光州は終わっていなかった

 私が釜山に留学していた頃、暇があれば寄宿舎を出て、韓国国内の名所を巡っていた。その中で最も印象的だった場所は光州だった。

 最寄りのバスセンターからバスで3時間半から4時間かかっただろうか。光州のバスターミナルに着いたとき、「あれっ?ここって本当に韓国なのか?」と思うぐらいに静かな街だった。私が住んでいた釜山の街はいつも活気が溢れていて、派手な色の服を着たアジュンマたちが大声で話している。だけれども、私が見た光州ではそんな光景はなく、どこかどんよりとしていた。

 妙だなぁと思いながら、市内バスに乗り換えて、光州民主化抗争で亡くなった人たちの墓地へと向かった。

 5月18日は韓国にとって悲劇的な日として記憶されている。この日は光州民主化抗争が起きた日だ。全斗煥によるクーデターとそれに伴う光州出身で民主活動家だった金大中の逮捕に抗議する学生デモを契機に光州は市民たちと韓国軍の内戦状態になった。最終的に市民たちが敗北し、数多くの死傷者が出た。
 1980年5月18日からしばらく、真夜中に韓国へ国際電話を掛ける人たちが多かった。まだ中央情報部による国際電話の盗聴があった時代で、盗聴されていない時間帯を狙って、人々は光州の様子や家族の安否を聞くために寝不足になりながら電話をかけていた。

 私の祖母も例外ではなかった。光州で事件が起こったことを知り、すぐさまソウルに居る家族へと電話をかけた。そのとき、彼らから伝えられたことは「どうやらパルゲンイである金大中の一味が光州で反乱を起こしたという噂が流れている。」という話だった。

 同じ時期、とある韓国人留学生も韓国に電話をかけていた。かつて民主化を求める学生運動を行っていた彼は祖国で起きた凄惨な出来事をソウルに居る同志たちに伝えるためだった。のちに彼は私の恩師となり、まだ民主化されていない頃の韓国を教えてくれた。
 ほぼ同じ時間、違う人たちが違う立場で国境を越えて、光州で起きた悲劇的な出来事をそれぞれのやり方で知ろうとしていたし、韓国国内に伝えようとしていた。今からすれば何でもないことなのだが、軍人たちが権力を握っている頃はそれすら許されなかった。

 光州がどんよりとした街なのはそうしたできごとがあったからだとずっと思っていた。

 市内バスで民主化抗争で亡くなった人たちを葬った国立5.18民主墓地に着いた。そこで最も目立つのは参拝広場にそびえ立つ5.18民主抗戦追慕塔だ。その塔の両脇には決起した市民たちが結成した市民軍の銅像とそれを支援する人々の銅像がある。その後ろの壁画には当時の様子が描かれている。

 私が壁画を観ているとあることに気づいた。市民たちを決起に追い込んだ軍人2人の顔が描かれていない。明らかに民主化抗争の原因となった軍人出身のあの2人の元大統領のことなのだが・・・・・。

 あとになって知ったことだが、市民たちに発砲の命令を下した人物ははっきりとわかっていないそうだ。状況証拠は数多くあるものの、最終的に命令を下した人間は誰なのか分かっていない。だけれども、人々は誰が命令したかを知っている。そうでなければ壁画には描かないだろう。

 もしかしたら、光州がどんよりした街だったのは光州民主化抗争が起きたからではなくて、いまだに光州民主化抗争が終わっていなかったからだったかもしれない。数多くの謎は今でも存在し、被害者たちはまだ全てを語ることができていない。だが、それは加害者である人間たちも同じだった。被害を受けたからではない。加害した事実を認めたくないからだ。
 顔の描かれていない壁画を観ながら私はこんなことをつぶやいた。

「そろそろ、その顔で観てきたことを言ったらどうだ。」