望と私の両親が感じた将来への可能性はどこへ行ってしまったのか。

 そして、そんな差別の構造を固定しようとする私と同じ立場の政治家が憲法の理念よりも自分自身の利益を選んだことが許せない。私はそんな利益のための犠牲にならなければいけないのか。

 もしも、タイムマシーンがあって、小学校1年生の頃の私に何と言えば良いのだろう。私には分からない。この子を絶望の淵に立たせたくはない。そして、私と同じ立場の人間が差別する構造を強化するような社会になるということを言いたくはない。

私がこの国に帰化したことは成功だったのか?失敗だったのか?

私には全く分からない。

蓮舫よ。私は私のやり方で今、ここに立っている。

お前さんのやっていることはあの時の私から夢を奪う行為なんだ。

お前さんの保身とお前さんの党のためにどうして私は可能性を奪われなければいけないんだ?

今、お前さんがやらなきゃいけないことは自分自身の立場を受け容れて戦うことなんじゃないのか? 

柳に今を尋ねる

   私は映画『阿賀に生きる』をきっかけにして出会った方のお誘いで新潟に行くことになった。新潟とは縁遠く、余りイメージするものもない。だけれども、ふと、大学の授業の記憶を思い出した。それは北朝鮮への帰還事業は新潟港で行われたことだった。

   私は新潟に向かう前に帰還事業に所縁のある場所を探し出し、自分の脚で向かうことにした。

   池袋から深夜バスで4時間半近くかけ、新潟に着いた時、朝焼けが麗しい頃だった。

私がネットで見つけ出したのは「祖国往来記念館」という建物と「ボトナム通り」という通りとその由来を知らせる看板と帰還事業の記念碑だった。

   私はバスから出て、その建物と看板と記念碑に向かって、歩き出した。

   歩いていると新潟市の歴史を伝える看板や記念碑が数多くあることに気付く。歴史が好きな私は看板や記念碑をスマートフォンのカメラで撮影しながら、歩いて行く。

   「ボトナム通り」に着いた。街路樹として柳の木が植えてある。私が目的としている建物と看板と記念碑はまだ歩かなければいけないらしいので、そちらに向かって歩き続ける。

   「ボトナム通り」の「ボトナム」とは韓国語(「朝鮮語」と言わないのは多分、教育なのかもしれない)で「柳」を意味する。日朝親善事業の一環でどうやら柳の木が北朝鮮から贈られたらしい。それに感激した当時の新潟県知事が港に至る通りに街路樹として植え、その通りを「ボトナム通り」と名付けたようだ。

   しばらく歩いていると「祖国往来記念館」とハングルで書かれた建物に着いた。朝早くだったということもあるのだろうか、シャッターが閉まっていた。その隣にある総連のものと思しき建物はガランとしていて何もない。

   シャッターが閉まっていたのはもしかしたら、朝早かったのではなくて、そこに何故、総連の建物があるか黙して語らないようにしているだけかもしれない。

   そこからまた少し歩く。そうすると「ボトナム通り」の由来を知らせる看板と帰還事業の記念碑がポツンと立っていた。2000年に作られた看板の文字は掠れてしまって、読むことはもう難しい。港町特有の潮風のせいだろうか?

   この看板と出会った時、かつて、この街で起きた一大事業と現在が出会ったように思った。

   私の父方の祖父と祖父の一家北朝鮮への帰還を考えていた。祖父とその一家は当時、困窮しており、北朝鮮が地上の楽園であるという流行の言説を信じていた。

  実は父方の祖父以外に、北朝鮮への帰還を考えていた人間が他にも居た。それは祖父の弟とその一家だった。

   父方の祖父は3人兄弟で、その真ん中。兄と弟が居て、兄弟たちと済州島から日本にやって来た。

   この3人兄弟の中で日本で比較的成功したのは一番上の祖父の兄だったらしい。勢いのある性格と豪胆さで商売に成功したが、祖父は勢いはあったものの、様々な問題から生活に困窮した。

