「正しい日本文化」というホログラム

   テレビを見ていると「正しい日本文化」を教える番組や「正しい日本文化」の素晴らしさについて特集している番組が多くなってきたような気がする。

   昔から「日本文化」についての番組はNHKを中心にやっていたけれども、今では民放が、それも割とゴールデンタイムに近い時間帯にやっている。

 最近、観た番組の中だと「正しい日本文化」を海外で教えるといった上から目線な番組を観た。

   そんな番組に複雑な気持ちを持ちながらも、ついつい観てしまう私が居る。

 それは私自身がテレビっ子であるということや、落語が好きだったり、歴史が好きだったり、様々な理由があるけれども、そんな番組を観る理由は「正しい日本文化」なんていうものが私の家では観られないからだ。

 私の家はプロテスタントのクリスチャンであるのと同時に「在日」の家だ。

 食事の前には神様に感謝のお祈りを捧げ、伯母さんのことを「고모(コモ)」と呼び、母が作った豚汁を食べて生活している。もしかしたら、我が家に来た人は一体、ここがどこなのか分からないと思うようになるだろう。

   そんな日本式と韓国式と在日式とプロテスタントとしての信仰が混ざっている空間で生活しているとどうしても分からなくなってしまうことがある。それは冠婚葬祭についてだ。

 冠婚については最近は緩くなってきた。昔のように家と家の結婚式なんていうことが少なくなりつつあるとご祝儀の値段とか服装とかはこだわらなくて済む。

 しかし、葬儀の方はそうとはいかない。葬儀の方も密葬で済ませるスタイルや「○○さんを偲ぶ会」のようなもので代替することが多くなったとは言っても、葬儀のほとんどのスタイルを仏式で行っている。クリスチャンの私はどうしようか迷ってしまう時だ。そういったときは決まってカサブランカの花を霊前に捧げ、お祈りをするというスタイルを取っている。

いくら仏式の葬儀だからと言っても、自分の信仰を崩すわけにはいかないからだ。

 こんな姿を見ている人の中には「正しい礼儀作法じゃない」とか「正しい日本文化」と思うだろう。しかし、そうやって文化は作られていくものだと私は考えている。私の家の文化には日本と韓国と在日の文化がそれぞれ入り混じっている。そんな文化がぶつかり合う中で様々な新しい文化が生まれてくるのだ。

 洋食を思い浮かべて欲しい。洋食は本場のヨーロッパで食べられているものとはとても程遠いし、日本料理とされている。でも、そんな洋食を愛する人はとても多い。焼肉だってそうだ。父方の親戚は焼肉屋を営んでいたし、私自身韓国に留学したこともあるのだが、本場の焼肉と日本の焼肉には大きな差がある。韓国に行けば「日本式焼肉」なんていう表記すらある。そんなごった煮の文化だけれども生活にはちゃんと根付いているのだ。
 文化とはそんなぶつかり合いの中で生まれてくる。ごった煮になって、生活に根付くからこそ、文化を愛せる。そんな文化の事実の前では「正しい日本文化」なんてとても小さなものとしか思えなくなるのだ。「正しい日本文化」なんていうホログラムに頼って生活するよりも、生活の中にある私の小さな文化を大切にしていきたい。

「分かりやすさ」が売られる世界

   こんなニュースを観た。韓国の次期大統領候補にまつわる報道で候補とされる政治家たちの外交姿勢が「親日」と「反日」の二分で分類されていた。

   私は大学時代、日韓関係のゼミに居たことや韓国に留学したこともあって「親日」や「反日」という括りでは説明ができない韓国の複雑な外交事情を知っていた。

   これだけではない。韓国の大統領弾劾に関する一連の報道でも現地で叫ばれている大韓民国憲法の意味や憲政の意味を一切、解説せず、ただ、崔順実と大統領のスキャンダラスな出来事や韓国の中にある格差、また、韓国のお国柄としての「デモ」という視点でしか報道されていなかった。一体、何が起きているのだろう。

