シマと島のフットボール

  1か月の間、ずっと書かなければいけないと思いながらもなかなか書くことができない事件があった。かつての私であればすぐに書いていただろうけれども、正直、どうすれば良いのか、そして、どう纏めれば良いのか分からなかったからまとめることはなかったし、この場でも書くことはなかった。でも、そろそろ書いて良いのではないかと思ったし、書かなければいけないことだと思って、パソコンの画面に向き合っている。

 その書かなければいけないことというのはACLで起きた浦和レッズ済州ユナイテッドの件だ。ACLの試合中に逆転された済州の選手が槙野の態度に激高し、試合後、槙野を追いかけまわしたり、レッズのキャプテンである阿部に試合中、ひじ打ちをしてしまった。試合にはレッズが3-2で勝ったものの、レッズも済州もペナルティーを受け、また阿部にひじ打ちをした済州の選手や槙野を追いかけまわした選手には厳しい処分が下された。現在、どうやら済州側は国際スポーツ仲裁裁判所への提訴も考えているらしい。

 様々な事件を起こしたいたレッズに対して済州側が少し過敏になっていた面もあっただろうし、同時に紳士にならなければいけない済州の選手たちにも問題はあったと思う。また、真実を明らかにしなければいけないのと同時に、必要な処分を与えるべきだ。

 しかし、私はこの記事の中でとちらが悪くて、罰せられなければいけないかという話をしたいわけではない。むしろ、こういう事件が起きてしまった後にこそ、サッカーの持つ力とはなんだろう?ということだ。

 日本と韓国のサッカーの試合は白熱した試合になることが多いのと同時に、問題がある試合も数多くあった。かつての日韓戦では韓国側の選手が問題を起こして、日本側から数多くの反発を買っている。(不思議なことに日本に居る私には日本側の選手が韓国側の気分を損ねた話になる話は聴こえてこない。)

 こういう時に必ず日韓戦を2度とやらないという意見が持ち上がってしまう。しかし、そんな2度とやらないという選択を簡単に選んでしまって良いのだろうか?ということだ。

 私は昔、こんな話を聴いたことがある。FIFA会長がイスラエルの首相に対して、イスラエルパレスチナの親善試合を提案したことだ。イスラエルパレスチナは未だに戦争をしている。そんな中でもFIFAの会長は平和の為にサッカーの親善試合を提案した。私はここにヒントが隠されていると思う。

 つまり、ピッチの内外では争いがおこるけれども、実はサッカーは人々を平和にし、ひとつにするためにあるのではないかと。

 どうしても衝突した瞬間にばかり目を向けがちだ。確かにそれはしょうがない。だけれども、この後どうすれば良いのか?ということについては一切語られない。だからこそ、敢えて私は言いたい。あえてレッズと済州ユナイテッドが親善試合をすることはどうだろう。名目は何でも良い。そんな親善試合をして、サッカーの持つひとつにする力を借りてみてはどうだろうか?

 サッカーには衝突がつきものだ。だけれども衝突を衝突したのままにしてはいけない。あえて、サッカーの持つ可能性にかけたいと思っている。

 正直、私はレッズと済州の問題があってから悩んでいた。私にとって、浦和はシマであり、済州島は私の父祖の地としての島であるからだ。そんな立場として言えることは何だろう?ということを考えてきた。だけれども、そういうアイデンティティーの問題と同時に私はひとりのサッカー好きなのである。レッズを好きでいたいし、済州島に思いもはせたい。しかし、サッカーもまた同時に愛したい。だからこそ、サッカーの可能性にかけてみたいのだ。

 この親善試合が行われる日は何時になるかは分からない。だけれども、1人のサッカー好きとして、浦和というシマと済州という島のチームが埼スタで戦う日に両方のユニフォームを着て行きたい。多分、それが私にとって、サッカーに敬意を表することであり、どちらのチームにも敬意を表することであると思うからだ。