   この2人と祖父の弟は全く性格が違ったようだ。

温和で、堅実で、真面目。

   3人の兄弟の中で、一番、真人間だと周りに言われたらしい。

   祖父の弟が北朝鮮に行きたいと思ったのは北朝鮮が発展しているということではなく、差別の多い日本よりも温和な生活ができると言われていたからだった。それだけに憧れも強く、先に祖父の弟とその一家北朝鮮へ帰還した。その次に祖父とその一家が帰還する予定だったが、当時、北送反対を主張していた民団の説得によって、結局、日本に残ることになった。

   北朝鮮に帰還した祖父の弟とその一家がどうなったのかは分からない。ただ、私が知っているのは族譜にある祖父の弟とその一家の名前と生年月日、そして、元山に住んでいるという記述だけだ。

   祖父の弟が願った温和な生活は、ニュースを見ている限り、出来たとは思えない。

    帰還事業は自らの意思で行なったとされている。確かにそれは事実かもしれない。だけれども、帰還事業の風を作った人たちにどんな意図があったことは語られない。

   昔、『キューポラのある街』という「名作」映画を観たことがある。北朝鮮への帰還事業をテーマにしているので、今では放送されることすらないらしい。私にとっては背筋が凍る作品だ。「善意」という名の下に、時代の流れを作り、結果は悲惨なものになった。あの作品を放送しないこともまたその怖さに拍車を掛けている。まるで、あの時代の出来事に蓋をしてしまったかのようだ。

   帰還事業について、日本政府や北朝鮮政府、あの時代、帰還事業を熱心に進めた人たちから何かを語った話を聴いたことがない。多分、これからも何かを語ることもないだろう。

「自由意志」という名で帰還させたのだから。

    2003年の日朝首脳会談で同じく新潟県を舞台とした北朝鮮による日本人の拉致問題が発覚してから帰還事業は薄いものに変化してしまった。そして、2010年代になってから、ヘイトスピーチの問題が顕在化して、より帰還事業の歴史は彼方へと行ってしまった。

   もしかしたら、あの看板の掠れた文字は潮風によって掠れたのではなくて、時代の風によって掠れたのかもしれない。

  私たちは常に柳のように枝葉を風に委ねたり、暴風の吹く中で風に逆らったりして、生きている。きっとあの時代、北朝鮮への帰還を考えた祖父や祖父の弟は柳のように生きていたのだろう。私もまたヘイトスピーチの問題が取り沙汰される中で、私の枝葉を風に委ねたり、風に逆らったりして生きている。風は誰によって作られたのかを考えながら。

   私は柳の木に聴いてみた。

ヘイトスピーチにまみれたこの国で、死の恐怖に脅かされながら生きている方が正解だったのか。

偽物の歴史で独裁体制を築いている国で、権力と死の恐怖に苛まれながら生きている方が正解だったのか。

私の問いに柳の木は答えず、ただ黙って、風を枝葉に委ねていた。きっと枝葉を揺らしていた風を見ろと柳は言っていたのだと思う。

「東京」の茶番劇

   昨日の晩からずっとテレビを観ていると東京都議会議員選挙の話題で持ちきりだ。

都議会選挙の結果は小池都知事を支持する政党が圧勝して、自民党が大敗。民進党が微減して、共産党が微増した。

 隣の県に住んでいる人間としては東京都議会選挙なんていうのはハッキリ言ってしまえば、どうでも良い。豊洲の市場がどうだとか、オリンピックがどうだとか言われているが、こちらとしてはそんなことはほとんど関係無い。勝手にやってれば良いんじゃないの?と思ってしまうのだ。

 だけれども、不思議なことに今回の都議会選挙を国政選挙だと思い込んでいる人も居るらしく、安倍政権へ反対するために自民党に入れないようにしようとか、今回、選挙で自民党が負けたのは安倍政権への抵抗があるからだなんていうことばかりが取りざたされて、国政の選挙なのかと錯覚してしまうことがたくさんあった。そして、当の安倍首相も都知事選挙の結果を受けて、内閣改造をするらしい。

 都議会選挙が国政に影響を及ぼすっていうのは1993年の都議会選挙で自民党が敗北して、その年に行われた衆議院選挙で政権交代が成し遂げられたからだと思うけれども、一体、地方自治体の選挙が国政に影響を及ぼすとか及ぼさないとか何なんだろう。 

