あの町議をどうするのか

 Facebookでヘイトコメントをしていた奈良県安堵町の増井敬史町議が辞職した。
増井氏は何名かの国会議員を名指しして、彼らを「在日コリアン」だと決めつけ、「股裂きの刑にしてやりたい」と投稿していた。
 この報道がされる際、とある報道機関は「国会議員への侮辱発言」として報道していたが、私はこの見出しに違和感を感じた。
国会議員を「在日コリアン」だと決めつけることは明らかにヘイトスピーチに該当すると考えられるが、もしかしたら、増井氏の立場に立ってみればただの「侮辱発言」なのかもしれない。
 ヘイトスピーカーたちは決して、自分たちのやっていることを間違いだとは思っていない、増井氏が会見の中で言ったように「日本のためにやっている。」と本気で思っている。
 彼らに社会的な制裁を加えることは簡単だ。
しかし、制裁してしまえばしまうほど、私は逆効果になってしまうのではないかと思う。
昨今のヘイトスピーカーたちを見ていると、社会的制裁をを受けることを「言われもない被害」として語っている。
 どうやら言論の自由表現の自由を行使しているのに、それを侵害されていると思っているらしい。
私たちには分からない彼らの中の被害妄想がそうさせているのだろうが、そういった思考回路を持つ人たちと話し合うのはなかなか難しい。
 私は本人の弁明をインターネットで見たが、こうした辞任劇はもしかしたら、思わず、話題が広がってしまったからではないかと感じた。
 この辞任を喜ぶ人たちもたくさん居たが、私の心の中では何か違和感だけが残った。
 政治家ほど辞めやすい仕事はない。
真面目に仕事をしている政治家さんたちには大変申し訳ないことだが、有権者としてそう感じてしまうことがある。
ずっと昔から、政治家たちを見ていると、何か不祥事があるたびに、議員辞職をし、いつの間にか「みそぎ選挙」と題して、次の選挙を戦い、再び議場に戻っているケースが多いからだ。
本来、「貴方はそこに居るべき人間なのか?」と言いたくなる人間も居るのだが、選挙で勝利したことを口実にあたかも過去の犯してしまったことがなかったかのように居座っている。
 確かに、選挙は民主主義国家の中で民意を表明する大切な機会であることは間違いないが、それは不祥事を犯した政治家の禊をするためのものではないはずだ。
 増井氏も、もしかしたら、この後に選挙に出馬するつもりなのかもしれない。
そう思うほど、私は怖さを感じた。
だって、何がいけないのかを分かっていないのだから。
 彼らに対して「それは違う」と抗議するのと同時に、彼らに対してどうやって間違っているのかと伝えていくことはとても大切になっていく。
 偏見はなかなか直るものではないことは経験的に知っている。
だが、こうして分断されている状況の中で、どうにかしてヘイトをまき散らしている側を1人でも減らすための試みを私たちはしていたのだろうか。と思わず自問自答してしまった。
 日本では行政システムを見ても、罰を与えるだけで終わってしまう。
だが、ヘイトスピーチの場合は罰を与えるだけではなくて、更生するための手段だって必要になる。
さらにヘイトスピーチをまき散らす側が再び社会の中で共に生きていけるようにすることも大切なことだ。
このような一連の「和解」をどのようにしていくかを考えていかなければこの出来事から何かを学んだとは言えない。
 私はこの一連の辞任劇を辞任したからおしまいとする気は毛頭ない。
むしろ、この辞任劇を終わらせるのではなく、ヘイトスピーカーたちを更生させ、再び共に生きる道をどのように構築していくのかと考える機会としたいと思う。
 ヘイトスピーカーたちを叩くことは簡単かもしれないが、彼らに痛みを知ってもらい、共に同じ社会の中で生きていけるようにするためにどうするかを考えなくてはいけない。
 あの町議をどうするのか。
今、そんなことが問われている。