 画面の向こうの「解説者」たちはキャッチーな言葉を使いたがる。例えば「反日」や「親日」なんていう言葉なんか典型的な例だ。

   確かにそんな見方をすればかなり分かりやすい。「反日」や「親日」なんていうレッテルを貼ってしまえば一体、誰が敵で誰が味方なのかが極めて分かりやすく、そして、複雑で知れば知るほど分からない世界であるにも関わらず、あたかも世界の全てを知ったような気になれる。人は不思議なもので、そんな魅力的な刀にとても弱い。

   こんなやり方はどっかで見たことがあると思ったら、アメリカのあの人が出て来た。

そう、次期大統領のトランプだ。

トランプも分かりやすさを武器に様々なものを敵にしていった。標的となった人や標的となる人々はなんとかしてこんな分かりやすい刀を振ります大きな赤ん坊を倒そうとしたが結局、彼が次期大統領に選ばれてしまった。

彼は「分かりやすさ」を武器にして、見事にのし上がったのだ。

   分かりやすいニュース解説番組がテレビでやっているのも、トランプが人気になるのも複雑な世界の不安に対して「分かりやすさ」を買うことで解消しようとしている現れなのだろう。そんな中で忘れられがちなのは「分かりやすさ」の中に一体何があるのかということだ。

   「分かりやすさ」とは何らか編集されている状態を指す。ある複雑な事象があって、それをどこの誰だか分からないような人間の主観で「分かりやすく」解説される。情報の編集に携わる人とはそんな役割だ。

   ある一面から見れば編集ほど暴力的な行為は無い。自分の主観によって、複雑でその前で立ち止まってしまうような言葉の無い世界を加工し、分かりやすさは切って捨てられ。無理に言葉にしてしまうのだから。

だからこそ、編集側には情報の前で立ち止まる理性が求められる。しかし、今用いられている儲かるか儲からないかという理性なのだ。

   トランプを見ていれば一目瞭然だ。彼は複雑さなんか気にしてはいない。彼が気にしていたのは大統領選挙というゲームの中で如何にしてポイントを稼ぐというかということだった。もしかしたら、そんなポイント稼ぎは韓国の次期大統領候補達を「反日」か「親日」かというベクトルでしか見れない日本のマスコミにも言えるかもしれない。トランプはこんな所にも居たのだ。

   「有識者の言うことを信じるな!」「マスコミの言うことを信じるな!」なんて言うつもりはさらさら無い。だけど「分かりやすさ」を提示されて、のこのこ消費してしまうのはそんな奴らの手の上に乗ってしまっている。こんな中で大事なのは「分かりやすさ」を売りにした情報の前で立ち止まることだ。

   社会人になると立ち止まることを許されなくなってくる。でも、立ち止まらなければ見えないものがたくさんある。立ち止まりがあるからこそ豊かな知性が生まれて来たと言って良い。哲学者達はとりあえず思索のために時間を使った。中には奥さんに水を掛けられた人間も居るが、その人たちの知性は明日を見出す言葉として、今に至るまで受け継がれている。

   哲学者達の言葉は分かりにくい。でも、分かりにくいんじゃない。彼らは明晰に語っている。分かりにくいのは立ち止まるためにあるのかもしれない。

   時間に追われ、何かを消費する体制を突き崩していくためにはそんな立ち止まることが最も有効なことだ。そんな立ち止まりを楽しむ人に私はなりたい。

「戦後」を背負わせられた島

 沖縄でオスプレイの事故が起きた。メディアは「不時着」としていたけれど、私のような素人からこの事故を観ていると「墜落」としか思えない。どうやら「不時着」と「墜落」という言葉には機体をコントロールできていたか、できていなかったかという大きな差があるようだ。(これに近いようなことを原発について発言していた日本の政治家が居ましたね。)この事故については調査が進んで色々なことが検証されることを心から願っている。

