衆議院議員総選挙が終わった。
結果は自公政権の勝利と希望の党の惨敗。そして、立憲民主党の躍進が目立った選挙だった。
必ずこの時期になってくると話として出るのが「小選挙区制批判」である。
「自公政権が大勝してしまったのは民意を反映できない小選挙区制のせいである」と言って、自公政権に反対する人たちが中選挙区制復活論や比例代表制導入論などの「選出制度変更論」を語る。
しかし、そのような「小選挙区制批判」は果たして、日本の選挙制度を精確に批判しているのだろうか。
確かに、今回、自公政権が大勝したことは間違いない。
それは勝者勝ち取りになりやすい小選挙区制のお陰であると言える。
だが、小選挙区制批判の前にまず、日本の選挙制度が極めて「制限された」選挙制度であるということは知るべきだ。
選挙の風物詩と言えば、なんだろう。
私が真っ先に挙げるのは、「選挙カー」である。
選挙カーから流れる「皆様の街に○○が帰って参りました!○○党の○○でございます!お父様!有難う御座います!」という手を振るウグイス嬢とウグイス嬢の美しくも必死な声を聴いた途端、「選挙の季節がやってきた。」と思うのだ。
だけれども、選挙カーのような乗り物は日本にしかないらしい。
何故、空に向かって候補者の名前を叫ぶような「選挙カー選挙」になってしまうのか。
それは日本の公職選挙法と関係がある。
日本の公職選挙法では選挙期間中の戸別訪問が禁止されており、さらに候補者が政策を討論するための討論会もない。
なので、選挙カーから空に向かって名前を叫んだほうが、どうやら得票が高くなるそうなのだ。
さらに選挙カーに乗ったまま、自分自身の政策を語ることも制限されている。
どうやって我が街から選出される政治家を知れば良いのか全く分からない。
選挙期間中に有権者が直接、政治家と話をする機会もないのに、どうやって政治家について考えれば良いのだろうか。
次は日本の投票システムについて考えてみよう。
日本の投票システムは自分で名前を書かなければいけない「自書式」である。
だが、ここも良く考えて欲しい。「自書式」投票では字の書けない人たちにどうやって投票しろと言うのか。
それだったら、候補者の名前に丸を付けるか、マークシートによる「記号式」を採用するべきだ。
次は視点を変えて、議員になる側の話をしていこう。
国会議員(衆議院議員や参議院議員)として出馬する際には供託金を支払わなくてはいけない。
供託金の金額はなんと選挙区で出馬する場合は300万円、比例区で出馬する場合は600万円も掛かる。
衆議院議員総選挙の場合、重複立候補制度が認められているので、議員によっては900万円も支払わなければいけない。
エリートサラリーマンでも選挙に立候補するための900万円を用意することは難しいと思う。
日本の選挙制度は候補者を知れない選挙制度である上に、お金持ちしか立候補できないような制度なのだ。
中選挙区制復活論や比例代表制導入論などの「選出制度変更論」を唱えるよりも、まずは、有権者が議員の情報に触れられる制度や議員との距離を縮めるような制度の整備を行うことの方が先だ。
仮に今のまま中選挙区制を復活させたり、比例代表制を導入したとしても何も変わらないことは目に見えている。
中選挙区制を復活させれば、かつての55年体制に逆戻りになることは確実だし、比例代表制にしたとしても、政党の意を汲む議員だけになり、政党からパージされる議員が続出し、政党が乱立するのではないかと思う。
というのは、日本の政党の場合、幹事長が公認権を一元管理しているため、公認権を盾に議員が政党のための議員になってしまう。
これは選挙制度改革とは別の枠組みの話になるが、公認権を都道府県支部に与えることや政党内における開かれた国会議員候補の予備選挙システムを整えることが必要になってくるだろう。
90年代の政治改革では議員の選出制度の話しかされていなかった。
その結果、現在のような政権が生まれたことは言うまでもない。
だからこそ、自公政権が議席を取り過ぎだから、中選挙区制復活や比例代表制導入論を唱えるのは90年代の政治改革から何も学んでいない証左と言える。
まずは有権者と議員との関係を近くする改革からだ。