車椅子と私たち

  私が小学生の時、生活の時間だったか、総合の時間にやっていたことはバリアフリーに関しての授業だった。主にやっていたことは車椅子の動かし方。生徒を車椅子に乗せて、学校の周りを一周するというものだった。当時、小学生で身の周りに障害者が居なかった私にはこの意味が全く分からず、どこか他人事だったし、車椅子専用のスロープがある意味も分かっているようで分かっていなかったと思う。

 そんな小学生の時の記憶がほとんどかすれてしまった18歳の時、我が家に祖母がやって来た。祖母はずっと一人暮らしだったが、病気で自由に歩けなくなってしまい、私たちの家族と同居することになった。年の割に元気だった祖母が歩けなくなることは私にとって、とても意外でどこかショックだったことを憶えている。

 自由に歩けなくなった祖母と病院に行くときや外に出る時に頼りにしたのは車椅子だった。

私はいつも祖母の車椅子を押す係。小学生の時にたまたま受けていたバリアフリー教育のお陰で、祖母は「貴方が押してくれるととても安心するんだよ。」なんていうことを言ってくれた。

 実は車椅子でどこかに行くということは結構、不便だ。車椅子対応かどうかで、行ける場所が決まってしまう。祖母と一緒に暮らしている時は行く場所が車椅子に対応している場所かどうかということを常に気にするようになっていった。

 すでに祖母が亡くなって6年経つ。車椅子に乗っている身内は居なくなったし、自分が介護の世界に行くこともなかったが、今でも、ほんの少しだけ車椅子対応の場所かどうかを気にしてしまう。

 障碍について考えるとき、障害者と健常者という二項対立で語ろうとする。障害者の権利を尊重するべきであるということは非常に大事な意見である。それと同時に誰しもが怪我や病気をして、障害を持つ立場になるということの視点も語られなければいけない。

 私の祖母はとても元気だった。年の割にはしっかりしていたし、教会の執事や通訳をやっていたぐらいだ。でも、そんな祖母でも、亡くなる1年前は障害を抱え、私たち家族が介護していた。障害を抱える可能性は誰しもがあるものだと思っている。

 そう考えてみると、小学生の時に受けたあのバリアフリー教育はそのことをどこかで教えてくれていたのかもしれない。誰しもが障害を持つということ、そして、車椅子に乗る立場になるということのメッセージを。

良く考えてみれば障害者ではない私たちも車椅子に乗る。体調が悪い時に車椅子に乗って運ばれる人は色々な場所で見たことがある。そんなことを含めて、あの教育は間違っていなかったのかもしれない。

 今日、車椅子の乗っている乗客にタラップを這い上がらせる事件が報道された。航空会社は謝罪し、当事者の男性は航空会社側に車椅子の人でも安心して利用できるようなシステムにすることを求めた。

 この一連の動きを一種の「政治闘争」として捉える人たちが存在する。その背景にはどこかで私たちは障害者にならない。もしくは車椅子に乗ることはないと考えているということなのだろうか。

 私は誰しもが遭遇する可能性の話を「政治闘争」という言葉には置き換えたくはない。障害を抱えている人の権利として、また、私たちも障害を持ち得る存在として常にこのような事件に注視しなくてはいけないと思う。

マイノリティーの交差点

 つい、先日の事、私はこんなツイートをした。

 稲田防衛大臣が国際会議の席上で「全員がグッドルッキング」と発言したことに対して、私がその男性社会で求められていることを行っていることを皮肉った意味だった。

だが、そんな私の皮肉に対して、くしゅんさんというフォロワーさんからこんな反応があった。

 私が「スカートを履いた男」という言葉を用いたのは、実はマツコ・デラックス中村うさぎの往復書簡『全身ジレンマ』で取り上げられている話題だった。男社会の日本において、まるで男性の枠型に嵌って、男性のような価値観を持ち、そして、男性のような価値観を持てない女を卑下する女。この表現、まさに稲田大臣の発言から考えて、ピッタリだなと思ったのだ。だが、その考えはくしゅんさんのツイートから変わることになった。

 私の周りには女性はもちろんのこと、セクシャル・マイノリティーの人が多い。だけれども、こんな指摘から実は、私自身、そういった人たちの複雑さを理解しないまま、今まで簡単に言葉を使っていたのではないかと思う。念のために言っておくが、私に差別する意図はない。しかし、今回、そのような意図が無いのにも関わらず、私は差別者になってしまった。これは嫌な話だが、くしゅんさんの言葉を単なる「気にし過ぎ」にすることもできる。でも、そんなことをすることが本当に良いことなのか?

