変わってほしい

 私が通っていた大学はとても大きい大学だった。学部ごとにキャンパスが存在していて、私は法学部だったので、東京都心に存在するビル型キャンパスに通っていた。違う大学の友人を訪ねるためにほかの大学に行ったとき、所謂、大学らしいキャンパスを見てとても羨ましいと思ったものだ。

 私の母校ぐらい規模が大きくなってしまうと、学部間の相互交流もほとんどなかった。私が法学部から別の学部の授業やゼミに通うとき、違う大学に行っているような感覚がした。きっと法学部から来た私を別の学部のキャンパスで勉強していた学生たちは宇宙人とまで思っていたのかもしれない。

 この大学の自慢できるところがあるとすれば、いい先生といい学生がたくさん居たことだろうか。先生たちは大切なことをたくさん教えてくれたし、何から何までお世話になった。私が私のエッジに立ってものを考えるようになったのもこの大学の授業やゼミと出会ったおかげだったし、文章を書くことと出会ったのもこの大学の授業だった。私は当時、3つのゼミに通っていて、表現の方法を探していた時期だった。そんな時期に私は文章表現法の授業を受け、文章を書く方法を学んだ。今でもそのときの教科書や私が授業内で書いた文章は残っている。

 私を支えてくれた友人たちと出会ったのもこの大学だった。暴れん坊(だったらしい・・・・・。)だった私を何だかんだで受け容れてくれたし、友人たちと夜遅くまで喧々諤々の議論(ごめんなさい。今からしたら喧嘩寸前のやりとりでしたね。)をしていた。ありていな言い方をすれば個性のある人たちが結構、集まっていたと思う。でも、お互いに尊敬はあった。この大学でできた友人たちとは1年に数回ぐらい会う。

 今日、両親と母校について話をしていたが、「お前はこの大学に通って正解だったね。」と言われた。私も心の底からそう思う。

 私にとって大きな転機の場となった母校の名前は日本大学という。
 そんな大切な母校だけれども、私にとっては同時にとても嫌なことを教えてくれた場でもあった。かつて、ヘイトデマが書かれたビラが学内でまかれていた時、それに気づいた私はすぐに学生課へ話をしに行った。学生課の職員はその場では対応してくれたものの、そのあとに何の音沙汰もない。大学全体の人権センターに問い合わせても相手にしてくれなかった。私は言いようのないこの気持ちを卒業論文のはじめと終わりに書いたけれども、そのときの気持ちは「この人たち、学生を守る気なんて全くないんだな。」ということだった。そう思ってしまうと声を上げるのもバカバカしくなってしまう。大学の窓口に何か言う以上の具体的なアクションは起こさなかった。

 私には所謂、愛校心なんていうものはないと思う。大学の校歌なんて歌えないし、誰が理事長で誰が学長なのかもよく分からない。箱根駅伝で「日本大学」という名前を見ても何とも思わない。
 最初に日大アメフト部の事件をテレビで知ったとき、「ああ、起こるべくして起こったか。」という感想だった。この大学に学生を守る気がないことは知っていたからだ。しかし、テレビで放映されていた加害者側の選手の記者会見を観て、私はもし、あのとき、ヘイトビラの件でちゃんと声を上げていたら変わっていたのかもしれないと後悔した。学部は違うかもしれないし、ほんの少しの動きかもしれないが学生を犠牲にする体質は少しだけ変わったかもしれないと思ったからだ。

   もう私のできごとは昔のことになってしまった。黙ることをあのとき選んだ私は心の底からこう思う。

変わってほしい。
もう学生を犠牲にするようなことはしないでほしい。