靴を脱いで、お辞儀をして

   最近、寄稿したHAFU TALKや蕨で作っている途中のココシバなど、私の周りではクラウドファウンディングに挑戦する人たちが多い。

   とある人からあるクラウドファウンディングページを教えてもらった。そのページとは『スラム街の暮らしを肌で感じたい』と題されたフィリピンのスラム街に行くためのクラウドファウンディングだ。

   それによると1週間、フィリピンのマニラに住み、そこにあるスラム街に住みながら、映像に撮ることを目的として、お金を集めていた。

   そのページに書いている文章から醸し出されている変なテンションであったり、大学生特有の「意識の高い」言葉(と言ったって、これを書いている私はまだひよっこの26歳。こんなこと言うようになったか。嫌だ。嫌だ。)に苦笑いしながらも、私が経験したことを思い出した。

 今年の4月、鶴橋に行ってきた。鶴橋と言えば西日本の中で一番大きなコリアンタウンとして知られている。以前から大阪出身の在日の人たちに「一度は行ってみた方がいいよ。」と勧められたこともあって、いつかこの街に行きたいと思っていた。

 実際に鶴橋に行ってみると確かに私が小さなころから通っていた東上野よりも大きな街だった。だけれども、私の中で鶴橋への対抗心があったのか「東上野のあの雰囲気の方が好きだ。」なんてこと思いながら街を歩いていた。せっかく、鶴橋まで来たのに、結局、思うことが「どんないいところに行っても我が家が最高。」みたいなことを思っていては旅になっていない(笑)
 街を散策しているとある内臓肉を売っているお店を通りかかった。その店に置かれているお肉の値段を見てびっくり。かなりいい肉が東上野ではありえないような安い値段で置かれてあったのだ。驚いた私は記録用にスマホの写メで撮ろうとしたときに、お店の人にこんなことを言われた。
「お兄ちゃん、撮らないでやー。」

そう言われた私はふと我に返った。

「ああ、そうか!ここは生活の場だった!」
私はすぐにスマホをしまって、「すみませんでした。」とお店の人に言ってその場から立ち去った。
 生活の場に土足で踏み込まれたら不愉快な気持ちになるのは当たり前だ。とあるサイトで東上野を面白半分に紹介するサイトを読んだが、とても不愉快だった記憶がある。だが、自分が旅行者であったり、観察者という立場になってしまうとそんな気持ちがどこかに行ってしまう。
もしかしたら、私の中に同胞だからという甘えがあったのかもしれないが私はその街の住人ではない。敷居を跨ぐとはどういうことなのか、そして、立場が変わってしまったら自分が嫌だと思っていたことをしてしまうことを学んだ。

 私は彼らに旅をするなと言いたいのではない。鶴橋で失敗したからこそ私は生活の空間を改めて考えるきっかけを得た。旅はこうやって人に新しい思考を与えると思う。だが、生活の空間に踏み込むのであれば靴を脱いで、お辞儀をしながら「失礼します。」と一言言ってからにしてほしい。そこに住んでいる人たちは見世物じゃないし、そこに行ったからと言って、すぐに分かる生易しいものじゃないことだって分かると思う。

 そして、私がこの件で一番怖いと思っていることは旅先での失敗ではなくて、大人からの意見に対して、このプロジェクトを考えた学生たちが何も考えず、ただ謝って終わらせることだ。それではどうしてこういう意見がたくさん出たのかを深く考えることがなくなってしまう。大人にとって重要なことは謝らせることではなくて、考えさせる言葉を学生側に対して真摯に伝えることだし、学生にとって重要なことは大人の言葉を真摯に受け取って、何がいけなかったかを考えて自分の言葉で語ることだ。
 インターネットの世界の中だからこそお互いに靴を脱いで、お辞儀をして言葉を交わす姿勢が大切なんだと思う。