  差別する側に自分自身が立ってしまうことがある。正確に言えば自分自身の立場が差別する側であると知る瞬間と言えば良いだろうか?そんな瞬間に様々な人が差別する側であることを否定しようとして、中には差別発言を無かったことにしてしまう。これはマイノリティーであろうが、マジョリティーであろうが一切関係ない。だが、このような現象が起きてしまうのはどこかで私たち自身がマイノリティーとマジョリティーを勝手にイメージとして固定化してしまうことがあるからではないか。

   社会全体を見てみると、実は人々の流動的な関係性の中で生きていることに気づく。その流動的な関係性の中に居れば当然、ぶつかったり、熱を帯びたりする瞬間に遭遇する。

   ぶつかったり、熱を帯びたりする瞬間を怖がるが余りに、差別されている側が何かを感じ取り、その言葉を情緒的であると言ってみたり、理論的ではないとする人たちが居るけれど、どうしても納得できない。何が差別で差別じゃないのかということはそんなぶつかったり、熱を帯びたりする瞬間にこそ出て来る議論なんじゃないのか。

   相手の言葉を切り捨てることなんて簡単なことだ。でも、このぶつかりや熱に向き合ってこそ、私は差別に向き合うということになると思う。そして、それは同時に人間に向き合うということにもなるのだ。 

   私にも在日という切実さがある。だけれども、その切実さの中には篭りたくない。あくまでもこの私にとって在日とは異なる世界の誰かと出会うためのチケットだ。そんなチケットを持っているにも関わらず、私はまた別のチケットを持っている人の言葉を無かったことにはしたくない。きっと、こうやってぶつかりあったり、熱を帯びたりして、新しい自由を私たちは得る。そんな民主主義の可能性をどこまでも信じたい。

  最後に、くしゅんさん。大切なことを教えてくれて有難う。私と貴方の切実さの交差点が新しい自由を切り開くことを信じて、私は私の差別性に目を向けながら、新しい言葉を紡いでいきたいです。

君たちはキムチを食べたことがあるか?

諸君、私はキムチが大好きだ。

カクテギが好きだ。

チョンガクキムチが好きだ。

白キムチが好きだ。

水キムチが好きだ。

ポッサムキムチが好きだ。

ねぎキムチが好きだ。

水キムチが好きだ。

この地上にあるありとあらゆるキムチが好きだ。

 だが、そんな私にもどうしても苦手なキムチがある。

日本のスーパーで市販されているキムチだ。

見た目は真っ赤なのにも関わらず、口にした瞬間、チーズはどこへ消えた?ばりに辛みが消え、なんだか良く分からない甘さだけが口に残る。

 市販されているキムチを食べた時、「さては、キムチじゃねぇな。オメー。」とひととりごち、気づいたときには皿に取り分けられたキムチを片手に、厨房へ「このキムチを作ったのは誰だ!女将を呼べ!」と怒鳴りこむか、「私に3日下さい。究極のキムチをお見せしますよ。」と言って、東上野のコリンタウンに駆け込む。

 市販されているキムチに毒されている諸君らにはっきりと言っておく。(ちなみにこの言葉を私が使うときはヘルメットを被り、ゲバ棒を片手に、トラメガで叫んでいるものと思って欲しい。)この世の中で一番美味しいキムチは釜山広域市沙上区にあるハプチョンテジクッパのキムチであり、二番目に美味しいキムチはソウル特別市チョンノ3街にあるハルモニカルグクスのキムチであると。

 えっ?全部、韓国の店じゃないかって?韓国には行く余裕がないから日本で同じレベルのキムチを食べたい?

