まだ「競争」をし続けなければいけませんか?

 民進党がまだ野党第一党で、蓮舫氏が代表だった頃を憶えているだろうか。
私は今でも忘れられない。
 あの時、蓮舫氏に二重国籍疑惑が持ち上がった。
自民党小野田紀美議員は自ら二重国籍状態であることを公言し、自らアメリカの国籍を捨てたと発表した。これが蓮舫氏に戸籍謄本の一部を公開させるひとつのきっかけになった。
 つい先日、彼女は蓮舫氏の二重国籍疑惑が持ち上がった時のことについて、産経新聞の取材でこのように答えていた。

『私も小さなころから「ガイジン」といじめられ、石を投げられました。本当の意味で差別をなくすためには隠してはいけない。隠すから「怪しい」「日本に牙をむこうとしている」と疑念を抱かれる。隠せばいいと考える人は、書類を隠しても顔で分かる人たちのことを考えているのでしょうか。』
産経新聞より)

www.sankei.com


 在日であることを隠して生きている人たちはたくさん居る。
それには色々な意味があるが、第一に自らが語らないことによって、差別される対象から逃れたいという理由が多いのではないかと思う。
 この国で生きていくためにはどうしても「日本人」でなくてはいけない。
 最近、私が本を出したことで、色々と家族から言われるのだが、特に末の妹から言われるのは私が有名になることによって、妹自身が在日であることが公になってしまうことへの怖れだ。
 今でも在日と日本人の間には結婚差別があり、多くの人がその差別のために愛する人と別れざるを得なくなった歴史がある。
妹は結婚できなくなってしまう可能性があると思っているのだ。
 結婚差別だけではない。
 以前も書いたことだが、ハローワークに通っていたころ、「帰化はされていますよね?」と言われたことがある。
一体、あの質問は何を確認するためだったのだろうか。
 現実の世界ではなく、次はインターネットの世界を見てみよう。
ネットの掲示板や心無いサイトには誰が在日なのかを明記して、その人を平気で「チョン」だの「半島に帰れ。」だの言っている。
 隠したくなるのも当然の社会だ。
 私個人の考え方として、私みたいに在日であることをカミングアウトする自由もあるし、逆に隠す自由もあると思う。確かに自分のルーツを自由に言える社会が理想だが、それを誰かに強要するわけではない。
余りにもリスクが大きすぎる。

 小野田議員様が仰るように私は在日であることを隠さないで生きているのだが、これはこれで気づくことがある。
どうやら日本の人たちは日本の人たちが思うようなステレオタイプの在日や外国人が好きらしいということだ。
テレビを観ていれば、日本が大好きな外国人を特集するテレビ番組は放送されているし、私の身の周りに目を向けてみると「在日らしい在日」を見つけ出し、その人たちを応援し、「それらしくない在日」に対して、「在日とは。」と平気で説教する。
 当事者側もいつの間にか「日本人が考える在日らしい在日競争」や「日本人が考える外国人らしい外国人競争」を始める。
 私が知っている範囲内で言うと、「日本人が考える在日らしい在日競争」で一番になるのは、民族学校に通い、韓国籍朝鮮籍を有し、民族名で生きて、なおかつ韓国語を喋れる在日たちだ。
私のような日本国籍を取得し、日本語しか喋れない立場は「君みたいに日本国籍を取った人は早く日本人になれ。」ということを言われ、無かったことにされてしまう。
 ちなみに「日本人が考える外国人らしい外国人競争」で一番になるのは、目が青くて、彫りが深くて、バイリンガルであるということ。
 私が高校時代に「クォーター」であることを告白したことがあるが、その時に出た言葉は「えー!彫り深くないじゃん。」という言葉だった。
 こんな現状に絶望すると次は「誰が日本人として相応しいか競争」が始まる。
他の人たちよりもわざと「愛国的」なことを言い、わざと「日本人」らしく振舞う。
そうすれば日本の人たちからは「ああ、この人は日本のことを分かっている!」と褒められる。
そのうち、こういう人は日本人になりきって、他の在日や外国人たちを攻撃し始める。
 そんなグロテスクな競争に参加する気はないが、こういう競争に真面目な人たちほど参加してしまうみたいだ。
小野田氏が勝ち誇った顔で語ってしまうのも、蓮舫氏が戸籍謄本を公開してしまうことも、真面目であるが故にだろう。
 その一方で、彼女たちは真面目な割に、憲法に定められている日本国憲法擁護の義務についてはどうでも良いらしい。
 両者ともに、日本人が作り上げたお立ち台に乗る形で、人種差別に加担してしまった。
そう言えば、私が蓮舫氏を以前、批判した際に、「差別されている人にこういう言葉を向けるのは可哀想だ。」と言われたことがある。

ここで公職者とは一体何なのかを考えて欲しい。
もし、彼女が公職者でなければこういうことを言わなかっただろう。
それは小野田氏も同様だ。
彼女たちの役割というのはそれほど大きいし、これからも影響してくるだろう。
 在日や外国人というのは人種動物園の檻の中でしか生きてはいけないのだろうか。
そのような檻がどれだげ悪意的なものであって、また善意的なものであるかということを知っている。
 その檻の存在が、私たちの間で無意味な「競争」を促し、さらに「アイデンティティーに悩んでいる」という安易な言葉で肯定してしまう。
もういい加減、そんな檻から抜け出して、「競争」を止めにしたい。