社会のことなんか考えられないよ

 ついつい飲みすぎてしまって終電を逃した私は24時間営業の居酒屋に入って、酔いさましのためにウーロン茶を頼み、ちびちび飲みながら、入管法改正案が参議院で可決された様子を店内のテレビで観ていた。

 同席していたひとはテレビを観ながら、「はぁ。」とため息をついたが、深夜なのに騒がしい店内だったせいで、その声はかき消された。

 高校時代、日本史の先生が治安維持法について教えていたとき、「悪い法律はいつの間にかできてしまうんだよな。」とボソッと言った。まだ高校生だった私はその言葉の意味が分からなかったが、大学に入り、教科書で「政治的無関心」という言葉に出会い、少しでも政治や社会のことについて関心を持とうと思った。

 どうやらこう考えているひとは私だけではないらしい。本や雑誌やネットのみならず、巷での会話でも、さまざまなひとたちが「日本のひとたちは政治や社会のことについて興味がない。」と異口同音に語る。

 きっと、学生時代の私であれば同じように語っていただろう。しかし、社会人になってから深夜の居酒屋で働くひとびとを観ていると「政治的無関心」には理由があることを理解するようになった。

 学生時代、私が通っていた自主セミでは、政治や社会のことに興味のあるひとたちが比較的多く集まり、ときには一触即発の事態になるようなスリリングで、学びの多い場だった。

 そのなかにいつも鋭い意見を言う同期がいた。彼女は尖った言葉を吐くタイプではないのだが、いつも絶妙なタイミングで言葉を放つ。そんな言葉にハッとさせられて、「このひとみたくなりたい。」と思うぐらいだった。

 そんな彼女とは卒業以来会っていなかった。お互いに社会人となり、学生時代みたく、気軽に集まることができなくなったからだ。ようやく彼女と会うことができたのは卒業して2年が経ってからだった。

 久しぶりに彼女と会ったとき、顔色が良くなかったので、私が「大丈夫?」と声をかけると彼女は仕事ばかりの毎日を送っていると語った。私は「やっぱり、そういうのは政治が良くないからなのかねぇ。」とオッサンみたな口調で言うと彼女は「仕事が忙しすぎて、政治のことなんかまったく考えなくなっちゃった。」と言った。

 「社畜」という言葉がある。「企業に飼いならされてしまい自分の意思と良心を放棄した奴隷(家畜)」という意味だ。朝早く目をこすりながら電車に乗って、意志や良心を放棄しながら仕事に打ち込み、疲れた身体で電車に乗って、家に帰る姿を自虐して言っている。こんな生活をやりたくてやっているわけではない。税金や光熱費、水道代の支払いはもちろんのこと、ローンや奨学金など支払わなければいけないものが山ほどあって、そのためにこの生活を止めることができない。

 私は同じ世代のなかでもまだマシなほうだと思う。仕事も辞めて、病気になってしまったが、運よく本は出せたし、お金はなくてもまだなんとか生きている。

 そんな私が日々の生活に追われているひとびとに「政治に関心を持ってください。」とか「社会にもっと関心を。」と言っていいのかどうかいつも悩みながら鉛筆を握っている。

 こんな「社畜」と自虐しなければいけない生活を送っていたら社会のことに関心を持たなくなるのは当たり前だ。向き合う時間や体力もないのだから。

 深夜の居酒屋で働くひとを観て、疲れ切った顔をして、私に政治のことを考えられなくなったと語った彼女を思い出す。

政治的無関心」という教科書に載っている言葉の正体は生きていくため、「社畜」にならなければいけない今のことだ。そして、無関心であることを嘆くよりどうしてこうなっているのかを問わなければいけないと思う。

 始発の時間になったので、私は店を出て、電車に乗った。朝早い時間なのに、席は埋まっている。このなかにどれだけのひとがこれから仕事場に向かい、これから仕事で疲れた身体を休めるために自宅に帰るのか。
 24時間営業の居酒屋で客としてサービスを受け、二日酔いの身体で電車に乗っている私がこんなことを言えないのことは分かっているが、これだけ言わせてほしい。

 こんなに働かされていたら社会のことなんか考えられないよ。