私はそんな貴方に青少年の真剣な相談に答える北方謙三宜しくこのように言うだろう。

「日本でこのレベルと同等の美味しいキムチを食べたければ、東上野のまるきんか第一物産に行け。さらにまるきんに行くついでにチャンジャを買っていくべきだ。毎日、浅草チャンジャカーニバルが楽しめるのだから。」

 だが、まるきんや第一物産に毎日、行けるわけではない。市販のキムチをチゲや豚キムチにしながら私は欲求不満のキムチライフ(意味深)を送っていた。

 そんなある日、ひょんなことから高麗町の山を登ることになった私は、山登りの帰りにJAのお土産売り場でとあるキムチに出会った。

 高麗町とは飛鳥時代辺りに、高句麗が唐に滅ぼされ、日本に渡ってきた渡来人たちが「ここ、故郷に似てる。」という理由で住み着いた土地らしい。とは言っても、どこが故郷に似ているのか、1300年後ぐらいに色々あって、朝鮮半島から日本にやってきた子孫の私には全く分からないのだが、高麗神社という古くからある神社もあり、今でも朝鮮半島との繋がりが深いみたいだ。

そんな土地のJAのお土産売り場にキムチがあった。

それも冷凍されて置いてあるのである。

 キムチを冷凍だと!

キムチを冷凍するということはサッカーの世界でハンドをした上に、レッドカードを出した主審をグーで殴る行為だ。もしくはAKBの総選挙で突然、結婚宣言をするようなものだ。つまり、奴はキムチ界のバロテッリだ。もしくはキムチ界の須藤璃々花と言っても良いだろう。そこまでして、キムチ界の海原雄山こと私に挑む度胸は素晴らしいということで購入した。

  冷凍されているということで、解凍しなければいけなかったが、高麗町から我が家までは1時間くらいある上に、暑い日だったのでとっくのとうに解凍されてある。

 家に帰り、車中で解凍されたキムチを器に盛った姿を観て、小生、思わず腹キュン。

だがここで油断をするべきではない。第一、4時間近くちょっとハードな山道を駆け巡った影響で、腹が減っているのに加え、見た目だけ赤く、なんだか良く分からない原因不明の甘みは私の口の中を突如襲ってくるかもしれない。

 恐る恐る口にしてみると・・・・・・。

 これは美味い!

辛いけれども、ほんのちょっとの甘みがあり、ただ辛いだけではない!

そして、甘さが辛さを邪魔しない!

辛さと甘さの共存をしているぞ!

とうとう私は見つけた!

この喜びはサハラ砂漠のど真ん中でオアシスを見つけたときの嬉しさだ!

日高市良くやったな!

高麗王若光!(どうやら最初に来た渡来人の偉い人らしい)お前が言っていた故郷に似ているという意味が良く分かったよ!

私、凄くキムチについて知って、初めて市販のキムチを好きになることが出来ました!

こうして私は欲求不満のキムチライフ(意味深)から卒業することが出来たのだった! 

 たまに落語とかを聴いていると、「日本人にしか分からない芸能ですね。」なんていうことをマクラで話す噺家が居る。こういう現象は落語だけではない。相撲でも、「日本人力士が横綱にならないといけない。」と言った言説が飛び交っている。

だが、日本人ではない私は普通にオタクと言えるぐらいに落語の音源を聴き、テレビでやっている相撲中継を親と観ている。

 どうして人々が楽しむための文化に、「日本人だけ」という言葉がついていくのだろう。

 キムチ好きの私をうならせた高麗町のキムチは「韓国人だけ」が楽しむものなんだろうか。

 「伝統文化なんだから○○人だけにしか分からないよ!」なんていう人に出会ったら、私は多分、高麗町のキムチを食べさせるその時はきっとこう言うだろう。

「先生、これがほんの私のキムチ(気持ち)です。」

「憲法」が「拳法」になるとき

 私たちは小学校の社会科の授業から高校の政治経済の授業まで「憲法」という不思議な法を学ぶ。中には私のように大学生になってからも一般教養として「憲法」を学び続けた人が居るかもしれない。どちらにしろ、学校教育の中で憲法は学ぶことが必須とされている事項であるとされているようだ。

