そういう「日本人らしさ」はもういらない

    今年のサッカーワールドカップ日本代表は「訳の分からない」チームだった。

「訳の分からない」ままハリルホジッチが解任され、西野が新監督になり、

「訳の分からない」ままワールドカップでベスト16に残り、

「訳の分からない」まま森保が代表監督として、先日、初采配を振った。

   ワールドカップでの反省はこれといってなく、ただ、なんとなーく「ベスト16でよかった!感動をありがとう!」という空気だけがあった。

   こんな日本代表がベスト16まで行ったのは同じグループのチームにとって「訳が分からなかった。」からだろう。直前で監督を変えて、プレーモデルがあるのかないのかハッキリしないサッカーを展開したおかげで、真面目に対策をしてきた相手チームのコーチたちは「訳が分からない」渦に巻き込まれた。

 そんな「訳の分からない」チームをテレビでは「日本人らしいサッカー」として称賛した。確かにあれは日本人らしい。作戦があるのかないのか「曖昧」で、何をやりたかったのか分からない。

 唯一、曖昧じゃなかったのはベスト16になりたいからポーランド戦で途中無気力プレーになったことぐらいか。

  日本人にとってどうやら「曖昧さ」は美徳なようで、日本の文化や日本語の特徴として「曖昧さ」が強調される。

 どうやらその影響は政治の世界にも及ぼしているらしい。大学時代、日本政治を学ぶ講座で講師は「55年体制の日本政治の特徴は曖昧なところにある。」と語っていた。

 そんな政治のあり方を改革するためなのか、今の政治家たちは「日本人」であることをこの国に住む人たちに求めながら、「曖昧さ」からは程遠い、断言口調で政治を語る。

 そんな新しい政治家が何を考えたのかTwitterで「ノーベル賞、オリンピック等で快挙を成し遂げた日本国民には、二重国籍の特例を認めたらどうかな。」と言い出した。これもまた「日本人らしい」と苦笑しながら私はとある「在日あるある」を思い出していた。

 いろいろな在日から話を聞いていると、1度は日本への帰化を考えたことのある人が割と多く存在することに気づく。

 帝国植民地の臣民で、戦後に何の選択肢も与えられず、国籍を奪われた人たちが戦後、ふたたび帰化をするなんて変な話なのだが、日本国籍を取っていれば何かと便利だ。
 だが、それと同じくらいに帰化に「挫折」したという話も聞く。

 ある人が帰化するために膨大な書類を作った。普通は行政書士に頼るが、なかには学んだこともない「祖国」の言葉と格闘したり、韓国語のできる日本人に頼んで書類を用意する。その人はお金があったので行政書士に頼んだらしい。多額のお金と膨大な時間を使って、自分の半生を語りながら行政書士に本当に帰化できるかを訊ねる。

 行政書士はじっくりとその人の話を聞いたあと「○○さんは、帰化が難しいかもしれないですね。昔、やんちゃされていたんで警察に記録されているかもしれないです。」と言った。

 ここで心が折れて、その人は帰化を諦めたという。

しばらくして、若いころ、一緒にやんちゃをしていた仲間の在日が帰化したという噂が出た。

 そのとき「どうして俺以上にやんちゃだったあいつはOKなのに俺がダメなのか?」と思ったらしい。

 帰化のハードルは高いというが帰化できてしまった私にはよく分からない。ただ、そんな経験をした人たちにとって、ものすごいハードルがあると感じるのは当たり前だろう。

 在日の中には帰化した「同胞」を「特権階級」だと言う人やなかには「裏切り者」だと言ってしまう人も居る。かつて、朝鮮籍から日本籍に帰化した山村政明という青年は日本籍であったことを理由に在日から差別を受けて、自ら生命を絶った。

 曖昧な帰化制度と在日が心のよりどころとしていた民族精神がぶつかったときの音はとても不気味だ。

 「それなら、そんな閉鎖的な在日の社会から逃げて日本社会に溶け込めばいいじゃないか」と言う人も居るかもしれない。

ところが現実はそんなに甘くないのだ。

 ハローワークで名前を書いて職員に見せれば、一言目に言われるのは「帰化されていますか?」だ。そんなことを言われなくてもとっくに帰化してるって(苦笑)   

 選挙権や被選挙権はどうか?

 たしかに私のような日本国籍を持っている在日は、ほかの在日とは違って、参政権を持っている。その権利を信じて、選挙活動を手伝おうものなら「なんで帰化した人がそんなことをやってるの?」と言われ、議員になろうとしたら次は選挙期間中に「1966年に北朝鮮から帰化。」と黒シールを貼られるか(朝鮮籍朝鮮民主主義人民共和国国籍ではないことぐらい勉強してほしい)、法律や行政の瑕疵なのに「二重国籍だ。」と言われて、党の役職まで辞任しなければいけなくなる。

 まぁ、後者のほうはバカ真面目に帰化した「証拠」として、見せなくてもいい戸籍謄本を公開し、「公職に就いた帰化者は帰化した証として戸籍を見せなければいけない」という前例になりかねないことをしたわけだからより始末が悪い。

 帰化した在日が特権階級なんて嘘だ。

日本の人たちは旧植民地の子孫だろうが元外国籍の人が日本の政治にタッチすることはお嫌いなようだ。

 あれだけ「曖昧さ」を美徳としているのにこれだけはハッキリしている。

 こんな愚痴を「生粋の日本人」だという友人に漏らすと「そんなことで悩まない方がいいよ。心まで日本人になれば良いじゃないか」と言う。

 出た!

日本人の美徳 The 曖昧!

Simple2000シリーズで見かけた(ような気がする)ゲームをここでやるのか!

「心まで日本人になる」って一体、なんだ?

もう国籍を取ったから日本人じゃないのか?

あれか、「心まで日本人になる」って「『おふくろの味は?』と訊かれたら『肉じゃが!』」って答えることか?

 だいたい、肉じゃがはそこまで好きじゃないし、私にとっておふくろの味と言えば、夏の暑い日に食べるやっすい素麺に、刻んだきゅうりと卵焼きと市販の自称キムチを入れて、そこにてっきとうな量のコチュジャンと砂糖と酢とごま油をまぜまぜした「自称冷麺」のことだ。

   私が帰化したとき、法務局の偉い人にそんなことを言われた記憶はないのだが、「日本人になる」ためにはその「自称冷麺」とおさらばして、「肉じゃが」愛好家にならなくちゃいけないらしい。

 グッバイ!自称冷麺!

こんにちは!肉じゃが!

 ところで肉じゃがって、「ビーフシチューの失敗作」じゃなかった?

どうやらこの話も「曖昧」らしい。

 西野が指揮した代表を「日本人らしい」というのには辟易としながら、納得してしまったのは曖昧でよく分からない日本人の基準を日々の生活で感じているからだ。

 二重国籍を認めることが大切だという人も居る。確かにそうかもしれないが、曖昧な基準で帰化できる人とできない人を選別し、帰化したとしても「心まで日本人になること」を求めている限り、制度論的な話をしても希望は見えない。ましてや、「国籍を与えてやる」という国会議員様にとっては「いいことやってるのになぜ?」と思っていることだろう。

 私が求めたいことはそういう「日本人らしさ」はもういらないということだ。