 都議会選挙の話で今は持ちきりだけれども、ずっと安倍政権に反対している地域がある。それは沖縄だ。普天間基地辺野古の問題でオール沖縄と超党派で連合を組ん、県議会選挙や県知事選挙で勝ってきた。でも、その結果が国政に影響を与えたなんて聴いたことがない。せいぜい、海の向こうの本土で話されることなんて、「沖縄では基地反対派が強いんだねー。」とか、「沖縄の人怒ってるんだねー。」いうことぐらい。

 中央の政治家も「また、沖縄かよ・・・・・。」ぐらいにしか思っていないんじゃないか。

 でも、沖縄の選挙にとって沖縄の基地問題って外野の私から観ても、豊洲の移転なんかよりも、もっと切実な争点であるはずだ。アメリカ軍の基地とどうやって暮らしていくのか?そして、どうやって安全を保つのか?本当にこれからも戦争に巻き込まれないのか?そんなことを地方自治体レベルでも考えていかなければいけないのだ。少なくともこんな問題を私が住んでいる地域で議論しているなんて聴いたことがない。

 おまけに沖縄県が頼りにしているはずの日本国政府は全くもって頼りにならない。ていうか、むしろ、地方自治の本旨に逆らって勝手に様々なことを押し付けてきているという訳の分からない構造になっているんだから。

 中央の政治家にとって、切実な問題を抱えているのはきっと東京だけとしか思っていなんだろう。

 今日はテレビを観なかった。いい加減、小池都知事の鉄仮面を観るのもうんざりするし、二元代表制の趣旨も理解できていない音喜多なんていう議員のこれからの意気込みこと、議会人としての矜持を捨てた「言い訳」を聴くのも疲れる。

 昨日、今日の都議会選挙で分かったことは東京の問題だけが国政に影響を与えるっていうことぐらいかっていうことか。きっと中央の政治家さんたちは日本=東京としか思ってないのかね。東京なんて日本の一部だろ。たまたま明治の御一新で天皇が京都から来ただけじゃないか。

 私は東京の茶番劇なんかよりも本当に今、困っている人たちの声を聴きたいよ。

シマと島のフットボール

  1か月の間、ずっと書かなければいけないと思いながらもなかなか書くことができない事件があった。かつての私であればすぐに書いていただろうけれども、正直、どうすれば良いのか、そして、どう纏めれば良いのか分からなかったからまとめることはなかったし、この場でも書くことはなかった。でも、そろそろ書いて良いのではないかと思ったし、書かなければいけないことだと思って、パソコンの画面に向き合っている。

 その書かなければいけないことというのはACLで起きた浦和レッズ済州ユナイテッドの件だ。ACLの試合中に逆転された済州の選手が槙野の態度に激高し、試合後、槙野を追いかけまわしたり、レッズのキャプテンである阿部に試合中、ひじ打ちをしてしまった。試合にはレッズが3-2で勝ったものの、レッズも済州もペナルティーを受け、また阿部にひじ打ちをした済州の選手や槙野を追いかけまわした選手には厳しい処分が下された。現在、どうやら済州側は国際スポーツ仲裁裁判所への提訴も考えているらしい。

 様々な事件を起こしたいたレッズに対して済州側が少し過敏になっていた面もあっただろうし、同時に紳士にならなければいけない済州の選手たちにも問題はあったと思う。また、真実を明らかにしなければいけないのと同時に、必要な処分を与えるべきだ。

 しかし、私はこの記事の中でとちらが悪くて、罰せられなければいけないかという話をしたいわけではない。むしろ、こういう事件が起きてしまった後にこそ、サッカーの持つ力とはなんだろう?ということだ。

 日本と韓国のサッカーの試合は白熱した試合になることが多いのと同時に、問題がある試合も数多くあった。かつての日韓戦では韓国側の選手が問題を起こして、日本側から数多くの反発を買っている。(不思議なことに日本に居る私には日本側の選手が韓国側の気分を損ねた話になる話は聴こえてこない。)