 この事故が起きた後、名護市の稲嶺市長が現場に向かったとのことだった。事故が起きたのは名護市の沖合だったので現場対応をするために様々な視察が必要だと思ったのだろうか。この視察が良かったか悪かったのかはあえてここでは議論しない。問題だと私が思うのは視察をしに来た稲嶺市長を警察が沖縄防衛局の許可を取っていないとして、追い返してしまったことだと考えているからだ。自国での事故に対して、自国の地方自治体の首長が現場を視察できないとは一体どういうことなのだろう。例えば、これが稲嶺市長が何らかの権限を行使し、市民の生命と財産を侵害しようとしてる中で警察が止めに入るのであればまだ理解はできる。しかし、今回の稲嶺市長の行動は名護市民の生命と財産を奪いかねない事故に対応しようとしての行動だった。一体、この国の暴力装置である警察はどこを向いているのか。今回の事故は沖縄の人々のみならず「内地」に居る私たちにも衝撃を与えた。特にSNSでの反応は凄まじく、この事故の後の米軍関係者の発言もあり、今回の米軍の行動に対して反発する人たちも数多く居た。

 沖縄の基地問題はどうしても画面の向こうのこととして伝えられてしまう。「沖縄の人たちは大変ね。」「沖縄には基地があって本当に苦労しているのね。」なんていう言葉が定型の文句だ。そんな画面の向こうで起きていることは日本で起きていることなのに日本の問題として考えられない。あくまでも沖縄の問題としてしか捉えられない。まるで本当に議論しなければいけないことから逃避しているかのようだ。だが、その一方で、私たちは沖縄に「癒し」を見出そうとしている。沖縄の物産展に行けば沖縄を癒しの島として宣伝しているし、テレビ番組では都会の疲れを癒すために沖縄を旅する企画が流されている。そのどれもが都会の疲れを癒してくれるエキゾチックな島としての沖縄だ。そんな沖縄の姿は喜んで観ようとするのに、基地問題になると誰もが分からないふりをする。沖縄は日本にとって様々な「矛盾」や「疲れ」を忘れさせてくれる都合の良い「島」なのだろうか。

 沖縄には基地に反対する人から賛成する人まで様々な人たちが居るが、基地を抱えながら生きていく日常を送っていることには変わりはない。その日常の中で言葉にならない感情を抱えながら生きている。そんな日常に目を向けず、「内地」の人々に癒しを与えるエキゾチックな島として観続けるならば沖縄はこれからどうなってしまうのだろう。沖縄は今でも「戦後」を背負わせられている。まるで下校途中にじゃんけんで負けて「仲間」のランドセルを背負わせられている子供のように。

見守ってくれた街の近くで

 誰にでも「ふるさと」と言えるものがあると思う。私みたいなディアスポラは必ず「ふるさとはどこなんだ」という不毛な論争をしてしまう。そんな争いにうんざりした私は「オクニは?」と質問されても「うーん、今住んでいるところですかね?」とやり過ごす。そんな私でも「ここはふるさとなんだ」と思える空間が1箇所だけ存在する。それは東上野のコリアンタウンだ。

 我が家では必ず夏と冬にコリアンタウンにある韓国食材店でチャンジャとゴマの葉の醤油漬けとにんにくの醤油漬けを買いに行く行事がある。この夏と冬の行事を私は毎年、楽しみにしていた。ニンニクの臭いがきついのでどうしても学校が無い夏休みと冬休みの時期にしか食べられないからだ。

   私が通う店にはたくましそうなお母さんが居て、そのお母さんが店を仕切っている。そんな空間を見る度に「帰って来たなぁ。」と思いながら、いつもの食品を買って行く。

 今でも大事な人への贈り物はこの店の美味しいチャンジャやゴマの葉の醤油漬けだ。高価な物よりも私が実際に食べて美味しいと思える食べ物を送りたい。それが最大のプレゼントだと勝手に考えている。

 この街に思い入れがあるのは私だけではない。私の父や母の初めてのおつかいはこの街にある韓国食材店で買い物することだったそうだし、親戚も店をやっていたそうだ。私だけではなく、私の父や母、その先の世代から続く大事な空間。そんな空間を私は「ふるさと」と呼んでいた。

