我が愛しの日本代表に捧ぐ

 ふとスマホを覗くと画面には「代表メンバー23人が発表」というニュースの見出しが踊っていた。

 そうか。今日はロシアワールドカップの代表メンバー発表の日か。

そう思って、私はスマホをズボンのポケットにしまった。

以前だったら、その場で代表メンバーを確認して、Twitterに即書き込んでいただろう。しかし、そんなこともせず私は淡々としていた。日本代表への熱が以前よりも無くなっていることを感じた。
 「サッカーが好きです」と自己紹介するとこんな質問がしょっちゅう来る。

「日本代表と韓国代表、どちらを応援するの?」

 ここではっきりと言ってやろう。私は生まれてからの日本代表ファンだ。韓国代表や北朝鮮代表を応援する気になんかなれない。日本代表には特別な何かを感じる。

 私がここまで思うようになったのはサッカー少年だった父の影響だ。父は1974年の西ドイツ大会で活躍したゲルト・ミュラーに憧れるFWで、本人曰く「得点を決めるタイプのFW」だったらしい。そのせいか、決められないFWには大変、厳しい。そんな父が応援していたナショナルチームは日本代表だった。理由は住んでいる場所のチームだったから。そりゃそうだ。韓国籍とは言っても言葉が分からない父にとって、「祖国」のチームよりも自分に身近なチームを応援するのは当たり前だ。
 父はテレビでだらしないFWを観かけると実際にスタジアムで見たことがあるという釜本の話をする。そのときの父の顔はかつてのサッカー少年の顔だ。

 そうしたこともあってか、私は日本代表を応援するようになっていた。
 私の記憶を遡っていくと1998年フランス大会アジア最終予選から応援していただろうか。7歳だった私は応援している側の殺気を感じ取っていた。1993年10月28日の深夜、ドーハで味わったサッカーの残酷さを忘れなかったサポーターたちが「今度こそは。」と願って、ワールドカップ出場の夢を選手たちとボールに乗せていたからだと思う。

 このときの最終予選は苦難の連続で、出だしが不調なままトンネルを抜けきれず、加茂周監督が更迭され、岡田武史コーチが監督になり、どうにかしてイラン戦でワールドカップ出場を決めた。

 ジョホールバルの試合を観ていた父が泣きながら「やっとあの舞台に立てるのか。」とテレビ画面の前でつぶやいていたのを憶えている。

 98年のフランス大会では、誰よりも代表を愛し、ワールドカップの舞台に立ちたいと願うカズが代表から外れた。「魂みたいなのは向こうに置いてきた。」と金髪のカズが報道陣に向かって言っていた。スターを外したせいなのか、それとも勝ち星がなかったからなのか、ゴンのゴールがあったにもかかわらず、負けて帰ってきた代表チームに待ち受けていたのは非難の嵐で、空港で代表メンバーだった城はサポーターから水を掛けられた。

 4年後の2002年日韓ワールドカップのとき、私は小学5年生になっていた。2000年のアジアカップで優勝した日本代表が地元で開かれるワールドカップに出る。ということで大変はしゃいでいた。私だけではない。教室に居る男子たちはこぞってベッカムヘアーをして、休み時間になると皆でサッカーをしていたし、放課後になると、教室のテレビをつけてその時間帯にやっている試合をこっそりと観ていた。
 代表戦になると盛り上がりはピークに達した。ロシア戦での稲本のゴールと代表のワールドカップ初勝利の翌日は教室が大騒ぎだったし、ベスト16のトルコ戦で惜しくも敗れたときはお葬式ムードになった。あのとき、全てがサッカー一色になっていたのだ。
 それから2年後のアジアカップ中国大会。そのとき、私は初めて神を見た。当時、政治的な状況が原因で反日ムードになっていた中国で、代表はヨルダン相手に延長のPK戦で奇跡を起こして、決勝まで勝ち上がり、そのまま優勝してしまった。

 良かった!これで次のワールドカップはベスト8にまで行ける!

2006年のドイツ大会は誰もがそう期待した。しかし、オーストラリアには逆転負けし、クロアチアには「急にボールが来た」せいで決めきれず、引き分け、その次のブラジル戦では圧倒的な力の差を見せつけられ、そのまま予選敗退になった。子どもたちが「天才」と思っていた選手たちが世界の壁の前で挫折した瞬間だった。
 これからどうなるだろうと思っていたとき、躍進していた千葉のチームからオシムがやってきた。知性にあふれるコメントと攻撃的な戦術で日本代表を再出発させて、さらに日本サッカー全体を変えようとしていたが、オシムは病気で倒れてしまった。私はそのとき、初めて人が死なないように真剣に祈った。
 この後に来たのは98年のときの岡田監督だった。ワールドカップに出られることは決まったものの、そのあとの試合では全く上手くいかない。誰もが岡田監督に「辞めろ。」と言っていたとき、俊輔から本田を柱にして、キャプテンも中澤から長谷部に変えるギャンブルに出て、見事、奇跡を起こした。
「岡ちゃんごめんね。」とTwitterで、皆でつぶやいていたっけ。
 岡田監督の後はザッケローニがやってきて、2011年のアジアカップを戦った。今でもあの決勝を忘れることができない。延長戦で李忠成が見事なボレーを決めて優勝したのだ。ラモス以来、帰化した人たちが活躍していた代表チームに在日が入り、そこで英雄になったのがとても嬉しかった。
 さらにハイレベルで活躍する日本人選手が増えてきた。香川はドルトムントの主力選手として優勝し、本田はACミランに行き、長友はインテルで活躍した。
 これはキャプテン翼の世界だ!次は2006年のときとは違って、上手くいく!

と思ったとき、2014年のワールドカップで見せつけられたものは、世界がまだ遠いということだった。ここからまた始めなければいけないと思い、途中、監督に就任したハリルホジッチが少しずつ着実に仕事をしていた。
 そして、2018年。不可解なハリルホジッチの解任に首を傾げた私が感じたことは私たちの代表はもはや、私たちのものではないということだった。一部では主力選手によるクーデターがあったのではないかと言われていたし、スポンサーへの忖度があったとも話す人たちも居た。どちらにしろ、協会は監督という個よりも「組織」を優先した形を取った。なんとも「日本」らしいスタイルだ。
 昨日、ある人と会っていたとき、ハリル解任の話になった。その人はハリルのスタイルや文化と協会の人たちのスタイルを埋めきれなかったのではないかと話していた。確かにそうかもしれない。しかし、かつての代表はそんなんじゃなかった。トルシエのような個性が強烈な監督でも切ることはなかったし、海外のサッカーから学ぼうとする姿勢を常に見せていた。決して、今みたいに「日本化」という言葉で誤魔化さず、不可解な理由で監督を解任するなんて考えられなかった。

 そう思えば思うほど、今の代表には嫌気がさしてくる。きっと私はサッカーが嫌いになったのではなくて、日本代表に希望を抱けなくなったのだろう。
 改めて選ばれた選手たちの名前を見る。

「ほう。こういう奴らが選ばれたのか。」と独り言ちながら私は西野監督に向かって、いや、協会の人たちに向かってこんなことを言いたくなった。

お前たちは一体、どこに向かっているんだ?