 こういう時に必ず日韓戦を2度とやらないという意見が持ち上がってしまう。しかし、そんな2度とやらないという選択を簡単に選んでしまって良いのだろうか?ということだ。

 私は昔、こんな話を聴いたことがある。FIFA会長がイスラエルの首相に対して、イスラエルパレスチナの親善試合を提案したことだ。イスラエルパレスチナは未だに戦争をしている。そんな中でもFIFAの会長は平和の為にサッカーの親善試合を提案した。私はここにヒントが隠されていると思う。

 つまり、ピッチの内外では争いがおこるけれども、実はサッカーは人々を平和にし、ひとつにするためにあるのではないかと。

 どうしても衝突した瞬間にばかり目を向けがちだ。確かにそれはしょうがない。だけれども、この後どうすれば良いのか?ということについては一切語られない。だからこそ、敢えて私は言いたい。あえてレッズと済州ユナイテッドが親善試合をすることはどうだろう。名目は何でも良い。そんな親善試合をして、サッカーの持つひとつにする力を借りてみてはどうだろうか?

 サッカーには衝突がつきものだ。だけれども衝突を衝突したのままにしてはいけない。あえて、サッカーの持つ可能性にかけたいと思っている。

 正直、私はレッズと済州の問題があってから悩んでいた。私にとって、浦和はシマであり、済州島は私の父祖の地としての島であるからだ。そんな立場として言えることは何だろう?ということを考えてきた。だけれども、そういうアイデンティティーの問題と同時に私はひとりのサッカー好きなのである。レッズを好きでいたいし、済州島に思いもはせたい。しかし、サッカーもまた同時に愛したい。だからこそ、サッカーの可能性にかけてみたいのだ。

 この親善試合が行われる日は何時になるかは分からない。だけれども、1人のサッカー好きとして、浦和というシマと済州という島のチームが埼スタで戦う日に両方のユニフォームを着て行きたい。多分、それが私にとって、サッカーに敬意を表することであり、どちらのチームにも敬意を表することであると思うからだ。

車椅子と私たち

  私が小学生の時、生活の時間だったか、総合の時間にやっていたことはバリアフリーに関しての授業だった。主にやっていたことは車椅子の動かし方。生徒を車椅子に乗せて、学校の周りを一周するというものだった。当時、小学生で身の周りに障害者が居なかった私にはこの意味が全く分からず、どこか他人事だったし、車椅子専用のスロープがある意味も分かっているようで分かっていなかったと思う。

 そんな小学生の時の記憶がほとんどかすれてしまった18歳の時、我が家に祖母がやって来た。祖母はずっと一人暮らしだったが、病気で自由に歩けなくなってしまい、私たちの家族と同居することになった。年の割に元気だった祖母が歩けなくなることは私にとって、とても意外でどこかショックだったことを憶えている。

 自由に歩けなくなった祖母と病院に行くときや外に出る時に頼りにしたのは車椅子だった。

私はいつも祖母の車椅子を押す係。小学生の時にたまたま受けていたバリアフリー教育のお陰で、祖母は「貴方が押してくれるととても安心するんだよ。」なんていうことを言ってくれた。

 実は車椅子でどこかに行くということは結構、不便だ。車椅子対応かどうかで、行ける場所が決まってしまう。祖母と一緒に暮らしている時は行く場所が車椅子に対応している場所かどうかということを常に気にするようになっていった。

 すでに祖母が亡くなって6年経つ。車椅子に乗っている身内は居なくなったし、自分が介護の世界に行くこともなかったが、今でも、ほんの少しだけ車椅子対応の場所かどうかを気にしてしまう。

 障碍について考えるとき、障害者と健常者という二項対立で語ろうとする。障害者の権利を尊重するべきであるということは非常に大事な意見である。それと同時に誰しもが怪我や病気をして、障害を持つ立場になるということの視点も語られなければいけない。

 私の祖母はとても元気だった。年の割にはしっかりしていたし、教会の執事や通訳をやっていたぐらいだ。でも、そんな祖母でも、亡くなる1年前は障害を抱え、私たち家族が介護していた。障害を抱える可能性は誰しもがあるものだと思っている。

 そう考えてみると、小学生の時に受けたあのバリアフリー教育はそのことをどこかで教えてくれていたのかもしれない。誰しもが障害を持つということ、そして、車椅子に乗る立場になるということのメッセージを。