 私が記憶する小学校から高校までの憲法の授業は日本国憲法の基本的原則を憶え、さらに基本的原則が書かれてある条文を暗唱することだった。教育指導要領にそのようにするようにと書いてあるかどうかは知らないが、子供ながらに「こんなことをやって何の意味があるんだよ・・・・・。」と思ってしまった。今になってから言えることだが、暗唱することなんていうのはつまらない。

 私を含めたつまらない憲法の授業を経験した人たちにとって、憲法の中に書かれてあることは全くもって良く分からない。難しい言葉ばかりだし、何より「キレイゴト」ばかりが書いてある。そんな「キレイゴト」に対して、今の日本では反発する人々が増えている。何より、今の首相や防衛相は「キレイゴト」を尊重する義務があるのに、どうやら受け容れられないらしい。では、何故、そんな「キレイゴト」が憲法には書いてあるのか?

 近年、韓国では『弁護人』という映画が流行った。この映画は盧武鉉元大統領の弁護士時代に起きた『釜林事件』をテーマにしたもので、国家保安法による冤罪で捕まってしまった行きつけのテジクッパ屋の息子を助けるために、弁護士のソン・ウソクが奔走する映画だ。

 この映画では法廷にて、テジクッパ屋の息子を捕まえた当局の人間に対し、ウソクが大韓民国憲法第1条を諳んじるシーンがある。

ちなみに大韓民国憲法第1条とは次のような条文になっている。

第1条

  1. 大韓民国は民主共和国である。
  2. 大韓民国の主権は国民にあり、全ての権力は国民より由来する。

 当時、韓国はまだ軍事独裁の時代で、自由や民主主義なんていうものからは程遠い時代だった。そんな時代の中で韓国の国民は何十年も地道に活動し、やがて、自由や民主主義を手に入れた。そんな中で抵抗した人々が、抵抗の拠り所にしたのは大韓民国憲法第1条の条文だった。そして、去年の10月、朴槿恵大統領が国政壟断事件を起こしたときに、人々が朴槿恵大統領に対して抵抗の拠り所にしたのも、この大韓民国憲法第1条だった。

 「憲法」をただの紙切れとして考える人たちが居るかもしれない。それは一面においては事実だ。しかし、時には人々の権利を奪う為政者への有効な武器にもなっていく。アメリカにおいて公然と黒人差別があった時代、キング牧師は常に合衆国憲法の理念に従うことを政府に求め続けた。それは憲法に書いてある「キレイゴト」を頑なにまで信じたからだった。自分たちの生きにくい世の中をどのようにして生きていくのか。そんな時に希望の光になったのは憲法という紙切れに書いてある「キレイゴト」だった。

 為政者によって生きにくい日々を送っている人々にとって、「憲法」は為政者を殴るための「拳法」として機能する。だが、そんな機能を忘れてしまった瞬間に「憲法」はただの紙切れに戻ってしまうのかもしれない。憲法の条文を暗唱させるよりもそんな人々がどんな人々であるのかという想像力を持つことが「拳法」としての威力を発揮させることなのかもしれない。

 だが、日本では「憲法」を「拳法」として発動させる人々は居ないと考えている人が極めて多い。それは大きな誤解だと思う。

 先日、大田昌秀沖縄県元知事が亡くなった。彼はずっと「憲法」を沖縄を守るための「拳法」として考えていた人だった。そんな考え方だったのは大田元知事だけではない。沖縄が日本に復帰することを選んだのは日本国憲法第9条が地上戦で大きな被害を被った沖縄にとって、まさに夢のような憲法だったからだ。そして、今、そんな「憲法」を「拳法」として信じつづけている人は今でも数多く存在する。

 彼の冥福をただ、祈るだけではなくて、そんな「憲法」を「拳法」として発動させようとした人の姿を語り継ぐことが本土に居るこの私のできることなのかもしれない。

「文化」が作られる場所

 先日、とある新聞記事を読んだ。どういう新聞記事だったか、詳しくここで書くことはしないが、とあるマイノリティーの当事者が「文化はマーケットによって生まれる」という発言をした新聞記事だった。マーケットということは資本主義の理論の中で文化が生まれたということか。確かにマーケットの中で文化は支えられていることは間違いない。しかし、そんなことは本当なのか?