 そんな「ふるさと」だと思っている空間の近くでレイシストによるデモが起きた。私は居ても居られず現場に向かった。「ふるさと」だと思っている空間がありもしない言葉で穢されることはなんとしても防ぎたいと思ったからだ。

 カウンターの現場は凄まじい。ありもしないことを垂れ流すレイシストに対して、色々な人たちがカウンターとして抗議をする。そんな光景は「ヘイトスピーチ」という言葉を知らない人から見たら「一体何をしているのか?」とか「喧嘩しているの?」程度にしか思われないかもしれない。実際に路上で何にも関係の無い通行人が「これじゃ、ただの叫び合いじゃん」と独りごちていた。

 私はそんな中では声を出さず、手持ちのiPhoneでひたすら写真を撮っていた。声を出すことよりも私の愛する街で起きていることを後世に伝えたいという気持ちからだった。

 デモは終着地点のある公園に着いた。カウンターの人々もその公園の周りに集まり、大きな声でヘイトスピーチに抗議していた。あるカウンターの人は興奮してしまったのだろうか、拡声器を持ちながら、レイシストに向かっていこうとした。

 その時、私はその場に居た市民を守るはずの警察官よりも先に制止した。

「これ以上やると刺激して、ここに住む同胞に何かあると困るからやめてくれ」

私はそんなことをカウンターの人に言っていたと思う。

   何か考えていたわけではない。もし、レイシストを刺激をしてしまえば、レイシストにより標的にされてしまうかもしれないと本能的に察知したのだろう。

   当事者になればなるほど差別的な言動の前で様々な感情を飲み込みながら生きている。それは事を荒立てればこちらに差別の刃が向いて来ると考え、とりあえず自分自身の身を守るための行為だ。そんな行為が明日を変えるわけでないことを分かっていながらも「無かったことにする」共犯になっている。

   もしかしたら、私が声を上げなかったのはあの時、レイシストに対して報復の恐怖を感じていたのかもしれない。分かりやすく言えば、いじめられているいじめられっ子が周りにいじめられていることを言えない感情とでも言えば良いだろうか。レイシストに向かって行くカウンターの彼を止めた私の中にはなんとも言えない感情があった。

 ヘイトスピーチのデモが終わった後、行きつけの韓国食材店に行った。街が荒らされていたら嫌だと思ったからだ。不安になりながらも店に向かったが、街と店の様子はいつもと変わらない。店を仕切っているお母さんは居なかったけれども、いつものあの「帰って来たなぁ」という感じがする空間だった。私はそんな様子を見て、安堵したが、いつこの街からたくさんの涙が出るのかと思うとまた複雑な気持ちになる。

 最近、結婚をした友人に会いに行くために結婚祝いとして、その店で柚子茶を買った。こんな寒い時期には身体も心も優しく温まるものが良い。

 柚子茶のような身体も心も温まるような何かは路上にこそ必要なのかもしれない。

 

神様を信じている人の日常

   福島で100体以上の地蔵や墓を壊した男が捕まった。私はプロテスタントで宗教が全く違う立場とは言え、この事件には憤りを感じる。どういう動機だかは分からないが、これからの記述で色々なことが分かるようになるだろう。

 こんな酷いが起きてしまうのと同時に、今回の事件に関して、かなり酷い反応があったことも事実だ。逮捕された男が韓国籍だったということで「反日」と結び付けようとして事件を語ろうとしている人たちが居る。彼自身がどういう信条だかは分からないし、判断もできないが、国家や民族という想像物を狂信している人類の姿に、神様はせせら笑っているのかもしれない。

それだけ国境を越える信仰の話を人種主義の話として消費したい人たちがたくさん居るのだろう。そんな現実にこの事件とはまた別の酷さを感じる。

   日本では「日本人は宗教に寛容な民族だ」なんていう話を聴く。

1年の行事を見てみれば、クリスマスはあるし、初詣もあるし、お盆もあるし、赤ん坊が生まれれば神社にお参りに行くし、結婚すれば教会で式を挙げ、亡くなるときには仏教式の葬儀を挙げる。確かに一見見れば「日本人は宗教に寛容だ」なんていう神話が信じられるのも頷ける。だが、本当なのだろうか?