良く考えてみれば障害者ではない私たちも車椅子に乗る。体調が悪い時に車椅子に乗って運ばれる人は色々な場所で見たことがある。そんなことを含めて、あの教育は間違っていなかったのかもしれない。

 今日、車椅子の乗っている乗客にタラップを這い上がらせる事件が報道された。航空会社は謝罪し、当事者の男性は航空会社側に車椅子の人でも安心して利用できるようなシステムにすることを求めた。

 この一連の動きを一種の「政治闘争」として捉える人たちが存在する。その背景にはどこかで私たちは障害者にならない。もしくは車椅子に乗ることはないと考えているということなのだろうか。

 私は誰しもが遭遇する可能性の話を「政治闘争」という言葉には置き換えたくはない。障害を抱えている人の権利として、また、私たちも障害を持ち得る存在として常にこのような事件に注視しなくてはいけないと思う。

マイノリティーの交差点

 つい、先日の事、私はこんなツイートをした。

 稲田防衛大臣が国際会議の席上で「全員がグッドルッキング」と発言したことに対して、私がその男性社会で求められていることを行っていることを皮肉った意味だった。

だが、そんな私の皮肉に対して、くしゅんさんというフォロワーさんからこんな反応があった。

 私が「スカートを履いた男」という言葉を用いたのは、実はマツコ・デラックス中村うさぎの往復書簡『全身ジレンマ』で取り上げられている話題だった。男社会の日本において、まるで男性の枠型に嵌って、男性のような価値観を持ち、そして、男性のような価値観を持てない女を卑下する女。この表現、まさに稲田大臣の発言から考えて、ピッタリだなと思ったのだ。だが、その考えはくしゅんさんのツイートから変わることになった。

 私の周りには女性はもちろんのこと、セクシャル・マイノリティーの人が多い。だけれども、こんな指摘から実は、私自身、そういった人たちの複雑さを理解しないまま、今まで簡単に言葉を使っていたのではないかと思う。念のために言っておくが、私に差別する意図はない。しかし、今回、そのような意図が無いのにも関わらず、私は差別者になってしまった。これは嫌な話だが、くしゅんさんの言葉を単なる「気にし過ぎ」にすることもできる。でも、そんなことをすることが本当に良いことなのか?

  差別する側に自分自身が立ってしまうことがある。正確に言えば自分自身の立場が差別する側であると知る瞬間と言えば良いだろうか?そんな瞬間に様々な人が差別する側であることを否定しようとして、中には差別発言を無かったことにしてしまう。これはマイノリティーであろうが、マジョリティーであろうが一切関係ない。だが、このような現象が起きてしまうのはどこかで私たち自身がマイノリティーとマジョリティーを勝手にイメージとして固定化してしまうことがあるからではないか。

   社会全体を見てみると、実は人々の流動的な関係性の中で生きていることに気づく。その流動的な関係性の中に居れば当然、ぶつかったり、熱を帯びたりする瞬間に遭遇する。

   ぶつかったり、熱を帯びたりする瞬間を怖がるが余りに、差別されている側が何かを感じ取り、その言葉を情緒的であると言ってみたり、理論的ではないとする人たちが居るけれど、どうしても納得できない。何が差別で差別じゃないのかということはそんなぶつかったり、熱を帯びたりする瞬間にこそ出て来る議論なんじゃないのか。

   相手の言葉を切り捨てることなんて簡単なことだ。でも、このぶつかりや熱に向き合ってこそ、私は差別に向き合うということになると思う。そして、それは同時に人間に向き合うということにもなるのだ。 

   私にも在日という切実さがある。だけれども、その切実さの中には篭りたくない。あくまでもこの私にとって在日とは異なる世界の誰かと出会うためのチケットだ。そんなチケットを持っているにも関わらず、私はまた別のチケットを持っている人の言葉を無かったことにはしたくない。きっと、こうやってぶつかりあったり、熱を帯びたりして、新しい自由を私たちは得る。そんな民主主義の可能性をどこまでも信じたい。

  最後に、くしゅんさん。大切なことを教えてくれて有難う。私と貴方の切実さの交差点が新しい自由を切り開くことを信じて、私は私の差別性に目を向けながら、新しい言葉を紡いでいきたいです。