  私は『カミングアウト・レターズ』という本が好きだ。LGBTの当事者たちが親や教師に自分の性的指向をカミングアウトした往復書簡を集めた本なのだが、この本にはとても不思議な熱がある。

 この本の魅力を挙げるとするととてつもなくたどたどしく、そして、各個人が文章を書きながら様々な気持ちの中で揺れているということだ。自分の性的指向を親に言うというのはとても難しいことだと思う。私のようなエスニック・マイノリティーは家族という血の繋がった共同体に依存しがちだが、セクシャル・マイノリティーはまず第一歩として「親」に何かを話すということから始まる。言わば、独りの状況から言葉を吐き出すことを始めるのだ。そんな状況から言葉を作り出すのはなかなか難しい。

 私はそんな「たどたどしさ」や「揺れている」文章を読みながら、不思議なことに勇気を貰う。全く違うマイノリティーという立場だけれども、そんな違うマイノリティーだからこそ、この本の中にある熱の言葉に救われる。

 私と同じくこうして言葉を紡いで必死で生きている人たちが居たんだと。

 ブログという趣味の環境の中ででもこうやって文章を書いていると他の人の熱のある言葉は励みになっていくし、ひとりではないと感じることがある。そんな本に出会えたのはとても幸せなことかもしれない。

 学生時代、私は政治学と共に文化人類学を学んできた。文化人類学の恩師がずっと私に言い続けていたことがある。それは「文化とは切実なものを持っている人が作り出すもの」という言葉だった。思えば、確かにその通りだ。私が勇気を貰う言葉を吐き出す人たちは何か切実さを持っている。ゾラ・ニール=ハーストンやアリス・ウォーカーやトニ・モリスンはアメリカの厳しい二重の差別の中で生きてきたからこそ、そんな人たちの言葉が私を奮い立たせてくれている。きっと彼女たちは自分たちの切実な問題をどうしても外に出していきたいということで書き続けたのかもしれない。そして、そんな姿が格好良く見えてくる。何かを表現しようとしているとどうしても賛成の言葉ばかりじゃなくて、反対の言葉だってある。そんな中でも凛と生きている姿がまた良い。そんな姿に私も勇気づけられる。

 そんな凛と生きている姿は当然、『カミングアウト・レターズ』の中に収録されている親や教師に対して一生懸命、自分の言葉で書き続けた当事者たちの姿でもある。自分の切実な問題を一番理解してくれて、理解してくれない相手に言う姿は何よりも格好良い。そして、そんな人たちから出て来る言葉は私だけではなくて、他の人たちも勇気づけたと思っている。

 もしかしたら、文化というのは社会から言葉を奪われた人たちが社会と繋がりたいと願いながら、切実な問題をたどたどしくも、必死に外に叫びたいという気持ちで作っていったのではないか。文化とは熱のある言葉のことなのだ。その熱のある言葉は決して、マーケットの理論の中では作ることはできない、当事者たちの切実な言葉にならない感情の中で作り出されるものなのだと思う。

歴史が色を持つ時

  アエラの記者さんのTwitterが炎上していた。最近、零戦が東京上空を飛んだというニュースに対して、零戦の「美しさ」や「雄姿」を称賛するのではなくて、零戦に平和を奪われた人たちについて知ることが重要であるというコメントが反発を呼んだらしい。

 このコメントに対して、朝日新聞がどうだとか、熊本城がどうだとか本線からずれた話ばっかりで反論になっているようでなっていない反論が多いと思ったのが私の実感だった。しかし、それでもこういう反応が多いのは、歴史の楽しみ方を誰かに言われたくないということからなのだろうか。

 私は歴史が好きだ。小さい頃は日本の中世史が好きで、成長するにつれて、世界史やアジアの歴史まで好きになっていた。そんな私が歴史の本を読んでいるとあることに気づく。とんでもない死者が出た戦争など、とんでもない犠牲者の数字が書かれてあるのだけれども、しれっと、ごく自然に書いてある。普通の歴史の本というのは政治の出来事を中心とした大きな視点で書かれることが多い。そんな視点で書いてあると大きな戦争でもしれっと犠牲者の数を書いてしまうのだ。そして、そんな数字を「凄いですよね!」と若干興奮気味に仲間へ言う私も居た。