  私が小学5年生だった頃、私は2つの行事に参加できなかった。その行事とはプール開きと日本人形作りの行事で、一見誰にも宗教的な行事とは思えないだろうが、クリスチャンである私にとってはかなり宗教的な行事にだった。プール開きでは形の上ではお酒をまいて、ちょっとした神道の儀式っぽいことををやるし、日本人形を作るになるとそれは偶像崇拝になるしと様々な面で引っかかる。こんなことは学校生活を送る上では常に付きまとった。高校時代にあった宿坊研修は宿坊に泊まって、朝の勤行をする行事だったので、かなり前から私が悪性の風邪を引くことが家族会議で決定した。

   こういうことは事前に牧師さんに相談して決める。私は全てのキリスト教の牧師さんに会ったというわけではないが、うちの牧師さんは即座に学校に行かなくて良いと言ってくれた。お陰で皆勤賞は取れなかったが、正直、信仰の方が大事だから全然、問題は無い。

   私は一度、ズル休みをしたくてズル休みをしているわけじゃないんだから、出席扱いにしてもらえないの?と親に言ったことがある。親は何故か頑なに「それは無理なんだよ」と私に諭していたのを憶えている。大学生になってからその理由が分かった。憲法の授業で同じようなことで宗教上の理由の欠席を出席として認めて欲しいという訴訟があったことを知った。結果として、請求棄却で終わったらしいのだが「日本人は宗教に寛容である」なんて嘘なんじゃないかと改めて感じさせられた判例だった。

   最近、聖書から由来している私の名前を観て「DQNネームですか?」なんて言った人も居た。きっと悪気は無いし、知識の問題もあるのだろうけれど、私は思わず苦笑したのと同時に何か大事なものが否定されたような気がした。

   宗教を信じている人間なんか居ないっていうことが宗教に寛容であるというわけじゃない。無かったことにする理論はここでも働いているのかな。

   仏像を壊されたこと、お墓を壊されたことで怒る気持ちは分かる。でも、その怒りを人の信仰を軽視する今の日本にも向けて欲しい。

   私は仏像や墓を破壊した人も許せないし、こんな私の日常の中にあることも許せない。

信仰には国境なんて関係ないはずだし、誰にも否定するような権利も無い。

   地蔵が壊されていることはプラズマ画面の向こうのことだけれど、私にとってはなんだか他人事のようには思えなかった。

 

成宮さんへの報道について

 会社で仕事をしていたら、俳優の成宮寛貴さんが引退したというニュースが目に飛び込んできた。どうやら週刊誌で報道されていたコカインの吸引疑惑が彼の引退を決意させる原因だったらしい。最近、芸能人のクスリにまつわる話が多い。チャゲ&飛鳥ASKAが再び逮捕されたり、女優の高樹沙耶大麻で逮捕されたり。そんな薬物犯罪が巷で話題になっている中で成宮さんのコカイン吸引疑惑が週刊誌で報道された。

 成宮さんは芸能界引退を発表する文章の中で成宮さん自身のセクシャリティーが週刊誌に報道されたことを引退の要因として挙げていた。彼には以前からセクシャル・マイノリティーである噂はネット上で読んだことがあった。

「そんな個人的な情報どうでも良いだろ」と思いながら、そんなページをついつい読んでしまう私が居る。

 誰かによって、自己の性的指向が暴露されることを「アウティング」と呼ぶそうだ。最近、一橋大学の大学院に通っていた院生が周りの仲間にアウティングされ、それが原因で自ら命を絶ったことは記憶に新しい。

そのような悲劇があったにも関わらず、今回も「アウティング」による悲劇が起きることになった。

性的指向が「アウティング」されてしまう立場の気持ちが完全に分かるというわけではない。ただ、暴露される恐怖は私のような民族的なマイノリティーでも共有している問題だ。

