あのスラッシュはまやかしだった

  小さいころに通っていた公文の教室で学習図鑑『日本の歴史』と出会ってから私は日本史オタクになった。

 「どんな時代が好き?」と訊かれると小さい私は決まって「戦国時代」と答えていた。多分、父が借りてきてくれた日本史のビデオが「徳川家康」だったからだと思う。

 歴史オタクは自分の好きな国や時代以外のことはあまり知らない場合が多い。

戦国時代オタクだった私もそうだった。

 ある日、久しぶりに『日本の歴史』の年表を観ていると1945年以前と以降でスラッシュがあることに気づいた。

 父に訳を尋ねてみると「日本が戦争に負けて、新しい国になったから。」と答えてくれた。

 小学校6年生になるとそのスラッシュに再会した。

日本史の授業を受けていた私はちょうど、1945年のことについて教わっていたのだ。

担任の先生は1945年に「日本は戦争に負けて、民主的な新しい国になった。」と教えてくれた。

 大人になった私は新潟県阿賀野川に行くようになった。そのとき、ある水力発電所へ案内してもらった。

 いまでも現役で稼働しているという大きなダムは、戦前に作られたもので、当時としては日本で最大の規模だったそうだ。

 そこへ案内してくれた人は私にこんなことを話してくれた。

 

 「金ちゃん、このダムは朝鮮半島からたくさんの人がやってきて、作ったものなんだよ。」

 

 その話を聴いたとき、妙な冷気を感じだ。それは地元で有名なある遺跡で感じた冷たさと同じだった。

 私の地元には吉見百穴という古墳時代に作られた横穴墓群がある。そこにひときわ大きい横穴があった。その穴は戦時中に地下の軍需工場として、3000人ぐらいの朝鮮人労働者が掘ったものだという。

 そのいわれを聴いて、穴のなかに入ってみるとどこからともなく冷気を感じて、寒さに耐えきれなくなり、すぐに外へ出た。

 あれは横穴特有の冷たい風たと思っていたが、阿賀野川のほとりで再会して、ただの風ではないことに気づいた。

 あの時代、日本にやってきた大半の朝鮮人たちは読み書きのできないものを言えぬ「安価な労働力」だった。そんな「労働力」は単純労働をしながら日本で生きつづけ、戦争が終わって、自らを「在日朝鮮人」と名乗るようになったが、故郷に2つの国ができたので、やがて「在日韓国・朝鮮人」と呼ばれるようになった。

 いまではそんなひとたちの5代目の子孫が生まれていて、路上に出てみれば日本語しか分からないのに「祖国へ帰れ!」と罵倒される。

 「日本にも移民がやってきた。」と語るひとたちを横目に、「昔からこの国には「安価な労働力」だった移民がいたんだよな。」と「安価な労働力」の子孫である私がひとりごちる。

そのひとりごとは真新しい「移民」ということばでかき消されてしまう。

まるで、そんなことは今までの日本ではなかったと言いたいように。

 入管法改正案が衆議院を通過したとき、「移民たちを「安価な労働力」としてしか考えず、そんな存在をなかったし、都合が悪くなれば罵倒することをまた繰り返すのか。」と天を仰いだ。

 この国へ希望を持ってやってきた外国人たちに「君たちは安価な労働力だ。」と私は言いたくない。

 1945年のスラッシュと「在日韓国・朝鮮人」の中黒は戦争に負けて、民主的な新しい国になったこととと冷戦で故郷に2つの国ができてしまったことの2つの現在を現わしていると思っていた。

 だが、あの改正案が強行採決で通ってしまったことを知って、外国人をただの「安価な労働力」としてしか見なさない「美しい日本の伝統」のまえにあのスラッシュはまやかしであったと感じた。

 あのとき、私が学んだ「戦前」と「戦後」とはいったいなんだったのだろうか。