阿賀のお地蔵さん

   私は日本テレビで放映されている「Another Sky」という番組が好きだ。ゲストとして呼ばれた人が人生の転機を迎えた場所を紹介する。この番組を観ていると私にとっての「Another Sky」はどこだろうと考え、ある場所が思いつく。

その場所とは新潟県阿賀野川流域だ。

   今からちょうど1年前、私はとある病気になってしまい、身体も動かず、ただ寝て過ごしていた。そんな私に家族は優しい言葉をかけてくれず、私は居場所を失おうとしていた。そうした時期に以前からお世話になっていた方から「阿賀(阿賀野川流域のことを地元の人はこう呼ぶ。)に来ないか?」と連絡があった。このまま家に居てもしょうがないし、外に出るいい機会だと思い、私は阿賀に向かった。

   初めて行った阿賀の地は最高だった。人は優しいし、酒は美味いし、ご飯も申し分ない。私にとって初めて「故郷」と呼んでいいと感じられる場所に出会ったと感じた。

   そんな阿賀の地の中で、特に好きな場所がある。それはとある集落の中に鎮座しているお地蔵さんだ。この地域は1965年に発覚した新潟水俣病の舞台になった。

   新潟水俣病の運動は長い間行われ、今でも認定問題をめぐる裁判が行われている。そのおかげであることが起きた。

それは運動の長期化で、運動内部の対立が集落に持ち込まれてしまったのだ。

その対立に苦しんだ人々はかつての集落を取り戻すために、集落の中に新しいお地蔵さんを置いた。

どんな人でもお地蔵さんに手を合わせて、大切にするからと思ったからだ。

お地蔵さんのおかげで、バラバラになった集落はまたひとつになり始めた。毎年、ある時期になると新潟水俣病で犠牲になった人たちのためにお地蔵さんの前で念仏をあげるという。

  クリスチャンである私がお地蔵さんに手を合わせることはない。だが、粗末に扱いたくない。このお地蔵さんを色々な人が大切にして、手を合わせることで仲良くできているんだから。

どんなにバラバラになってもひとつになる方法はあるのだ。

   先日、南北首脳会談があった。38度線で南北の指導者が握手した光景に私は言葉にならないくらい感激した。だが、どこかで素直に喜べない私も居た。

   在日の友人と会ったとき、彼女は韓国に行きたくても行けないと話していた。南にはまだ国家保安法があり、北朝鮮に近いと見なされる彼女は逮捕される対象になりかねない。一方、韓国に近い私は北朝鮮に行くことはできない。日本籍に帰化したとしても、朝鮮戦争でクリスチャンであったことを理由に親族を朝鮮人民軍に殺された反動分子であるレッテルが消えることがないからだ。

   南北の分断で様々な人が犠牲になり、今でも分断を身近に感じながら生きている。

   もちろん、私たちのような存在だけではない。かつての独裁体制を変革するために民主化運動に身を投じ、命からがら漁船に乗って、隣の島国に逃れた人も居たし、食料と自由を求めて、凍てつく豆満江を渡った人も居た。

また、ある人は南北の間でスパイと見なされ処刑されてしまった。

こうした事例を挙げていけばキリがない。

   在日は「国家」や「民族」や「統一」という言葉が大好きだ。だが、そうした言葉に最も苦しめられてきた。

祖国のために

民族のために

統一のために

どれだけの人々が生命を落としてきたのか、どれだけの犠牲が無かったことにされてきたのか計り知れない。

   だから私はそんな言葉を使いたくない。「国家」や「民族」という言葉で人を殺してきた南北両国の国旗に染みついた血を「統一」という言葉で漂白したくないのだ。

私は政治指導者たちの握手を見て、どんちゃん騒ぎするのではなくて、静かに犠牲なった人々を想いたい。

  ふと、阿賀のお地蔵さんのようなものが38度線にあったらいいのにと思った。この前であらゆる人々が南北の間で犠牲なった人々を想いながら手を合わせることができるようになったとき、初めて「統一」という言葉を使いたいと思う。

そんな日を心待ちにしている。