 私は高校時代に自分が「在日」であることが暴露されてしまったら、大変なことになるんじゃないかという想いの中で生活していた。たまたま隣に朝鮮学校があり、私が通っていた高校の古株の先生は朝鮮学校に対して良く思っていなかったようだったことや私の伯父が韓国籍であることが分かった途端に高校を辞めることになった話を聴いたことがあったからだった。

 そんな話を聴いて育つと、どうしても「私が私である」と言うよりも「いつ私の正体がバレてしまうのか?」「正体がバレたら社会から排除されてしまうのではないか?」「私の正体をバラさないように生きていこう」という感覚になる。

 民族的なマイノリティーはまだ暴露されたとしてもマシかもしれない。それは家族という身近な逃げ場所も存在するからだ。しかし、セクシャル・マイノリティーの立場はまず家族に自分自身が何者かとカミングアウトするところから始まっていく。

 私のような立場よりも孤独さというのはより強く感じているかもしれない。

 そんな孤独さを嘲笑うかのようにマスコミが平気で「アウティング」をしてしまうのには愕然とする。それと同時に小学校の教室と何ら変わらない今の社会が持つ欲望の渦の中に私も巻き込まれるのではないかという恐怖が襲う。

 マイノリティーの当事者たちは常に消費されている立場に置かれる。その立場を建設的に疑いつつ、外の世界とコミュニケーションを取っていく人々が居ることも事実だが、全ての人がそのような高等技術を持っているとは限らないし、「私が何者かであるとは言わない」選択肢を選ぶ人も居る。私自身は「私は私だ」と言う立場の人間だが、そんな自分自身を語らない当事者の気持ちも尊重したい。それは人の生き方を決められる権利は誰にも無いし、人の在り方を強制する権利も誰にも無い。それを決めるのはその人自身だと考えているからだ。

 近代市民社会には「疑わしきは罰せず」という原則がある。本来は国家の警察権によって容疑者とされた市民に対して人権を不当に奪わないようにする原則だ。ASKAの件から考えても、そんな原則を無視し、集団の欲望のままに人を消費する社会の中では無意味なことかもしれないが、私はあえてこの原則に従いたい。仮に彼が罪を犯していたとしてもそれは彼の罪であり、彼の属性による罪では無い。法は属性を超えて、罪を犯した全ての人に適用されるべきだ。だからこそ、集団の欲望によって、見世物にしてはいけない。まして、それが彼が隠したいと願っている属性であれば尚更だ。

 この私にも誰かを消費したい気持ちがある。そんな気持ちを抑えながら、私はその人の在り方を尊重していきたい。それは彼を守るだけではなくて、消費される立場が誰になるのかは分からないという恐怖にはうんざりしているからだ。

 生きやすい社会を作るのはそんなところから始まるのかもしれない。

デモの現場から教室を経由して祭祀(チェサ)の現場を観る

 朴槿恵大統領の弾劾騒動がとうとう山場を迎えている。野党が12月9日に弾劾決議案を国会で可決することを目指し、セヌリ党の非朴派は12月7日に朴槿恵大統領が辞任時期を示さなければ弾劾決議案に賛成するとのこと。とうとう朴槿恵大統領も追い込まれたという形だ。本来はこの憲法秩序回復の過程について色々と書いていかなければいけないのだろうが、今回はそんな話とは違って、韓国国内に根強く残っている問題の話をしようと思う。それは韓国における「女性」の話だ。

 2014年に私は釜山に留学していた。その時に、私は韓国政治を英語で学ぶクラスに入っていた。

 2014年というと韓国の経済状況が良くなかったことを覚えている。物価は上がっているのだが、賃金が上がらなかったことを愚痴る人が多かった。また、その年にはセウォル号の事件もあり、国内では朴槿恵が「何もしない大統領」として人々が様々な不満を漏らしている時期だった。