 そんな「歴史好き」だった私にある日、歴史に直面する出来事が起きた。

 私は韓国留学中に父方の祖父母の出身地である済州島に行った。それは父も会ったことがないという祖母が違う済州島の伯父に会うためだった。私が持っていた資料は何十年も前に書かれた親族関係の住所録のみ。本当に済州島の伯父に会えるか心配になったが、なんとか伯父の住んでいる場所にまでたどり着き、済州島の伯父に出会うことが出来た。韓国語も片言で、突然やってきた見たこともない甥っ子である私を彼は温かく迎えてくれた。

 日本に帰ってきてから別の伯父に済州島に行ったことを報告し、済州島に住む伯父が元気だということを話した。そうすると伯父は済州島の伯父がベトナム戦争に従軍して、精神を病んで済州島に帰ってきたことを私に話してくれた。色々な話を親族から聴かされて育ったが、私にとっては初めて知る事実だった。

 今までベトナム戦争というのはどこか他人事の出来事だった。大学の授業やドキュメンタリー映画、本などでベトナム戦争のことは知る程度でその時の感想は、「なんで、アメリカはこんな負ける戦争をしたのだろう?」とか「ベトナムはやっぱり凄い」ぐらいの感想にしか過ぎなかったが、伯父がベトナム戦争に従軍していたことを知ると一変して、他人事だった歴史がまた別の角度から考えるようになった。

 もしかしたら、私が知っていたのはあくまでも文字や数字だけの大きな視点での歴史であって、実はその文字や数字に込められている命にまつわる小さな視点の歴史としては一切考えてなかったのではないかと。

 人によって起こされた出来事を対岸の火事として観てしまう癖がある。分かりやすく言うとテレビニュースが良いかもしれない。ニュースキャスターは「痛ましい事件ですね。」ということを言いながら次のニュースを報じてしまうし、観ている側もそうすることをどこかで望んでいる。疲れて帰ってきて、痛ましい事件を常に見たいわけではないからだ。だが、その反面、人によって起こされた悲劇を対岸の火事としてしか理解できなくなってしまう面もある。本来は私たち自身の問題として考えなければいけない問題がいつの間にやら、私とは切り離して語られる。

 思い起こせば小学校から高校までの歴史の授業を思い浮かべてみると近現代史の授業が少ないということもあるが、歴史を対岸の火事として捉えることが多かったと思う。そうでもしなければ、受験に間に合わないという事情もあるだろうが、やってきたことと言えば、年号の暗記や出来事の暗記といったことだ。当然、これからが不必要であるとは言わない。むしろ、そういうことはとても必要なことだ。

 だが、どうしても文字ばかり、もしくは数字ばかりを観てしまうと、そこで死んでしまった人たちやそこに生活していた人たちのことがどこか他人事になってしまう。当然、私の言っていることは史資料を軽んじるなということでは無くて、史資料や数字にしれっと書いてある個人の歴史に思いをはせてみたり、個人の生活や日常に思いをはせてみたりしても良いんじゃないかと思う。そんな生活や日常に思いをはせた瞬間に不思議とまた別の視点が生まれてくる。

 そんな歴史への見方が実は新しい何かを作ってくれるのかもしれない。過去を振り返るということを私たちはただしているだけではなくて、今、私たちに何が必要なのかを教えてくれたりもするのだ。

 歴史の楽しみ方は人それぞれあるし、愛着があればあるほど、そんな楽しみ方を誰かに言われることは嫌なのかもしれない。ある意味では大きな視点の歴史として楽しむのも面白いのかもしれないが、白黒な大きな視点から、大きな出来事の幕間にあった小さいがカラフルな個人の物語に目を移してみるとまた違った色が出てくるのではないか。そんな歴史が色を持った瞬間に初めて、歴史と出会ったと言えるのではないのかと思う。