 私が居た韓国政治を英語で学ぶクラスにはベトナム人留学生がたくさん居て、彼らは特に女性が国家元首になったことが興味深かったそうで、クラスを受けもっていた教授に朴槿恵大統領に関しての質問を多く投げかけていた。具体的には「朴槿恵大統領が大統領になったことは韓国の女性の地位向上に繋がっているのか?」「韓国の女性の地位は上がっているのか?」といった質問だったと思う。

 それらの質問に対して、教授は朴槿恵大統領が父親である朴正煕大統領の長女であるということや父親の支持者や政治基盤を引き継いでいるということを話した後に、「朴槿恵大統領の韓国の女性の地位向上に繋がっていない。大統領は結婚しているわけでもないし、主婦の経験も無い。なので朴槿恵はWOMANではなくて、PERSONとしてしか見られていない。」と答えた。

この一言を聞いたときに、自分の中ではこんな言葉が出てきた。

「それでは一体、韓国における女性とはどんな人のことを言うのか?」

 我が家はクリスチャンだ。なので親戚が行っている祭祀(チェサ)に参加することはない。だが、お正月だけはチェサが終わった後に、正月の挨拶回りということで伯父の一家に会いに行く。

 韓国におけるチェサは本当に大変なのだ。誰が大変なのかと言えば、家に関わる女性が大変。とりあえず親戚中の女性が台所に立って、料理を作り、チェサの後片付けからなにやら全てをこなす。男は午前中にご先祖様へのお祈りをした後に、ただ飲んだくれているだけ(笑)そんな「韓国的」とされている空間の中には男性が行わなくてはいけないことと女性が行わなければいけないことというジェンダーの問題を垣間見ることができる。

 お正月、私が伯父の一家に挨拶回りをする時には必ず、伯父の妻である伯母が常に台所に立ち続けているし、私たちの世話まで焼いている。

母が「私やりましょうか?」と言っても「良いから、座ってて!」と言われ母が出る幕もない。伯母は済州島から伯父に嫁入りするために日本に来た。私のような在日とは違って、ニューカマーとしてやって来ているので、もしかしたら、チェサをやることはすでに教育されていることなのかもしれない。

 こんな空間に耐えられなくなった私は一度、手伝おうとしたが、伯母は「良いから、座ってて!」と言って、私を手伝わせなかった。このことを父と母に相談したところ、「伯母さんはそれを誇りだと思っているんだよ」と話した。それ以来、私は伯母の手伝いをしないようにしている。

 伯母が韓国の女性を全て代表しているとは限らないが、そんな社会的役割をこなしている女性こそが「女性」であると考えている人が極めて多いと思う。

 こんな問題をこの時期に書いたのには理由がある。それは朴槿恵大統領の辞任を求めるデモの中で様々な芸能人が参加し、会場で歌を歌ったり、コントをしたりした。その中で、ある芸能人の歌が女性を誹謗中傷するものだとして、デモの当事者たちの話し合いでパフォーマンスを取り止めたことがあった。

 そのニュースに触れたとき、何だか韓国でも少しずつ状況が変わりつつあるのかなぁと思った。「女性大統領」という問題ではなくて、「憲法に違反するような行為をした大統領」として朴槿恵大統領を批判するのであればそれで良いと思う。だが、今回のことをきっかけに女性への批判ということになってしまえばそれは違う。幸いそのような方向ではなく、憲法に違反するような行為をした大統領として国民から批判されている。

 今後どうなるか分からないが、そんなことはチェサで働き詰めの伯母を観ていると、とても希望のようにも感じるのと同時に伯母がチェサで働くという行為も私は受け容れなければいけないのかなぁとも思っている。「これが正義だからこのことには従わなくてはいけない」とするのは何か違う。伯母にとってそれが誇りであるのであれば、何もしないということには違和感があっても、尊重したいし、見守っていきたい。もし、女性の権利を片手に伯母に対して何か言うのであれば、その態度こそが「女性はこうでなければいけないという」どこかで見た光景を私自身が再生産してしまうと思うからだ。

伯母が「もう止めたい」と言った時にどんな言葉を私が掛けるのかということだろう。

 デモの現場でのちょっとしたできごとは海を越えたここでも、小さな生活のこととして起きている